1.梳川古書店にて
くたびれた日常に、物語は働きかけることができました。
人が文化を創ってからというもの、いつの時代だってそれは人と共にあるのだから、だれよりも私達の事を知っていても、不思議ではありません。
一つの物語を読んで、私達が感じることは、果たして私達の中にしか存在し得ないのでしょうか。
僕が彼女を発見したのは、つい三十分ほど前のことだ。日曜日の昼下がり、いつも通りの閑散とした店内に知った顔があれば、気づかない道理はない。三十分間、彼女はずっと同じ場所に立っている。僕が考えることはただ一つ。
果たして、書店内でとる行動として、それは自然だろうか。彼女は立ち読みをする訳でもなく、本棚のただ一点を見つめているだけなのだ。
『相島圭衣』と手書きで書かれたネームプレートを見やすい位置に付け直し、僕はレジカウンターの外へ出る。万が一にも「あなた誰?」なんて言われたら、たまったものではない。
「何か、お探しですか」
彼女はそこで初めて僕の方を見てくれた。そして笑顔で、小さく会釈をした。
「あら、相島君、こんにちは」
「こんにちは」
「こんなところで何をしているの?」
「そうですね、アルバイトというやつです」
僕は見やすく付け直したプレートを自分で指さす。名前の上には小さく『アルバイト』と書かれている。
「そっか、それもそうね。さっきからずっと、レジの後ろで座っていたものね」
気づいていたんですか。
僕が怪訝そうな表情を浮かべていると、彼女は店内の壁掛け時計を見てから「またね」と言って横を通り過ぎていった。手動のガラス戸がガラガラと音をたてて閉じられると、店内にはまた静けさが戻る。
本の乱れを整えつつ、元いたカウンターへと戻る。彼女、市井紗菜は僕が大学で所属するサークルの先輩なのだが、どうも性格がつかめなくていけない。もっとも、それほど深い付き合いがある訳ではないのだから、それは当たり前だと言ってしまえば、それまでのことだ。
なので、また僕は何も考えないことにした。さっきまでと同様、ぼおっとカウンター内の椅子に一人で座り続ける。戸の向こうには、店の前に立つ街路樹の枝から、桜の花びらが舞い落ちる様が伺える。4月も、終わりが近い。
それからシフト上がりまで、それなりに時間があったが、その間の仕事と言えばたまに来るお客さんの相手をしたり、店の床を軽くモップかけする程度だった。掃除も終わり、再び椅子に腰掛けて伸びをしていると、裏戸の方から物音が聞こえた。どうやら昼食を済ませた店主が戻ってきたらしい。
立ち上がり、後ろへ手を回して腰の辺りで結んでいるエプロンの紐を解いている時に、あることがふと頭を過ぎる。
先ほど、市井先輩が睨んでいた本のタイトルは、確か――――
「なんだっけ」
思い出せないなら、それまでと、僕は諦めてエプロンを外して畳みにかかる。何となく気になりはしたが、それはきっと、大したことじゃないはずだ。