なんとかは犬も食わない
本編から少しあとの犬も食わないお話です。自分で書いてて「爆発しろ!」とか思ってた。
それでは一緒にお付き合いください♪
額から滑り落ちた汗があごを伝い和文さんの鎖骨にこぼれた。まだお互い激しく上下する胸はそれでも穏やかな幸せを感じていた。
目を伏せた和文さんを潰さないようにゆっくりと体を横にずらす。
明日は日曜。
軽くシャワーを浴びてゆっくり眠ろう。和文さんはまだキツそうだから先に、と体を起こした。すると、くるりと寝返りをうった和文さんがスルリと腕を回してしがみついてきた。
ドクンと心臓が鳴って、思わず少し浮いた和文さんの背中を抱えるように抱き締めた。
珍しいのだ。最中はあれだけど、だいたい和文さんはクールだ。体が動くようになればとっととシャワーを浴びて『明日も早く起きろよ』とかなんとか言って寝てしまう。
照れくさいのかなんなのか甘い雰囲気になんてなりやしない。
ま、いいんだけどね。男同士だし、甘くなんてなくっても。
だから今日の甘えたような和文さんは貴重だ。その上しがみついた腕にきゅっと力が入ったと思ったら、耳元に鼻先をすりすりと擦っている。
……うーーわーーー。どうしよう。なんでこの人今日はこんなにかわいいの!
たまらず俺の手も支えるだけではない動きを始め、さて今度はどうやって仕掛けようかとプランを練り出した矢先、耳に唇を寄せた和文さんが、かすれた声でささやいた。
「…………」
瞬間、頭が真っ白になり忙しなく動いていた手も固まってしまった。泣きたいのか、怒鳴りたいのかもわからない。
とにかくここにはいられない。ほんの数分前まで、俺は世界一幸せだと思っていたのに。
驚きの表情を見せる和文さんの髪をさらりと撫で俺はベッドを降りた。その辺にあったタオルで体を拭い、脱ぎ散らかしていたTシャツとジーンズを履いた。
背中に和文さんの視線を痛いほど感じるけれど、怖くて見ることができない。そのまま、財布だけポケットに突っ込んで家を出た。
どうして、どうして?
*********
寿が突然家を出ていってしまった。
一人残された僕は、ひどくなって後悔していた。
あんなこと言わなければよかった。あまり友達がいなかったせいか、うまく自分の感情を表に出すことが苦手だ。寿に対しても素っ気ない態度をとってしまったり、冷たく感じるような言葉を浴びせてしまったり。
口に出した直後に、自分でもわかる。もっと違う言い方があったのに、優しい態度がとれたのにと。
それなのにいつも謝る前に、寿は僕のそういう不器用な性格をわかってくれて「和文さんたら、照れちゃって」なんて茶化してくれる。
そういう彼にどれだけ救われてきただろう。
でも、それでは駄目だということも、もちろんわかっている。思ったこと感じた気持ちは言葉にして形にして表さないといつか伝わらなくなる。一方的にわかってほしいなんてただの甘えだと思うから。
いつも、いつも切迫した焦りを感じていた。恥ずかしいだなんてもう言っていられない。寿に呆れられてしまう前に、何とかしなくては。
欲しがっているのは寿だけじゃない、僕だって強い気持ちで寿を求めているのだと伝えたくて。
決死の覚悟でささやいたその言葉は。大きな声で、顔を見つめてなんてとても言えなくて、その首にすがり付いてあらんかぎりの勇気を振り絞って囁いたその言葉は。玄関のドアがしまると同時に、部屋の隅に転がって消えた。
********
夜の町をさ迷いながらぐるぐると考える。
いつからだろう、いつから和文さんは彼に惹かれていたのだろう。 初めて彼にあったのは、あの写真撮影の時のはず。そのあとは俺が知る限り、撮った写真の中から現像してもらうものを選びに行ったあの日だけだ。
俺の知らないところでふたりは会っていたのか。それとも、和文さんの秘めた想いなのか。
それにしてもあんなにいとおしそうな声で、切なげに囁く名前なんて生半可な気持ちではないはず。嫉妬で胸がよじれそうに苦しい。
