15話
俺は喫煙所で会った男と話した内容を、渚に伝えた。すると、渚は困ったような顔で逡巡してから、話し始めた。
「ごめんね、三条くん。びっくりしたよね……。たぶんその人……私のお兄ちゃんだと思う……」
「あ、兄貴!? あいつが!?」
「うん……私と全然似てないけどね……」
驚いた。あのいけ好かないチャラ男が、まさか渚の兄だったとは。
「もう、確かに見た目はチャラいけど! でもいきなり三条くんに会いに行くなんて……」
また心の声が漏れだしてしまっていた。しかし、にわかには信じがたい話だ。
「その渚の兄貴だが、俺の記憶が無くなっていたことも知っていた。だけど、核心については触れなかった。渚本人から説明を聞けって」
「そっか、そうだよね……。わかった。私がちゃんと説明します」
そう言って、渚はふうっと一息ついた。
「まず、私自身の話をするね。三条くんは私に関する記憶が消えていたって言ったけど、それは三条くんのせいじゃないから気に病まないでね。実は、私に問題があるんだ」
「ああ、それは……なんとなくだがわかった。だけど、一体どんな理由でそうなったのかがわからない。昨日の出来事を思い出せなくなるなんて、晩飯のメニューじゃあるまいし」
「うん……。それは私もはっきりとした理由はわからないんだけど、昔からそうなんだよ。私という存在は、誰かの記憶に残りにくいみたい。もっと言えば、私のことは時間が経つとみんな忘れてしまう。まるでなかったことみたいに」
にわかには信じがたい話ではあるが、しかしながら実際に身をもって体感したことだ、渚のいうことはきっと真実だ。
「三条くんと大学の中で少し話したときに、友達が来たことあったでしょ。それは覚えてるかな?」
「ああ、三人組がやってきて、そのうちの一人が渚のことを忘れていた」
「そう、あんな感じで私と久しぶりに会う人は、みんな私に関する記憶を持っていない。悲しいけど、初対面の人なんかだと、次に会ったときに覚えていてくれることは絶対にない。三条くんもそうだったように、例外はないみたいだね」
「だが、あの三人組のうち、忘れていたのは一人だけだったぞ。他の奴らは渚のこと覚えていたじゃないか」
「その人たちとはLINNEでやり取りしたりしていたし、飲み会の後も喋ったりしていたから覚えていてくれたんだろうね。でも、それも記憶が薄れていくのが遅れているだけ……。いつかはみんな忘れてしまうと思う」
俺はどんな顔をして渚を見ればいいかわからなかった。他人から忘れられてしまう、それがどんなにつらいことか想像するに難くない。そんな宿命を背負って、彼女は生きてきたのだ。それでいて、普段はそれを微塵も感じさせず、あんなに明るく振る舞っている。少なくとも、俺には出来ない芸当だと、率直に思った。
渚は、言葉を続けた。
「私が友達をたくさん作っている理由も、なんとなくわかったでしょ」
「──予防線ってとこか?」
「もー! なんかそれだと友達を利用してるみたいじゃん!」
渚は苦笑していた。確かに嫌な言い方だったかもしれないが、構わずに続けた。
「この前の三人組みたいに、誰かが忘れてしまっても、覚えている奴がいれば、そいつがきっかけで忘れていた奴を思い出させることができるかもしれないからな。単純にその数を増やしていけば、誰も渚を覚えていないという事態にはなりにくいだろう。理由としてはこんなところか?」
「やっぱり三条くんは賢いなぁ。私の考えてることなんて、すぐわかっちゃうね……。でも、自発的に思いだすってところはちょっと違うかも」
「どういうことだ? 俺は確かに渚のことを忘れてしまっていたが、渚の兄貴と会ってすぐに思い出すことができたぞ。まあ、ヒントを貰ってようやく……って感じだったし、完全に自分の力だけではないか……」
「それもそうだけど、そもそも、一旦私を忘れてしまった人が、自分から思い出すことってないんだよ。これまでは、例外なくそうだった。もっと言えば、思い出すというより新たに記憶が上書きされるイメージに近いんだって。つまり、お兄ちゃんからヒントをもらってはっきりと思い出すことができた三条くんは、初めての例外。三条くん以外の人は、私が直接働きかけなければ、思い出すことはないんだ」
渚に対して我々は、まるで底のない砂時計のようなものだ。普通の砂時計なら、砂が落ちきったらひっくり返せばまた元に戻る。しかし、底のない砂時計はどうだろうか。砂をひとたび入れれば、もう戻ってこない。まさにその砂こそが渚に関する記憶なのだ。そしてその砂時計は、砂が枯渇しないように、渚によってその都度供給される必要がある。
継ぎ足しがなくなれば、時間とともに砂は減っていき、完全に落ちきるまでの時間が最短で二十四時間程度、というわけだ。
「本来なら渚を思い出すには、条件として渚との直接的な接触が必要というわけか。だが、俺はそれを介さずに渚の記憶を取り戻した……どうして俺だけ……」
「うーん、なんでだろうね!」
重たい話をしているはずなのに、渚は笑顔だった。俺もそれを見て、少しだけ頬が緩んだ。
