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あの頃の僕は  作者: うえのきくの
3/12


それから僕はまた、夜の街に通うようになった。

 サツキも僕を思ってくれていたというのに、それに答えられない自分。きっぱりと好きじゃないなどと言うこともできず、ずるい言葉で逃げた自分。

 溢れそうな気持ちをどうすることもできずに僕は、週末ごと相手を探して夜に紛れた。


 最初の小学校から転出した四月。新しい学校は桜が丘という駅のそばに建っていた。

 桜が丘はその名の通り桜の名所である大きな公園を望む場所にあるのが由来らしい。

 前の学校からは少し離れたその公園に、あの年は花見に来た。確かかあの時も言い出したのはサツキだった。みんなで弁当を持って桜の木の下で食べたのがつい昨日のことのようだ。

 あれはもう六年も前のことになってしまった。僕はすっかり駄目な大人になってしまったよ。

 きみのことを今だ忘れられず、またきみに似た人を探すんだ。

 もしももう一度会えたら、あの日のことを謝りたいな。きみが勇気を振り絞ってしてくれた告白を僕は無下にしてしまった。きっと子供だったから相手にされずごまかされたと思っただろうね。

 でも僕は何度あの日に戻れたとしても、きっと同じことを言ってきみを傷つける。どれだけ後悔しても、やっぱり僕はあのときのきみの手を取らなくてよかったんだ。

 だって僕は──汚れてしまったから。



「あ、タモツ? 和文だけど、今夜時間ある?」

──大丈夫。和文さんいま、どこ?──

「ん、まだ会社の前。駅ついたら連絡する」

──うん、待ってるね──


『タモツ』は、何にも篤生に似ていない男だった。

 あれは篤生の誕生日で、どうしてもひとりでいたくなかった僕に声をかけてくれたのがタモツだった。あの日に限って誰も捕まらず、もっと評判の悪いバーにでも場所を変えようかと思っていたところだった。

 どんなに邪険に扱っても、勝手に振るまっても、たとえ、ベッドで他の男の名前を呼んだってタモツは呆れることなく、連絡は途絶えなかった。

 誘えば決して断らない便利な男。どうしようもなく寂しい夜、そうとは言わずにタモツを呼ぶ。そうすればちぎれんばかりに尻尾を振ってタモツは来る。そして宝物のように僕を抱く。

 僕はタモツのことなんてなにも知らない。苗字も歳も、何してる人なのかも。向こうだって知らないし聞かれたこともない。ただ会って、一時を過ごして、別れるだけ。次の約束なんかない。今日の別れが今生の別れになったとしても、きっとお互いなにも感じないだろう。そんな関係。

 タモツはいつも、あまりに優しく僕に触れる。同じ人と長い間関係を続けることが最初の恋人以来なかったから忘れてしまったけど、人と抱き合うってこんな風だっけ? と考えることもある。

 一晩だけの恋人たちは、時として力で屈服させようとすることもあった。殴られたりしたこともなかったわけじゃない。縛るのが好きな男もいた。

 でも、タモツは違うのだ。本当に優しく、まるで僕の傷のありかを知っていて、そこを癒そうとするかのように抱き締める。溶かされるように緩められ、波にたゆたうように揺らされていると、愛されているんじゃないかなんて勘違いをしてしまう。でも、一度だってそんなそぶりを見せたことなんてなかったからそのままずるずると関係を続けている。

 仮に好きだなんて言われたら、きっとそこで終わりだ。

 だって『特別』なんて、もう要らないのだから。


「和文さん、泊まってく?」

「ん……帰る」

「シャワー使う? 手、貸そうか」

「まだいい。タモツ、先に帰っていいよ」

 じゃあ、またね。とタモツは帰っていった。

 しばらくぼんやりしてから、ダルいからだを引きずってシャワーを浴びる。熱いお湯を頭からかぶっているこの時間がいつも嫌いだ。自分はいったい何をやっているんだろうと気分が塞ぐ。


 いつの間にか、教師になって九年経っていた。

 自分が教師だということをもちろんタモツには言っていない。

 新しい学校に移って落ち着かないから、しばらく連絡できそうにない。その事を言うのを忘れていた。どっちにしろ、約束をしているわけじゃない。したいときに電話をするのは変わらない。会いたくなければ連絡しないそれだけだ。

  

 何かと忙しい四月が終わりに近づくと大型連休はすぐそこだ。

 今年は一年生を受け持っている。教室に入ったときの、あまりに小さい子供たちにビックリするのももう馴れた。

 日本語さえたどたどしいのに足し算引き算に頭を捻る彼らは未来そのものだ。

 もし言うことができるなら、彼らがどれだけ僕を支えてくれているのか、いつか打ち明けてみたい。僕の闇を、彼らはどんな風に感じるのだろう。


 特別親しい友人も、恋人もいない僕のゴールデンウィークなんて、これほど意味のないものもない。実家だって三十分でつくし、一人旅にも興味がない。

 ただ長いだけの休みを部屋の掃除と録画したまま見ていなかったテレビ番組の消化に充てているとタモツから連絡が入った。


──今夜どうですか?──


 ……コイツも友達がいないクチなんだろうか。今日は五月五日。まだ休みは続くだろうに。


『いいよ、七時に駅で』……っと。


 時間には少し早かったけれど家を出ることにした。何日かぶりに外に出る。待ち合わせまでに、服や本でも見ていこうかと少し楽しい気分になっていた。

 夕焼けがきれいな時間。昔はこの時間に空を見上げることさえ辛かったときもあった。年を取るごとに痛みもうすれ、今はただ美しいと思える。

 だんだん日が長くなっている。買い物客や帰りを急ぐ人で賑やかな街に、不意と視線の端に引っ掛かるものがあった。 

 僕は目を凝らす。まさか、そうだ、あれは。


「長沢くん……長沢紗月くんじゃない?」


 大きく開いた瞳で見上げる彼を、僕もじっと見つめる。卒業以来会っていないけれど、きっと間違いない。優しげな顔立ち、こぼれそうな瞳、左右に跳ねてしまう髪。あの頃よりずっと大きくなったけれど、面影はそのままだ。

