1話
人の力ではどうにもならないことが、この世界には山のようにある。
例えば、自然。俺たちの先祖が発展させてきた文明も、ただ一度の天災で脆くも崩れ去ってしまう。
俺たちはそれらの悲劇が起こらないことを、ただ祈るしかない。人間が最終的に行き着くところはスピリチュアルな世界だ。
自分自身の力ではどうにもならなくなって、胡散臭い占い師にすがる奴がいるみたいにな。
そんな健気な、俺たち人間の願いも軽々と無視して、さも平然とやってくる奴がいる。しかも、そいつは定期的に現れやがるから更にやっかいだ。
そいつの名前を『月曜日』という。
『月曜一限』という言葉を大学生の耳元で囁いたら何人かは卒倒するかもしれない。それくらい学生にとっては憂鬱なものなのだ。
そんな月曜日の朝、殊勝にも俺、三条翼は講義室にいた。もちろん一人ぼっちである。ここには俺以外、誰もいない。それも当たり前、講義が始まるのは今から一時間後だからだ。夜明け前に、俺の身体が目覚まし時計の仕事を奪ってしまったせいで、徒然なるまま大学に来る羽目になってしまった。
ひとりぼっちなのは、早朝ということもあるが、俺自身にも問題があるだろう。なぜなら──
俺には友達がいない。
大学に入学してから、約一年が経った今も。
なに、一人の時間を過ごすのはいつものことだ。こんなときは俺の唯一の友達、文庫本を召喚するに限る。本を読んでいれば人と関わらなくても済むからな。いらない気を遣うくらいなら、俺の精神衛生的にも、活字の世界に没頭していた方がいい。
それに、俺は友達ができないのではなく、作っていないだけ。俺は誰かと繋がりを持つことを忌避して、これまで生きてきた。単純に、怖いからだ。
「(目の前に美少女が突然現れて、俺に告白するイベントとか起きないかなぁ……)」
人と関わることが怖くても、有り余る性欲には忠実な自分の考えに、若干辟易しながら、栞を挟んでいる文庫本の頁を開いた。それまでに読み終えている部分の内容を思い出しながら、頁をめくっていく。すると、前方の入口に人影が見えた。じっと目を凝らすと、一人の女の子が歩いてくるのがわかった。
なるほど、どうやらこんな時間に大学にやってくる奇特な人間は、俺以外にもいたらしい。その女の子も、俺と同様の驚きを感じている様子だ。一瞬だけ目が合ったが、俺はそれを逸らすために、衝撃波が発生しそうなくらいの速さで、首を明後日の方向に背けた。やばい、流石にこれは露骨すぎる。
すると、彼女は肩くらいに切り揃えた黒髪を揺らしながら、こちらへと向かってきた。
「おはよう!」
そいつは、恐らく初めて会ったであろう俺に挨拶をしてきた。完全に予想外の展開だった。これは……どうすればいいのだろう。そこで完全に思考が停止する。
しかし、いかに人見知りな俺でも、挨拶を返さないことが人の道に外れた行為であるということは分かる。
ここは普通に返事をしよう。任せとけ。中学校時代に挨拶は死ぬほど鍛えたからな。あれはたしか委員会の活動だったか、毎日校門の前に立たされてひたすら機械的に挨拶するだけだった、あの謎の活動。その成果をここで発揮してやろう──。
「お、おはようございましゅ……」
どうだ、これが俺の全力だ! 見たか、これが中学時代に会得したあいさつ技術の極意だ! ……ああ、なんかもうそこら辺に適当な崖でもあったら今すぐ飛び降りたい。全力で。
「ねえねえ、どうしてこんなに早く来たの?」
俺が噛んだのはスルーしてくれたみたいだ。可愛らしい見た目と違って、いくぶん大人みたいだな。
「どういうわけか、目覚めるのがいささか早すぎてな。ここで本でも読もうと思ってたんだが」
「奇遇だね、私も早起きし過ぎちゃって。ごめん、読書の邪魔しちゃったかな?」
確かに、こいつがやってきたことで、俺は無駄に精神を摩耗させる結果となった。
「ああ、そうだな」
気づいたら思ったことが口に出ていた。どうやら俺の口は思ったことをそのまま出力してしまう不良品らしい。早急にサポートセンターに電話しなくてはな。
とはいえ前向きに考えれば、これで無駄な会話をせずに済むだろうし、好都合だ。何度でも言うが、俺は人見知りなんだよ。まして相手が異性となれば余計にだ。会話終了。もう今日は金輪際、口を開かないからな。
そんなことを考えていると、その女は突然笑いだした。なんだ、馬鹿にするならはっきりとそう言ってくれ。
「ごめんごめん、キミは初対面の女の子にそんな風に本音をはっきり言えちゃうんだね」
「不愉快だったら謝ろう」
「いや、面白いと思うよ。あっ、そうだ、キミの名前を聞いてもいい?」
正直、あれで会話が強制終了するかと思ったが、まだ俺を解放する気はないらしい。
「田中太郎だ」
もちろん偽名である。こいつと話すことなんてもうないだろうからな。これでもうおしまいだ。さようなら。
「よろしくね、太郎くん。私は糸魚川渚。渚って呼んでね」
「……こ、こちらこそよろしく……な、渚」
つい乗せられてしまったが、会ったばかりの女を呼び捨てにするとか気持ち悪くないか。いや、絶対気持ち悪い。俺が女なら脱兎の如く逃げ出すね。気持ち悪くて。なんか自分で言っておきながら寒気してきた。誰か助けてくれ。
「別に、気持ち悪くないよ。太郎くんは何学部?」
また、口が勝手に思考を垂れ流していたみたいだが、もう俺は気にしないことにした。ここは、正直に伝えても、支障はないだろう。この女に乗せられていることが癪だったが、それよりも、さっさと話を切り上げたい気持ちが少しだけ勝った。
「文学部文学科」
「えっ! 文学科?」
「は?」
目の前の渚が驚きの表情を見せたと同時に、その目が疑いの色を帯びて俺に向けられてきた。
「……ねぇ、あなた田中太郎なんて名前じゃないでしょ」
なぜバレた。俺の伝えた情報は所属だけだ。それで何故偽名だと分かったのか、皆目見当がつかない。
「もしかして、あなたが三条翼くん?」
その女は、伝えてもいない俺の本名を、言い当ててしまった。俺はもう、彼女から視線を逸らすことができなくなっていた。