第八話 兄(5)
千尋、と僕の名を呼ぶ彼女は、媚態を示してゆっくりと――進行していく。縮まる距離と静絵の淡い呻き……。
絨毯が敷かれている。
それが静絵の体に触れると、その部分がじゅくじゅくと腐っていくような錯覚があった。硫酸をかけられた肌、熟れすぎた果実……静絵の肉体は狂おしい瘴気を放っている。逃げなくては、と本能をつかさどる何かが焦心して命令する。ここにいては危ない、死ぬぞ――と。
「わたしから、逃げるな」
気がつけば静絵の生白い細腕がぼくの腕をつかんでいた。
「わたしのこと、受け入れてくれるよな……?」
受け入れる。
……受け入れる?
それは――。
箱の中の愛欲か?
檻の中の肉欲か?
牢の中の色欲か?
暗く閉ざされた楽園、妄執に塗り固められた精神世界……おまえはそれを、それを――実の兄に許容せよ、と言っているのか?
「おまえ、頭がおかしいんじゃないのか?」そう言わずにはいられない。「なにおまえらしくないこと言ってるんだ。普段の静絵はそんな、イカレたこと言わないぞ」
「これが本当の、わたしなんだ」静絵は静かにぼくにもたれかかった。もたれかかって、「大切にしてくれるって、おまえ、言った。だから、これは許される行為なんだろう……千尋」と呪いのように耳元でささやく。静絵はぼくの背中に手を回して、愛しそうにぼくの頭をさすった。「わたしのこと大切なら、受け入れてくれるよな。わたしの想いを、思慕を、な。そうだろう、千尋。おまえだって、薄々と気付いてたんじゃないのか。違うか、違わないだろう、千尋。だって、おまえだって、想っていたから。わたしのこと、ずっと……」
「……違う!」
「違わないんだよ、千尋!」
静絵は強くぼくを抱きしめた。
「おまえだって、おまえだって……わたしのことが気にかかってたんだ。それくらい、分かる。おまえの気が、わたしに向いてるって……いいだろう、これで両想いだ。誰も困らない。幸せを享受できる……ごめんね、今までひどいこと言って……わたしが子供だったんだ、自分の想いを素直に口にできない、できの悪い子供……。でも、卒業する。ずっとこうしたかったんだ。千尋に、愛してもらいたかったんだ……わたしって、好きな子をいじめる中学生みたい。けど、それが愛情表現で、それしかできなかったんだ。ごめん……ごめん、千尋」
「なに言ってんだよ」
静絵はきょとんとした風になった。
「ごめん、じゃないだろ。おまえは、自分がしようとしていることが――分かってるのか? イカレてる。やれ両想いだ、幸せだとバカじゃないのか? 狂ってると、そう思わないのか? 世界のどこに実の兄に恋する妹がいるんだ。――いるわけないだろ!」
「いる」
と。
静絵は。
「ここにいる」
「おまえ……!」
「理屈じゃ、ないんだ。わたしのそれは理屈で片付く感情なんかじゃないし、理屈で片付く感情を、人は、友情とか愛情とか、言わないんだ」
「なら、おまえのそれは、愛情か?」
静絵はこっくんと首肯した。
「では、おまえの怒りは、嫉妬か?」
またも静絵は首肯した。
……破綻している。
意味が分からない。嫉妬。それは恋人同士が抱く感情だろう。で、ぼくとおまえはそういう関係か? 違う。まったく違う。兄妹。それ以上でもそれ以下でもない。兄妹とは決して色恋沙汰には発展しない、ある種完結した関係……。
静絵は柔らかい肌をぼくに押しつけている。その感触は紛れもない女のもので、くらくらするような艶かしい芳香や、清楚なシャンプーやせっけんの匂いが、ぼくを欲望の奈落に落としいれようとするのだ。
「……好きなんだ。千尋のこと、好きなんだ……家族としてじゃなくて、異性として、だ。しょうがないだろう、好きになったんだから。人を好きになるのにいちいち、理由をこしらえたりする奴がいるか。だったらもう、ぶつければいいんだ。好きになった相手に……想いの丈を、ぶつけたらいいんだ」
静絵はぼくの肩を掴んだ。
まっすぐにぼくを見つめている。
そして。
静かに。
唇を閉ざし、「ん」と突き出した。
……え?
ぼくはおおいに周章狼狽した。
静絵は両目を閉じて、何かを待っているようだった。時折片目を開けては、ぼくをうかがうようにし、頬を朱に染めている。早く早く、と催促しているようだった。
何を?
