2話
桜が散り、大気が徐々に熱を帯びてきた。何をするにも過ごしやすいこの時期は、なかなかいいものだと思う。そんな頃の、ひと気もまばらな朝のキャンパスは最高だった。
だが、こんなことになるくらいなら、自らの欲望に身を任せて、あのまま目覚めずに二度寝していた方が幾分マシだったと後悔する。
「……どうして俺の名前を知っている」
「じゃあ、キミが三条翼くんなんだね!?」
もう、どうにでもなれ。
「ああ、さっきは適当なこと言ってすまなかった」
そう聞くと、先刻の疑いの表情から一変、今度は混じりけのない純度百パーセントの笑顔を見せている。
「ホント? 私、ずっと三条くんのこと探してたんだよ!」
どういうことだ? まったく話が読めない。
「同じ学部で知らない人、キミだけだったから。まあ、同学年の人たち限定の話だけど」
おいおい、中学高校ならともかく、ここは大学だぞ。同じ学部だけでも、何百人の学生がいると思ってるんだ。俺には到底理解できない。まるで異星人が未知の言語で俺に話しかけているかのようだった。
「お前は、学部の奴ら全員と知り合いなのか?」
「うん、いま三条くんと会えたから、そうなるね」
きっと、百人友達作って富士山の上でおにぎりを食べたい! みたいな小学生並みの願望を抱いてるんだろうな、こいつは。
「去年は本当に頑張ったんだよ。学部全員の名簿までもらってさ。でも、三条くんだけは誰も知らなかった。同じ学科なのに、二年生になって初めて顔を合わせるなんて、不思議」
いまのうちに告白しておくが、俺は誰とも関わらずに卒業するつもりだった。結構本気で。
そもそも大学というのは、自ら行動を起こさないと何も起こらない場だ。だが裏を返せば、人と交流を持とうと動かない限り、誰とも繋がりのない状態で生活していけるということでもある。俺はそれで満足していたのだ。
一般的に言えば、俺は異常なのだろう。それは自覚している。しかし、異常という一点においてはこの女も同じだ。なぜ、そんな無意味とも思える行為をするのか。そんなに交友関係を広めたところで、面倒なだけだろう。
「どうしてそんなにオトモダチを作りたいんだ?」
俺が投げかけたのは、純粋な疑問だった。『何故』という問いは、人間の発展を支えてきた根源的なものである。俺は、それを渚に向けている。これは、彼女への興味に他ならないだろう。言い知れない魅力。渚は、それを持っていた。
「強いて言うなら、変わりたかったから……かな?」
それまで俺に向けられていた、渚の底抜けに明るい表情が、ほんのわずかだけ陰りを見せる。
「私、大学に入るまでは引っ込み思案で、友達も少なくて。でも、そんな自分を変えなきゃって思ってて。だから、大学に入ったのをきっかけに頑張ってみたの」
なるほど、この子はもとから今のような性格になったわけじゃなかったのか。そうすると、彼女は昔から相当変わったはずだ。人と関わることを嫌い、逃げてきた俺とは大違いだな。大学に入って一年過ごしたが、俺は何も変わっちゃいない。本当に、自分でも呆れるくらいに、何の変化もない。他人とのつながりを拒み続けて、今まで生きてきたのだから。
変化といえば、大学に入ってからコンビニでバイトを始めたくらいか。人づきあいが苦手な俺がコンビニ店員みたいな接客をやっているのは、そんな自分を正したいと少しでも思って足掻あがいている証拠なのかもな。ただ、それが簡単にいくようなら、今ごろは明るく楽しい、輝かしいキャンパスライフとやらを送っているだろうが。
「だから私、分かるの。キミが昔の私に似てるってこと。誰もキミのことを知らなかった理由も」
「そうか。だけど、俺には関係ない」
すると、意を決したかのように、彼女は軽く深呼吸をした。そして、俺の目を見据え、こう言い放った。
「……三条くん、私と友達になってください!」
いつの間にか、周りには人が大勢いて、その目が俺たちへと向けられていた。授業開始五分前の出来事だった。