「とにかく! 三条くんは私にとって特別な人ってことだよ! だって、こんなこと今までなかったんだもん」
「な、と……と……!」
「あっ、三条くん顔が真っ赤だよ! 大丈夫?」
不覚にも渚の『特別』という言葉に過剰に反応してしまった。というか、女の子から「あなたは特別な人だ」と言われて赤面しない男がいるだろうか。いや、いないね。こんな状況、誰だって恥ずかしいに決まってる。
だが俺は──。
「申し訳ないが渚、俺は特別なんかじゃないぞ」
「えっ?」
「今回はたまたま思い出しただけだ。それに、探せば俺以外にもいくらでもいるさ。俺だけが特別なんじゃない。現に、渚の兄貴なんかは渚のことを忘れることなんてないだろう。それに、他にも家族がいるじゃないか」
「確かに、そう考えればお兄ちゃんも私にとっては特別な人かもしれない。でも、お父さんとお母さんは……」
渚の表情が明らかに曇った。藪をつついて蛇を出すとは、まさにこのことである。俺は自らの失態を大いに恥じた。
「そ、そういえば、渚の兄貴はどうして俺のこと知ってたんだ?」
半ば強引に別の話題を渚に振る。今の状況だと渚はどんなことでも話しそうな雰囲気があった。しかし、誰にだって踏み入られたくない領域があるはずだ。まあ、すでに俺はそこに片足を突っ込んでいる状況ではあるのだが……。
「実は三条くんと会う前に、お兄ちゃんと話してたんだよね、三条くんのこと。それで、一緒に遊んできたよって言ったら『俺も話してみたい』とか言いだして……」
「知り合う前から俺が話題に上がってたのか……」
「お兄ちゃんと私、一緒に暮らしてるんだよね。だから、昨日帰ってすぐお兄ちゃんにあったこと話したんだ」
実兄と共同生活……。仲がいい兄妹と言ってもこれはなかなか……渚はブラコンなのか?
「いや、どちらかといえばお兄ちゃんが……重度のシスコンで……お兄ちゃんにはお世話になってるし、嫌いじゃないんだけどね。いい加減妹離れしてしてほしいっていうか……」
「俺のことは兄貴に筒抜けだったってことか。それにあの言葉──」
そう、渚兄が俺に言った「合格だ」という一言。やはり、あれは俺を試していたとしか思えない。
「俺は、二人に試されていたってわけか。以前から不思議な奴がいると目を付けていて、その変な奴が渚を知ったら、その記憶がどうなるかを試した……。最初から計画済みだったってわけか」
渚にとって俺は都合のいい存在である。これまでのように忘れられないように保険ををかけ続ける必要がないからな。記憶を呼び戻せる特異点、要するにセーブポイントのような存在だ。
「お兄ちゃんの行動から考えると、そう思えるかもしれないけど、私は三条くんを利用しようだなんて思ったことはないよ。本当に、純粋に友達になりたいなって思ってたんだ。私みたいに変な人が大学にいるんだって……お兄ちゃんが余計なことしてごめんね。信じてくれないかもしれないけど」
「俺もわかってるよ。渚がそんな打算で行動するようなタイプじゃないってことくらいは。でも、あの兄貴は多分違う。そいつの差し金だったとしたら俺は──」
俺は……どうするつもりなんだ。何を信じればいいのかわからない。突然こんな話をされて、はいそうですかわかりましたって言えるか? いや、無理だろ。しかもバックには兄貴がいて、しかも一緒に住んでる? 妹を溺愛してる? なんだそれ、もう意味が分からない。
渚と初めて会って、言葉を交わして、同じ時間を共にして──そのすべてにあのクソ兄貴の意思が介在していたとしたら。こんなに胸糞悪いことがあるか!
だからといって。
折角できた渚という『友達』を失ってもいいのか。これまでの生活に戻りたいのか。渚の置かれた状況、そして背負っているもの、それらを知って俺は──。
目の前には、口を噤んで伏し目がちに俺を見る渚がいた。
「ああ、そうか──」
「ど、どうしたの……?」
「いや、別になんでもないさ。あの先輩はいけ好かないけど、でも俺にとって渚はもう『友達』だ。たった一人のな」
簡単な話だ。出会った時からわかっていたことなのだ。そして、いま自分の中で確信に変わった。
今の渚を見て、純粋に「守りたい」と、そう思ってしまったんだ。俺にとって、渚はすでに『特別』だった。全て信じよう。あんなクソ兄貴に任せてられるか。
「──だから、俺はもう忘れない。忘れてやるもんか。だから、安心してくれ。俺がずっと──お前のそばにいてやる」
「三条くん──」
渚は目を丸くしてこちらを凝視していた。
「なんかセリフがクサいね……」
「う、うるせー! ちょっとかっこいいこと言ってもいいだろ!」
「えへへ、そんなこと言わなくても翼くんはかっこいいよ……」
「えっ? 何?」
「こんな恥ずかしいこと平気で言う人だなんて、友達やめてもいいですかー!って言ったの!」
「渚がその気ならいつだってやめてやる!後悔しても知らないからな!」
──この日から、俺と渚は正式な『友達』になり、そして、お互いにたった一人の『特別』な存在となったのであった。