12話
静寂──。俺と先輩の間に、ピンと張り詰めた空気が漂う。
俺は、先輩が発した言葉の真意について考えを巡らせていた。合格とは? 俺はいつの間に試験を受けさせられていたのだろう。
それに、渚についての記憶が薄れていたことも、一向に解せない。俺の眼前には、ごろごろと謎が横たわっていた。
「合格って、一体なんの話なんですか。あなたは、渚と関わりがあるんですか。それに、どうして俺は渚についての記憶が──」
「まあ、落ち着けって。君が困惑しているのは当然ではあるけど、不思議に思っていることは、恐らく彼女から説明があるだろう。保障はできないけどね」
「俺は、あんたたちに試されていたってわけか?」
「そんな大層な話じゃないさ。俺は、君がどんな人なのか興味があっただけだよ。だから、多くは語らないつもりだ。それに、どこの誰かもわからない人間に一から十まで説明されて、君は納得できるのかな」
確かに、それは一理ある。こんな胡散臭い奴にあれこれと語られたところで、その情報に信憑性なんて一欠片もない。とにかく、渚に会って話を聞こう。すべてはそれからだ。
俺は手に持っていた煙草を灰皿に捨て、逃げるように喫煙所を後にする。
「それじゃ、またな翼くん」
俺はその声に返事をすることもなく、体育館へと駆けだす。頭の中に浮かぶ疑問を掻き消すかのように、ぐしゃぐしゃと頭をかいた。
「(くそっ、なんだってんだ。誰も俺に構うなよ。一人にしてくれ。何も起こらなくていいんだ、謎の先輩が目の前に現れるなんていうイベントは、求めちゃいない!)」
そんなことを心の内で叫びながら、俺は昨日のことを思い出していた。別れ際の渚の言葉。そしてその表情。あんなに悲しそうで、寂しいそうな顔を見せていた渚のことを、俺はすっかり忘れてしまっていたのだ。あの気味の悪い青年に声をかけられるまで。
色彩の無い、空虚な俺の日常の中で起こった、たったひとつのイベント。俺は、そんな特異な出来事を忘却の彼方に追いやってしまっていた。そんなことが、果たして起こり得るのだろうか。いや、実際に起こっているのだけれども。
奇妙な体験の当事者となっていながら、俺はどこか他人事のような気分だった。渚にまつわる思い出を今ははっきりと思い出すことができるし、忘れていたという実感がいまだに伴ってこないのだ。
人の記憶というものは、こんなにも簡単に失われてしまうものなのだろうか。人並みよりは記憶力のある方だと自負していたが、それも怪しく思えてきた。
あの「明日なんて、ないんだよ」という、渚の言葉。これは、俺が明日になったら全て忘れてしまうことを知っていたってことか?
もしそうだとしたら、俺自身の問題というより、渚に何か秘密があるのかもしれない。とにかく、渚ともう一度会ってみよう。そうすれば、きっとわかるはずだ。
まさか、自分から誰かと関わることになるなんて。一昨日までは考えもしなかった。
全てを無視し、渚のことを忘れてしまったことにして、再び自分の殻に閉じこもることもできる。しかし、俺は覚えているのだ。渚と過ごした時間が何よりも楽しかったことを。
その気持ちに正直になろう。それが、俺の出した答えだった。
立ち止まって、ポケットからスマートフォンを取り出す。俺の記憶が正しければ、そこに渚との繋がりが残っているはずだ。まさか、俺がこいつを使う日が来るとは。
そう、あの時に交換したLINNEである。アプリを起動すると、探し人はすぐに見つかった。誰も追加されることなく放置されていた俺のLINNEに、ただひとり追加されている人物。
アプリの中で、その人と俺は『友だち』という名称の関係で結ばれていた。渚とは一日限定で友達になるという契約だったのだが……なんとも皮肉な話である。
俺は足跡すらない、まっさら雪景色のようなトークのページに「今日、会えるか?」という簡素な文章だけ送った。我ながら、不愛想なやつだと思う。すると、すぐに『既読』という表示が付いた。俺が送った短文を彼女が目にしたということだ。
心臓が早鐘を打つ。彼女はどんな反応を見せるだろうか。どんな返事が来るのだろう。俺は歩きながら、その返信を待った。しかし、なかなか更新される気配がない。そうこうしている間に、目的地である体育館の前に着いてしまった。
どのみち、この講義は出席しなければならない。終わった後に、渚からのメッセージがあることに期待しよう。うん、それがいい。こんな不安な気持ちを抱えて、ドキドキしながらただ待っているのは、精神衛生上よろしくない。
そう判断した俺は、更衣室で着替えをそそくさと済ませ、グラウンドへと向かった。雲というものを、空が忘れてしまったんじゃないかと思うほどの快晴。照り付ける日差しは、俺の身体を刺すかのようだった。
「おい、そこで何をしている。早く整列しなさい」
渚のことで頭がいっぱいになっていた俺は、講義が始まっていることにすら気付かなかったのだ。
おかげで、変に悪目立ちしてしまい、俺は苦笑する。「なにやってんだ、あいつ」と言わんばかりのその他大勢の視線。それを浴びながら、俺は列の最後尾についた。
小さく咳払いをした後、体育教師が好みそうなジャージを身にまとった授業担当の教員が口を開く。