 幼かった彼を頭で重ね合わせてみて、口許が緩んでしまう。

 彼はといえば今きっと頭の中でキリキリと検索がかかっているのだろう。今まで出会った人の中から、僕に似た人を探している、そんな表情だ。

「……武内先生?」


 僕を認識して彼が戸惑いを見せたのはわかった。それはそうだ。彼は僕に振られたのだから、穏やかな気持ちで再開を喜べはしないだろう。何事もなかったように話しかける僕は、きみの目にさぞ無神経な男に写っているだろうね。

 僕は必死に自分の感情を圧し殺していた。

 自分でも不思議なほど、少し大人びた彼に一瞬で心を奪われた。あの時、絶対に漏らしてはいけないと思っていた気持ちが固く閉めた蓋をこじ開けて吹き零れそうになっている。

 あの時はどんな奇跡が起こってもふたりで生きられる道はないと思っていた。でも今は。

 彼ももう大人だ。守られるばかりの子供ではない。

 もしも彼に、彼の心に僕が残っていたなら、今度こそ僕はきみを離さない。必ずその手をとって一緒に歩いていく。


 顔を見ていたら、自分の中の黒いものや狡いものが彼の前に晒されそうになる。そんなものをきれいに隠して当たり障りのない会話をしようとした。

「久しぶりだね、元気そうだ」

 彼が立ち止まり動かなくなった店のドアを見上げた。雰囲気のあるカフェだった。

「……もしかして、デートだった?」

 彼だって健康な十八歳だ、恋人がいてもおかしくない。一瞬背筋がヒヤリとし、胸がよじれるほど苦しくなった。

 自分勝手に思いを膨らませたあげく自己中心的な嫉妬なんて笑わせる。でも止まらなかった。胸から弾け出た気持ちが制御できないくらいにサツキに向かって駆け出そうとしている。

「ち、違います! ここのケーキを買って帰ろうと思ったら、先生が……」

「ケーキ?」

 今度は僕の頭が検索を始める。とたんにあの頃にことが頭を回り始めた。連休前に五月生まれの子供たちの誕生日会をしていた。誰が言い始めたのか、毎月誰かの誕生日を祝っていたのだ。

 サツキはたしか、連休中が誕生日で……

「あ、思い出した。 五月五日、こどもの日。サツキの誕生日だ!」

 サツキはキョトンと驚いた顔をした。忘れるわけがない。頭のなかだけで生きていたサツキの、ひとつひとつが大切な思い出だった。

 体全部が薄汚れてしまった僕のたったひとつ残ったきれいな場所にしまわれていた思い。

 今日を一人で過ごすなんて、今恋人はいないのだろうか。

 せっかく会えたのに別れがたく、誕生会をふたりでしようなどと言って、彼が入ろうとしていたカフェに一緒に入った。

 サツキのイメージにあまりそぐわない落ち着いた店内は、天然木をふんだんに使った内装が老舗を思わせる。彼のように若い子ならシアトル系のチェーン店が似合いそうなのに。


 席についてから、あまりに子供っぽい提案だっただろうかと失敗を反省したが思いの外誕生日を覚えていたことが嬉しかったらしく、硬化していたサツキの態度がほどけてきた。はにかむような微笑みは以前にはなかったものだ。

 うれしい。こんななんでもない発見が、サツキが相手だとたまらなく嬉しい。


 サツキは嬉しそうにケーキを頬張りながら、いろんな話をしてくれた。学校のこと、友達のこと、部活のこと。

 聞きながら僕は鞄の中の一冊の本を思い出していた。

 世界一有名な王子さまの話はサツキも読んだことがあるかもしれない。そうだとしても。

「まさか会うなんて思わなかったから、なにも用意してなかったんだけど、お誕生日おめでとう」

 鞄から古ぼけた本を差し出すとサツキはそれを両手で受け取った。

「これをっていうより、これを読む時間をプレゼント。もう読んだことあるかもしれないけど大人になってからだとまた違う風に感じるよ?」

 そう言うとサツキは少し微笑んで「ありがとうございます」と、きれいとはいえないその本を大切そうにしまってくれた。

 きみは本当にいい子に育ったんだね。


 篤生が残した本は、僕の部屋においてある。サツキに渡したのは同じ本の文庫版。

 しばらく篤生の本を手放せなかった小六の僕は、外に出られるようになってすぐに、同じ本を文庫で買った。

 これならどこにでも持っていけるし、篤生の本はこれ以上汚れない。

 こんなの自己満足だと知っている。

 篤生がなにを思ってこの本を読んだのか、僕になにを感じてほしかったのか。その答えを持ったまま、彼は逝ってしまった。僕にはまだそれがわからない。

 だったらその答えごと思い出ごと、サツキに持っていてもらいたかった。


 外が暗くなってきて、僕はサツキをこのまま返したくはなかったけれどそれでも解散することにした。

 ここで別れてしまったらもう会えないんだろうか。僕はまた、こんなもどかしい気持ちを抱えたまま心が凪ぐのを待たなくてはいけないんだろうか。

 不意にコップの水が表面張力を破ってこぼれるように、僕の口から隠していた気持ちが溢れてしまった。

「サツキ。あの時の告白、まだ有効だろうか」



今日もありがとうございました。

明日もこの時間にお邪魔します。

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