気持ちを確認して付き合い出す前。和文さんは俺を亡くなった兄ちゃんの代わりにして関係を持っていた。その頃だってわかってはいたけれど、腕の中の愛しい存在が兄ちゃんの名前を壊れたおもちゃのように繰り返し呼ぶのを。届かないと知って、それでも闇の向こうに手を延ばすのを、身を切る思いで聞いていた。
いっそ、ふたりで泣いてしまいたかった。
あの頃はそれでも耐えられた。あんなにすれ違った関係でも和文さんを支えられているという自負があったから。本人にその自覚はなくても、俺の方へ心が傾いてくるのをわずかながらでも感じることが出来たから。
同じようでも、今のこれは全然違う。俺に触れていても心は違う人のものなのだ。俺に悪いと思って切り出すことができないのか、それとも、彼の状況との兼ね合いを見計らっているのか。
いづれにしてもその恋は、大勢を傷つけるいばらの道を行くことになるだろう。
どこまで歩いても振りきることが出来ない。だんだん夜が明け空が白み始める。
いつの間にか入り込んだ公園のベンチに座り、終わってしまうかもしれない優しい日々を思い返して、喉の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。
********
ベッドの上から動けずに、明けていく空を見ていた。
泣き張らして、たぶん酷いことになってるだろう目も、もうどうでもいい。
もう、帰ってきてくれないかもしれない。寿はきっと、乱れきったあの頃の僕を思い出したのだろう。
今考えてみれば、ちっとも似ていなかったのに、同じ場所のほくろや傷や、ちょっとしたしぐさに惹かれて誰彼構わず夜を過ごしていたあの頃。あんな無茶をしても心は満たされず、そんな僕を寿は静かに見守っていた。
聞けば寿が僕を見かけたのは声をかけられたあの日が初めてではなかった。何度も何度も、目の前で男を誘い消えていくのを見ていたのだという。それは、簡単に忘れられるものではなかっただろう。
夕べのつたない誘惑は、そのときのことをまざまざと思い出させたのだろう。
いつもそうやって誘っていたんだろう? 人の気持ちを利用したんだろう?
……やっぱり僕はささやかな幸せさえ望んではいけないことをしてきてしまったんだろうか。
もう、後悔なんかしても、傷つけた寿は戻らないかもしれない。それでもせめて、言い訳になるかもしれないけれど、本当に本当に寿がくれる惜しみない愛情を、ちゃんと返したかっただけなんだよとそれだけを伝えたかった。
********
公園に子供たちの声が聞こえてきた。いったい何時間ここで頭を抱えていたのだろう。今が何時かさえわからないでいる。
まだ沸々と溢れる、怒りだか悲しみだかわからない感情に任せて、また歩き出した。これから俺はいったいどうすればいいんだろう?
歩き出した先に、今、一番会いたくない人が立っていた。そういう時間なのだろうか、ほうきとちり取りをもって店の前を掃き清め、開店準備をしているようだ。
「あれ? 小鳥遊さん、おはようございます」
「……おはようございます、藤原さん」
そこは、あの写真館。
そしてこの目の前にいる人の名前を、夕べの和文さんは囁いた。
『……も、と……き……』
思わず頭を振る。あの声を、絡まった腕の温度を振り落としたくて。
その名前を聞いたのはたった一度。写真を撮ってくれた奥さんが覗いたファインダーの中の俺たちを見て感極まって涙した。ティッシュを求める奥さんが一度だけ呼んだ彼の名前。
それは俺にとっても印象的な場面で、確かに彼女の撮った写真たちはあまりに鮮やかにその時の俺たちを切り取っていた。あらゆる喜びと感動と、それに合わせて刷り込まれていた彼の名前。
皮肉といえばこれ程のものもない。
「どうされたんですか、こんな早い時間に。良かったらお茶でもいかがですか?」