「これまで、サッカーの基礎技術を皆さんには学んでもらいましたが、今回から実戦形式で試合をしてもらいます。まずはチーム分けからしましょう。十分程度時間をとります」
出た。チーム分け。陰キャラが一番苦手なやつ。本当に、この時間は苦痛だ。しかしながらそこは大学生ともなると、そこそこの統制が取れているため、仕切り役の人間が勝手に場をまとめだす。
「サッカー経験者がいたら前に出てきてください。そこでまず均等になるように割り振ってから、残りの人を割り当てていきます」
実に合理的な判断だ。異を唱える者も出てこないため、ぞろぞろと経験者たちが群れを成して、リーダー格のところへとに集まっていく。あの輪の中心で仕切ってる奴も、部活やってたんだろうな。スパイク履いてるし。どんだけ気合い入ってるんだよ。
俺は、そうしてグループができていく様子を遠くから見つめていた。自分から何もせずとも勝手に決まるだろうし、余ったところに入り込めればそれでいい。
そう思っていると、サッカー部を擬人化したらこいつになるだろうなと言えるくらい、いかにもな男が俺に声をかけてきた。
「まだチーム決まっていないんだろう? 俺のところでよかったら入ってくれよ」
「ああ、わかった」
「よし、これで十一人揃った。 俺は青山啓介。えっと……」
「──田中太郎だ」
「おう、よろしくな太郎!」
なかなか暑苦しい奴だ。俺が名乗った名前は、当然偽名。やっぱり、普通は信じるよな……。俺は、そこで改めて渚の特異さを知った。
難なくグループ分けを終え、今度はチームごとに列を作る。
「思ったより早く終わりましたね。それじゃあ、早速試合を始めてください」
四チームで、二十分の試合を総当たり戦で行っていくらしい。一講義あたり二試合を消化しなければならないとのこと。思っていたより結構ハードだな。部活かよ。
俺たちのチームは第一試合と第三試合を行うことになった。俺のグループには経験者が三人いて、そいつらがポジションをどうするかで議論していた。
「じゃあ、太郎はフォワードを頼む。なんかやれそうな雰囲気あるからさ」
「は?」
「大丈夫、基本ライン際でボール待ってればいいからさ」
「……」
そんな適当でいいのかよ。まあ、別にいいけどさ。俺にパスを出すなよ、頼むから。そう思いながら、俺は自陣の最前線へと渋々向かった。
各々が決められた定位置に着いたところで、ホイッスルが鳴った。キックオフは相手チームからだ。俺以外にフォワードに選ばれたもう一人は、果敢にボールを保持した敵に走っていく。面倒だが、俺もそれに倣うように敵陣へとゆっくり走り出す。
相手のパスが乱れ、自軍のボールへ変わった。それを契機に、デイフェンスラインが敵陣へと押し上がる。俺のグループの経験者、割と上手いな。
「太郎!」
その声が聞こえたときだった。青山が俺の方に向かって鋭いパスを出した。くそっ、こんなに早くボールが回ってくるなんて。
足元でボールを受け止めて、俺は顔を上げた。ゴールまでは三十メートルほどだろう。
さて、どうしようかと逡巡した、その一瞬。
あろうことか俺は──
右足を振り抜いていた。
考える間もなく、勝手に身体が動いていたのだ。やってしまった、とすぐさま思った。なぜなら、俺が蹴りだしたボールが、凄まじい勢いでそのままゴールネットに突き刺さってしまったからだ。ゴールキーパーも完全に虚を突かれたのであろう、その場から動けずにいる。
一瞬の静寂。その場にいた誰もが、何が起きたのかわからないといった様子だった。そして、すぐさま訪れる歓喜。その声。想定外の事態に、俺はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
すると、一目散に俺のところまでやってきたのは青山だった。
「太郎! お前、絶対経験者だろ! なんで黙ってたんだよ。すげぇよお前!」
バレてしまった──。そう今更だが、俺はサッカーの経験がある。というか、経験どころの話じゃない。中学・高校とサッカー部だった。しかも、高校の頃に全国大会に出場して、優勝もしている。そんな部のレギュラーだったのだ。
ただ、それは過去の自分の話。正直言って、俺はサッカーが嫌いである。こんなスポーツ、やってる奴は馬鹿だけだ。だから、俺はあっさり辞めたし、何の未練もない。ただ、子供のころに勝手にチームに入れられて、人よりも少しだけ上手かったから、成り行きでやっていただけだ。
普段の俺なら、こんな下手は打たない。愚にもつかない人間の振りをすることくらい、実力者にとっては造作もないことだ。それに、こんなところで目立ちたくはなかったはずだ。
いつもと、何が違うのだろう……。青山が何か俺に語りかけていたが、その声は耳に入らなかった。自分自身の変容、環境の変化、色々なことに考えを巡らせる。
そうか──。心当たりがあるとすれば、一つだけあった。試合の始まる前から俺の脳裏に、ずっと浮かんでいる人影。その人物のことで、他のことを考える隙間がなかったのだ。
「渚──」
俺は、思わず天を仰いだ。さっきまで頭上にあった真っ青のキャンバスは、白い絵の具に塗り潰されてしまっていた。
糸魚川渚。彼女との出会いが、存在が、俺の日常をかき乱していく。