11話
春の暖かな日差しが俺を包む。散った桜の花びらは、数多の靴底に踏みしめられ、無残な姿を呈していた。人々は美しかったものも、その価値を失った瞬間に忘れてしまう。遥か昔に唱えられた、諸行無常・盛者必衰とは世の理である。
さて、午前中の講義を無事に終え、俺は通称「ぼっち専用学食」と呼ばれる一室に向かっていた。このネーミングの絶妙さたるや、その由来を聞いたときは瞠目したものだ。
なぜなら、その部屋は学食などではなく、ただの談話室だからだ。昼休みになると、一緒に昼食をとる友人のいない「ぼっち」がそこでひとり粛々と昼飯を食している。
つまり彼らマジョリティ集団は、その談話室にマイノリティである「ぼっち」たちが集まって食事をしている様子から、嘲笑する意味も込めて「ぼっち専用学食」などという名前を付けたのだ。彼らの性根の陰湿さというか、差別意識のようなものの一端に触れて、俺は恐怖を覚えた。
……まあ、こうした名称で呼ばれるに至った経緯を知ったのは偶然なのだが。講義室で近くにいた、無駄に声だけ大きい量産型大学生のような集団が、そう話しているのを小耳にはさんだのだった。
そうして嘲られる側の人間であることに俺は少しばかり苛立ちを覚えたが、しかしながら事実は事実、甘んじて受け入れるしかなかった。
今日も件の談話室は俺の同胞たちで早くも満席になろうとしていた。部屋の左右にテーブルが並べて置いてあり、その壁際に沿って部屋の中心に向かうようにソファが設けられている。ソファの逆側には机に対して椅子が用意されているが、そこに座る者はいない。
二人で向かい合って利用する目的で設置されているものの、我々は二人分を一人で使うのだ。なかなか贅沢だが、おひとり様しか利用しない部屋なのだから当然ではある。
部屋の中央には円柱状の柱がそびえたっており、その柱をぐるっと一周するようにテーブルと椅子が備え付けられていた。これは、初めから一人で利用することを目的にして作られたもので、そこを定位置にしている者もいる。
俺は、ガラス張りになった談話室を外から一瞥して、空席を探す。一番奥に空いたスペースがあるのを発見すると、一目散に向かった。当然のようにガラス張りになっているが、俺たちは檻に閉じ込められた動物かっての。見世物じゃないんだぞ。
廊下から俺たちを見て、指を指して笑う性格の悪い奴らが勝ち組を気取ってるのは何なんだ。本当に腹立たしい。
それはそうと、次の講義は──必修の体育実技か。昨年度に履修するべき科目なのだが、やる気が起きず後回しにしたのだった。講義には履修登録できる定員が限られており、それを超えることが予想できる授業に関しては、俺のように後回しにする学生も少なくない。
今日は昼食を早めに切り上げ、身軽な服装に着替えなければならない。本当に面倒な話だ。
俺は談話室の片隅で、バイト先のコンビニからもらった廃棄のパンを頬張りながら、そんなことを考えていた。
俺は思う。いつも同じ面々が集まっているのだから、その中でコミュニティが形成されてもおかしくはないだろうと。それが普通の人間なら可能性はあるのかもしれない。しかしながら、この空間にいる人間は、普通ではないのだ。
俺が言う「普通の人間」とは、人並みのコミュニケーション能力を持ち、友人もいて何不自由なく生きている人々のことだ。俺や、この場にいる人間は所謂「陰キャラ」である。
中学や高校でなら、大きく分けて明るい日なたのグループと根暗な日陰のグループ、そういう風に自然と分かれるだろうし、陰キャラ同士で徒党を組むといったこともある。
しかしながら、大学ともなると小中高とあった狭いクラスでの慣れ合いなど皆無で、自分から動かなければ何も起きない世界になってしまう。積極性という言葉から無縁に生きてきた俺のような存在は、自然と淘汰されていくものなのだ。これが、大学における自然の摂理。
不気味なほど静寂に包まれた空間。たまに響くのは咳払いや椅子を引く音などである。だが、俺にとって此処は不思議と居心地がよかった。なぜなら、自分と似ている人間しかいないし、ワイワイと騒がしいだけの烏合の衆もいない。肩身が狭い思いをせずとも済むのだ。
ふぅ、と一息ついて、俺は部屋から退出する。同胞たちに回れ右をして一礼したい気分だったが、それは心の中に留めておくことにした。
どうやら、一服する時間くらいはありそうだ。俺は集合場所の体育館まで向かう途中にある、喫煙所へと行くことにした。
そういえば、キャンパス内を全面禁煙にする動きがあるそうだ。喫煙者にはどんどん生きづらい世の中になっていく。これも時代の流れなのだろうが、指定された場所で喫煙することくらい大目に見てくれてもいいだろうに。
俺は心の中で毒づきながら、ボックスから取り出した紙の筒に火を灯した。
「もしかして、君が三条翼くん?」
「は……? えっ、あの、そうですけど……」
唐突に名前を呼ばれた俺は、慌てて振り返る。俺のフルネームを呼んだその声の主は、いつの間にか俺の後ろに立っていた。今まで会ったこと話したこともない、いかにも大学生然とした格好の青年。その顔には不気味なほど爽やかな笑顔が張り付いている。
あまりに突然の出来事だったため、俺は思わず自らが三条翼であることを認めてしまった。どうして俺の名を知っている? この前にも同じようなことがあったような気もするが──それが何なのか思い出せない。
「彼女から話は聞いているよ。なかなか見込みのある人物だって。嬉しそうに話してくれた」
「何の話をしている。アンタは誰だ。どうして俺のことを知っている」
「おいおい、一応俺の方が先輩だぞ。少しは気を使って話してくれないと困るな。まあ、そう身構えるなって。別に怪しい者じゃない」
「それで、その先輩が俺になんの用件があって声をかけてきたんだ……ですか」
「とりあえず俺も一本吸わせてくれ」
俺の目の前に現れた謎の先輩Xは、慣れた手つきで煙草に火を点け、続けた。
「昨日の話、全部聞かせてもらったよ。どうだった? 君にとっては、大学でできた初めての繋がりだろう?」
「…………昨日?」
そこで、俺はやっと気づく。
昨日の記憶がまるっとすっぽり抜け落ちていることに──。
「その顔、何も覚えていないってツラだな。これは……見込み違いじゃないのか?」
いまだに名乗りもしない自称先輩は、深いため息をつきながら言い捨てる。その顔から、先ほどまでの笑顔は剥がれ落ちていた。
「君は昨晩、どこで何をしていた? それすらも思い出せないか」
「いや、俺は……。誰かと、誰かと一緒にいた……と思います」
この俺が、誰かと行動を共にしていた。その事実。おぼろげな記憶はあるものの、はっきりと思い出せない。なんだこの感覚は。あと少しで手が届きそうなのに、届かない。そればかりか、どんどんと遠ざかっていくようにも思えた。
「なぎさ。その子の名前だ。これで思い出せなかったのなら──、君は期待するような人間ではなかったということだ」
なぎさ。ナギサ。NAGISA……?
「──渚。糸魚川渚! 思い……出した!!」
「……合格だ」
自称先輩は凍り付いたような無表情から一転、不敵な笑みを浮かべながら、そう言い放った。