第九話 兄(6)
藤宮の家は甍の葺かれた日本家屋だった。檜の表札には堂々たる墨跡で「藤宮」と一筆してある。
インターホンを鳴らすまでもなく、「ここだ」といった声が聞こえた。庭のほうからだ。そっちに行ってみると、縁側に腰掛けた藤宮がいた。
藤宮詠太郎、紺桔梗の浴衣を懐手に、楚々と咲く山法師をぼんやりと見つめている。
「ほらよ」とぼくは道行く途中に買った土産を藤宮の前に差し出した。「おまえの好きな明鏡堂の白雪煎餅だ」
藤宮は横目でちらりと、箱を一瞥する。「やはり」藤宮はやおら、板敷きにあるきゅうすを取って茶を注ぎ、静々と飲み始めた。「やはり、茶は玉露に限る」
「……少し見ぬ間に、ずいぶんと老けたな」
「それが、例の」
「明鏡堂の白雪煎餅。徳用の十二枚入り」
「や、それは……お得だ」
「だろ」
「うむ……」
「……おれにも茶、くれないか」
「今、湯飲みを持ってきてやる」
藤宮は奥に消えていった。
藤宮に習ってぼーっと庭の花々を見ていると、藤宮が帰ってきた。
お茶を飲む。
雲間から鮮やかな西日が差し込み、雨上がりの涼気が清々しい。
鳥が、さえずっている。
「若葉の薫る、皐月の時候となったな」
「ああ」
「空も、清い」
「雨上がりだからな」
「五月雨に あささはぬまの 花かつみ かつ見るままに かくれゆくかな、とは、世に聞こえたる、名句……」
「藤宮」
「なんだ」
「用を……言ってくれないか」
藤宮は瞳孔を大きく広げ、一驚を喫した風になった。
そして。
「こいつ、なんとも……風雅を害するやつ」と露骨に嫌な顔をした。
「……あのな」
「迂愚め。興が、そがれる」
「おれはやる気のほうがそがれる」
「む……益体もなし」
藤宮は箱の包装をとき、煎餅を食べ始めた。
ぼくは頭を抱えた。
メールが来たとき、ほんの少しだけ、よしと思った。これで妹から――静絵から――一時とはいえ、理由をこねて逃れられる。だから、そう思った。思ったが……。
ぼくは藤宮詠太郎を甘く見ていたようだ。
「……藤宮さ」
「……まずは、一口」
ふと視点を転じてみると、一人の女の子がすぐそばにいた。
目の前には豆が練り込められた饅頭があった。
「月子の自信作だ」
「……いいの?」
「遠慮しなくていいからさ、ま、食べてみてよ」
と。
佐島月子は剛毅に微笑んだ。
大輪の牡丹。
そんな表現が似合うような、放胆な明眸皓歯。そして、奇怪なことに藤宮と男女の交誼を結ぶ人でもある。
「では、ご賞味」
ぼくは饅頭を口いっぱいに含んだ。
「……これは」
それ以上は言葉にせずとも伝わったらしい。
佐島月子はにっこりと笑った。正座をとき、富士宮の隣に腰掛ける。
藤宮はぼんやりと、庭先の光景を見ていた。
ぼくもぼんやりと、茶を飲み、漫然としていた。
「時に、緑葉」
「ん……なんだよ」
「おまえ……」
藤宮は少し、ためらいの色を見せた。
「おまえ……蛾々島と付き合ってるのか?」
ぼくは含んだ茶を噴き出しそうになった。
「……ついに気が狂ったな」
「俺は、正気だ」
「それが聞きたかったのか?」
「いかにも」
そういって、藤宮は隣の佐島月子のほうを見た。
「……と月子は言っている」
首を伸ばしてみれば、佐島月子、照れたような表情をしている。「ま、そういうこと。私、緑葉君のメアド知らないから、詠太郎にメールしてもらったってわけ。で、どうなの? どうなのよ」
「そんなんじゃないさ」ぼくはそっけなく駁した。「蛾々島とはそんな関係じゃない」