「……あ、いえ。俺はこれで……」
「……さあ、どうぞ。なんだか朝からすごく疲れた顔をしてる」
すっかり心が折れていたせいか、誘われるがまま俺は写真館の中に連れられていった。
────違う。彼は奥さんを裏切ったりしていない。
明るく誘われたお茶の席で、はっきりそれはわかった。
彼は奥さんの触れたカップやスティックシュガーまで愛しく思うのだろう眼差しで、彼女を見ていた。そして奥さんもそれを十分感じながら、しぐさだけでそれに答えていた。
どんな経緯で二人がここまで来たかなんて知るはずもない。でも、揺らぎない何かが二人にはあって、互いに思い合う気持ちの間には入れるようなものでないことは眩しいくらいにわかる
「どうしたんですか? 本当にひどい顔をしていますよ。何か困ったことでも?」
「……情けない話なんですが、彼が……和文さんが浮気しているかも知れなくて……でも怖くて聞けなくて。まだ俺はこんなに好きなのに……」
気を使ってくれたのか奥さんは静かに席を立った。
「そう……辛いですね……。あの、お二人の写真撮影の時、うちのが泣き出しちゃったの覚えていますか?」
「はい……」
「あれね、本当にお互いがお互いを大事に思っているのが見えてそれがあんまり優しいから泣けたんだって」
「……」
「ここだけの話。うちの奥さんね、カメラを通したときだけ人の気持ちとかが見えちゃうみたいなの。嘘ついて笑っている人もわかるし、意地悪な気持ちの人もわかる。」
「……は?」
「信じられないでしょう? 俺もそうだった。でもずっとそばにいて見てきたから、これは本当。小鳥遊さんは武内さんの痛みや傷を柔らかく包んでいるのがわかったし、武内さんはそういう自分を乗り越えてその上で小鳥遊さんのことが好きで好きで仕方ないみたいだって。合ってます?」
「合っ……てるって、ええ?」
確かにその通りだけど、第三者から言われると死にそうに恥ずかしい。顔が一気に熱くなる。
藤原さんはそんな俺を見て笑いながら続けた。
「手前味噌だけど、あの写真は本当によかった。俺もあれ見て少し泣いちゃいましたよ。うちの写真は嘘つかない。武内さんの心の中に小鳥遊さん以外の誰かがいるなんてあり得ない。小鳥遊さんがどうしてそういう風に思ったかはわからないけど、一度話し合った方がいいと思いますよ。大丈夫、きっと悪いことにはなりません」
「……はい」
お茶をごちそうになって、俺は部屋に向かって歩き出した。なんて聞いたらいいんだろう。藤原さんの言う通り、和文さんが心変わりなんてしてなくて、あのとき呼んだのが彼じゃなかったとして。じゃあ、なんて? その言葉は正しく俺に伝わっていなくて……あれ、もし凄く大切なことだったら? それを聞き逃して、俺、飛び出してきちゃった……もしかして大変なことしたかもしれない。
********
ガチャガチャッ……慌てたような靴と玄関を開ける音がして、すぐに息急ききって寿が部屋に飛び込んできた。
あれからずっとベッドの上で膝を抱えていた僕は夢を見ているのかと、音のした方を見つめた。大きく肩を揺らし汗をかいた寿が、寝室のドアノブを握ったまま立ち尽くしていた。
「寿……」
ごめん、ごめん。嫌な思いさせて本当にごめん。そう言いたいのにまた、僕の唇は重たくなってしまう。
怖くて怖くて、腕が肩が、唇がわなわなと震えだした。自分の腕を抱き締めて震えを止めようとするけれどうまくいかない。
「和文さん……」
「うん……なに? 寿」
ごめんなさい、ごめんなさい。心の中では叫べるのに、実際の僕はただ目の前がぼやけるだけだ。こんなときなのに、ああ、僕はおかしいのかな? 今、寿がここにいてくれて、ただ嬉しいんだ。
ひとつまばたきをしたら、涙が落ちた。
「……さっき、なんて言ったの?」
「……は? ……え?」
なんて言ったの、って? なにそれ、伝わってなかったってこと?なのに怒って飛び出した?