分かってるさ、それくらい。さすがにここまで来たら、静絵の望んでいることくらい、誰にでも分かる。分かるが……それがどんなに異端で頭のねじの外れた行為なのか、おまえは分からないのか?
静絵はぎゅってした。ぎゅってして、ぼくの手を固く握りしめた。甘い官能が脳髄に流れ出るのが分かった。
このままでは。
このままでは――。
「お風呂、沸いたわよー」
と。
母の声。
静絵ははっと夢から覚めたように体を離した。爾後、火照った頬を隠すように両の手で顔を覆い、ぶるぶると全身を震わせた。
わけの分からない興奮と罪悪感がないまぜになっていく。言えることは、あやうく禁忌手前まで踏み込んでしまった、と言うこと。
ぼくは静絵から逃げ出すように、「今行くー」といって、部屋から出て行った。
◆◆◆
それは組み木の楔を引き抜くのと似ている。堅固な塔も、重厚な梁も、要となる部分を取り除いてしまえば、あっけなく瓦解、崩落する。必然の結果。骨組みに不足あらば、その迂は推して知るべし……か。
並々と張られた湯が冷え切った全身を優しく包み込んでくるのが分かった。ぼくは肩の辺りまで浴槽につかり、漠たる思索にふけっていた。
揺曳する湯気。
視界がうすぼんやりとなる。その視覚の不明瞭さが、放埓でいて淫奔な想像を誘う呼び水となった。みずみずしく熟れたとき色の肌、硬く引き結ばれたあだっぽい唇、烈々と思いつめた両の瞳――。
どっと煮えたぎるような血の環流が、奇妙な怖気とともに全身を廻っていく。めくるめく妄想を打ち消そうとしても、あいつの手が、肌が、それを許さない。頑強に縛る。
枷。
ぼくの心は思いもよらぬ相手に束縛され、身動きが取れなくなっていた。湯の温かさや、たゆたう湯煙なんかがすべからく、感知の外に追い出されてしまう。それくらいぼくは、彼女のことを深く考えていた、ということなのか……?
浴槽から、上がった。
蒸れこもる熱。
今まで立っていた場所がすとんと抜けてしまうような喪失感を抱えながら、ぼくは風呂場から出た。出て、簡素な服に着替えた。Tシャツにジーパン。ぼくの普段着は得てしてこんな感じだった。
と……。
そんな埒もない思惟に気をそらせながらも、この閉めきられた空間からどう動けばいいのか、皆目見当がつかなかった。というより、この場から動きたくない。動いてしまえば、彼女と鉢合わせになりそうで怖かった。どんな風にして彼女と顔をあわせればいいのか、なんて考え出すとますます出たくなるなる。なんというか、この物憂げな心中は、好きな子を廊下で見かけて思わず階段裏に隠れてしまうような、そんな甘酸っぱい心理に似ていた。
緑葉千尋、我が家にして進退窮まっていた。
けれどそんなとんまにも、一抹の救いくらいは用意されているようだった。
それは行李の中にある。
聞き覚えのある音楽がくぐもった音響を発している。加えて、無機質なバイブレーション……。
わらにもすがりつくような、あるいは、怖いもの見たさに、そいつを服のポケットからさぐってみる。どうやら入れっぱなしにしていたらしい。そのずぼらがくしくも、我が身を救う結果となるか、否か。
携帯画面を開いてみれば、一通のメールが受信されてみた。
開いてみる。
あて先は。
あて先は――。
藤宮詠太郎。
頭の中に長身白皙、黒縁眼鏡をかけたあの男の様子が想起された。種々雑多の古書、稀書を取り扱う書肆然とした奴の、その身からほとばしる凛と張り詰めた空気、雰囲気……。藤宮詠太郎はいわゆる、笏を持ち、緒・下襲の裾を後ろに長く引き、飾り太刀を佩かせればあら不思議、あっという間に平安貴族のおでまし、というような風雅な伊達男だった。
でも、空気は読めない。風趣は解するが、冗談は解しないという、奇態な人間でもあった。
そんな奇人の文面曰く――。
俺の家に来い。
と、やけに簡略なもの。むしろ拍子抜けだったが、機械嫌いかつ人嫌いの藤宮がメールを打つという事実だけでも驚愕に値する。怪奇。
ぼくは、「手土産は明鏡堂の白雪煎餅でいいか」といった旨を送信し、携帯電話を閉じた。
脱衣所の開き扉から首を突き出し、ねずみのように左右を確認。誰もいないことを確かめて、こっそり玄関のほうへと向かう。財布も脱衣した服のポケットに入っていたので、自室にとりにいく必要はない。
ぼくは何も思わず、何も考えず、ただただ水溜りのできた小道をどこか、早歩きに歩いていった。