「でも、ずっと一緒にいるじゃん。ご飯も二人で食べてるし」
「一度、辞書で不可抗力って言葉を調べてみるといいよ」
「それって、彼女といることが楽しくて、いつの間にかそばに彼女がいないとどうしようもないんだよぉ――ってこと? 魂の叫び?」
「どうしようもあるし、叫んでもない。単なる惰性みたいな感じだって」とやはり、にべもなく答える。
「そんなこと言ってもさ、見えちゃうんだよね」と佐島月子は燦とした笑みを浮かべ、「はたから見ても、二人、すごく仲よさそうだし、よく喋ったりしてる」とぼくの顔色を伺うようにした。
そこでふと、蛾々島とぼくはいったいどんな関係なんだろう、と思った。ぼくにとって蛾々島は、どんな存在なのかな。
「俺も、思うことがあるのだが……」
藤宮は身を乗り出す佐島月子を制しながらも、相も変わらず、のんびりとした口調で言った。
「なにさ」
「いっかな、男女の形態とは千差万別であるし、その心持ち、胸懐は真に奇々怪々たる様相を呈するのが世の常であるが……おまえ、好きな女でもいるか、どうだ」
藤宮の鋭い目がぼくを刺し貫いた。
匂い立つ若葉、暮れなずむ空。
「帰る」
ぼくは縁側から立ち上がり、門のほうへと向かった。
少し、イライラした。
藤宮は何もいわなかった。
門の手前の畑道まで来たとき、佐島月子が、「もしかして怒ってる?」と声をかけてきた。
「怒ってない」
「怒ってるよ」
「藤宮は?」
「手枕で横になってる」
「……暢気な奴」
「あのさ」と佐島月子は決まりが悪いような顔つきをして、「こんなこというのあんまり好きじゃないんだけど、蛾々島さんと親しくするの、やめたほうがいいよ」と目じりを下げた。
「……そう」
「蛾々島さん、友達いないし、なんか変だし、一緒にいてもいいことなんかないよ」
「忠告か、それ」
「そ。一応彼氏の数少ないお友達だしね、忠告くらいはしておこうと思って」
「そっちこそ、あんなのと付き合ってよく疲れないな」
「慣れてるから」と言うその顔は、寸分の恥じらいと過分の幸福とが感じられるものだった。
「おれも蛾々島の奇行、奇癖は慣れてるつもりだよ」
「……それは麻痺してるんだよ」
と。
佐島月子は。
「私、中学校あの人と同じクラスだったんだけど、それはもうすごかったんだからね。確か緑葉君、南中の出身でしょ? だから、あの人がいかにおかしいか、知らないだけ」
緑葉千尋の知らない蛾々島杏奈。
そういえば、蛾々島といるとき、蛇のように粘着質な視線を感じることがあった。
「……だから、色々と気をつけといてね。話はそれだけ。それじゃ」
佐島月子の後姿を見やりながら、ぼくは不思議な感覚に囚われていた。
頻々たる怪事、妙な忠告。静絵のことや、藤宮のことや、蛾々島のこと……。
波紋を描く。
ぼくの心。平静。攪拌される。そして、どうしたらいいのか分からなくなる。見のふり方、しかるべき処決、できなくなる。
心の水面に一石を投じる何か。ほのかに芽生える情、猜疑、疑問……。精神の平安を大いにかき乱していくのだ。
これからどうしようか。
ぼくは足任せに歩を進めていく。
広がる田園風景が炎熱の砂漠のごとく、乾いたものに映る。
ぼくは旅人だ。
行く先もなく、帰る場所もない、旅人。遊子。何かを求めてさすらう、悲しき放浪者。
西日が、まぶしい。
どこに続くかも分からない道を、ぼくは歩く、歩く、歩く……。