いったいなんて聞こえたの? あの決死のお誘いが。
「なんて、聞こえたんだよ」
「いや……和文さんはなんて言ったのかなー……って」
夕べ一晩、僕は後悔していた。もし、寿が戻ってきてくれるなら、なんでもするって思ってた。だから
「……もっと、きて……って言ったんだよ。いつも寿に、もらってばっかだから、返したかったんだよ。好きだ、って気持ち。僕だって、いつも、寿が欲しい。……あ……愛しているから」
********
……ど う し よ う……
めちゃめちゃ嬉しいー……
和文さんは恥ずかしさのあまりか、俺が戻ってきたからか、うつむいてポロポロ涙を流している。一晩中泣いていたのだろうか、まぶたは腫れているのに落ち窪んだようにも見える。顔色は悪く、髪の毛はボサボサだ。
それなのにこんなにきれいな人はいないと思える。
「ぼ……くが、、あん、なこと言ったから、寿、昔の僕を……思い出して、やっぱりきた……汚いって、思っ……たのかって」
ああ、そうか。和文さんは心のどこかでずっと気にしていたのか。甘えたり頼ったり、例えば夕べみたいに素直に求めたりすることで俺が嫌悪を感じると思っていたんだ。あの頃のこと、俺が思い出すって?
「和文さん。和文さんは俺のもんだ。もう誰にも触れさせない」
和文さんの左手をとる。学校から帰ってくるとつけてくれる指輪。休みの間中薬指で輝く指輪に口づける。
「俺はね、和文さん。和文さんが違う男の名前を呼んだように聞こえて嫉妬したの。……和文さんがさ、兄ちゃんを探していた頃は和文さんが幸せになれんなら相手なんて誰でもいいって思ってたときもあったよでも今はダメだ。俺じゃなきゃだめ。ごめんね、勘違いなんかしちゃって。ごめん、本当にごめんなさい」
「寿……ほんとに僕でいいの?僕は……」
「いいんだ。和文さんがいい。和文さんがあんな無茶してなかったら俺たち、こんなことにはなってなかったと思う。だから汚いなんて言わないで? 大丈夫、和文さんは誰よりもきれいだよ」
それから和文さんはひとしきり泣いた。その間、俺はしっかりと彼を抱き締めていた。また彼に触れられる。一緒にいられる。昨日の夜からずっと世界一不幸せな男だと思っていたのに、急浮上だ。自分でも凄くしまりのない顔をしているとわかるほどに。
俺のシャツでぐいぐい顔を拭いた和文さんがそっと顔をあげ潤んだままの瞳で聞いた。
「……それで、寿は僕は誰を呼んだと思ったの? 何で勘違いだってわかったの?」
「え……っと、それはー」
その日の午後、俺と和文さんは菓子折りを持って藤原写真館を訪ねた。俺は朝っぱらから多大なご迷惑をお掛けした旨を平謝りし、和文さんも見たことのないほど赤い顔で頭を下げていた。
お詫びといってはなんだけど来年から四月の第三週の日曜日にはふたりで記念写真を撮ってもらう予約まで入れてしまった。これは一生俺持ちらしい……まあいいや。だって和文さんが笑っているから。今はそれより大事なことなんて、ちょっとないから。
********
あれから何となく、寿に素直にいろんなことが言えていると思う。
休みの日にデートしよう。
椎茸は嫌いだ。
一緒にお風呂に入ろう。
好きだよ。
肉まん食べたい。
もう一回しよう?
過去に自分がしてしまったことや、年上なこととか、気にしすぎて無意識に押さえていた言葉を口にできるようになった。言えば寿が笑顔になってくれることもわかったし
あんな決死の覚悟で伝えるべきことじゃなかったんだよ。毎日毎日、呼吸をするように言わなくちゃいけないことだったんだ。
今日も明日も、愛しているよ、ってね。
写真やさんの二人も実は別のお話で一本書いているのですが(それ読んでもらわないと伝わらないとは思いましたが)こっちを先にupしちゃいました。
いつか機会がありましたら読んでいただきたいなあ。
明日で最終回です。本編から数年後の二人をのぞき見してください。
23時ごろお会いしましょう。