第七話 兄(4)
社会は汚い。
嘘にまみれている。
でも、その汚らしいものが人を成長させるとしたらさ、嘘って奴も案外、必要なのかもしれない。
ぼくは君の兄でよかったと思ってるよ。
……あぁ、これも嘘かもしれないけどさ。
◆◆◆
また雨が降ってきた。にわか雨だ。ぼくは慌ててカバンに手を突っ込み、折り畳み傘を取り出した。
「べ、別にいらねぇよ、そんなの。濡れて帰る」
「遠慮するなって。おれの家はすぐそこだからさ」
「で、でも……」
ぼくは無理矢理蛾々島に傘を握らせ、「また明日な」と勢いを強める雨の中を疾駆した。
蛾々島はしばし立ち尽くしていたようだったが、やがて舌打ちをして傘を広げた。相変わらず、素直じゃない奴。
驟雨が呼び水となったものか、畔の辺りから、かえるの鳴く声が聞こえてくる。
傘を用意してきてよかった……と胸のうちで安堵しつつ、我が家に飛び込んだ。短期間ではあったが、制服はすっかり水気を吸っていた。
「お帰りなさい……と、あらあら」母はすぐさまタオルを持ってきてくれた。「今すぐお風呂を沸かしますからね」
「ありがと」ぼくはタオルで髪の毛を拭きながら、自分の部屋へと向かった。
向かおうとした。
「……おい」
と。
呼び止められる。
顔を上げてみると、目を針のように細くし、廊下に佇立している妹の姿があった。
周囲を見渡してみたが、ぼく以外、誰もいない。
「……おれ?」
ぼくの顔はきっと、とびっきりの間抜け面に違いない。
一方の静絵はえもいわれぬ表情をしている。凄みのきいた目だ。吸い込まれそうになる。
「おまえ」
転瞬、本能的な恐怖が全身を貫いた。静絵の体からは刺すような殺気、害意が禍々しく噴き出していた。
静絵は一歩、歩み寄った。
ぼくの肉体は凍りついたように動かなくなる。
一歩、また一歩と、静絵が近づいてくる。ゆっくりと、それでいて着実に、確実に、だ。
やがて……。
静絵は何も言わず、ぼくの手をつかみしめた。ひんやりとした手が、ぼくをいずこかに連れて行く。
「静絵、静絵……おまえ、どこに連れて行くんだ」
静絵はただ一言、「わたしの、部屋」とだけいった。
恐ろしい。
静絵の顔色は悪鬼のように凄絶で、瞋恚の炎がゆらゆらと揺れている。
ぼくはくしくも、妹の部屋に再度立ち入ることになった。
静絵は入室したとたん、雑なしぐさでぼくを床に放り捨てた。
「おい、静絵……」
「黙れ」
と。
言下にぼくの言葉を切り捨てる。そして、倒れ伏すぼくを押さえつけて、馬乗りになった。
一驚を喫すぼくを尻目に、「さっきの、なんなんだ」と険のこもった口調で詰問した。
「さ、さっきのって、なんのことだよ」
「おまえがさっきまで、一緒に歩いてた奴だ」
静絵の窈窕たる顔がすぐ近くにある。幽鬼のようにおぼろげでありながらも、壮絶な、存在感。それははかなげな清らかさと艶やかさをたたえていて、思わずごくりと生唾を飲んでしまいそうな危険な美があった。
「さっきのって……」
「早く、答えろ」
「それがおまえと、何か関係でもあるのか」
「答えろ」
「まさかおまえ……はは、嫉妬だったりする?」
殴られた。
殴られて、ぼくの首の辺りに顔を寄せた。十センチもない距離。痛みなんかそっちのけで、全身が総毛だつのを感じた。
静絵の肌が濡れたぼくの服や肌に吸い付いてくる。生々しい湿気と熱気。火照っていくぼくの体。
「し、静絵……!」
危うい。
頭の中が真っ白になっていくのが分かった。先刻の鈍い痛みが神経を鈍磨させ、麻薬のような女の色香と瑞々しい肌が正常な思考を惑乱させる。動悸が止まらない。自分の体じゃないみたいだ。
思考がゆるゆると弛緩していくのが分かった。なぜぼくを連行したのかとか、なぜ蛾々島について問い詰めるのかとか、そういった当然の疑問がすべからく吹き飛んでいった。ぼくの頭にはただ、静絵の生々しい血肉だけがあった。
静絵は濡れるのをいとわず、ぼくの服の隙間から手を伸ばし、ぼくの背中を愛撫した。その部分だけ、過度の熱を発する。
「お、おまえが……いけないんだ。ほかの奴と一緒にいるから、わたしにつれないから、いけないんだ」
静絵はねっとりとした視線をぼくに向けた。赤い舌をちろちろと出して、熱っぽい目をする。
それは家族に向けるようなものではなく、明らかに異質の……何か。
「静絵」ぼくは自然とこんな疑念を口にしていた。「おまえ、本当に静絵なのか」
「……たりまえだ」
「……ん?」
「当たり前だっ!」
静絵は泣きはらしたような顔をして、ぼくの胸に顔をうずめた。
「当たり前に決まってる……わたしは、わたしは……静絵だ。おまえの……妹、だ」
その語尾は、ふるえている。まるで認めたくない現実、といわんばかりに……。
「い、妹なら」
「こんなことしない、か?」
静絵はみぞおちの辺りのボタンを一つ、二つ外し、薄いぼくの胸板に手を這わせた。
ぼくは達磨のように跳ね起きて、静絵を突き飛ばした。静絵は襖に叩きつけられた。
はぁ、はぁ、はぁ……と途切れ途切れの息が密閉された空間に充溢している。
「……大切って、言った」
「は……?」
「わたしのことが大切って、おまえ……言ったよな」
切りそろえられた前髪の間から、射るような目が飛び込んできた。
「ずっとずっと、前。わたしが袋叩きにあったとき、おまえが助けにきてくれて……言ったんだ。わたしのことが、大切って……」
遠い遠い、過去の記憶。
掘り起こしてみればなるほど、確かに昔、そんなことがあったような気がする。あぁ、ぼくはずっと前にそんな恥ずかしいことを言っていたのか……。
「嬉しかったんだ……すごく、すごく、嬉しかった。わたし、変な意地があって、いじめのこと、言い出せなかった……毎日が苦しくて、つらくて、わびしくて、ゴミみたいな時間だった」
切々とした静絵の告白。これまでに聞き出そうとしても聞き出せなかった、静絵の感情、考え。
「……なんで、こんなこと、言うんだろ。バカみたいだ、わたし。ほんと、バカだ。もう、遅いのに……」
静絵は頭を抱えて、ぶつぶつと何かを呟いていた。
狂気じみている。
なんだこれ、と思った。今日の静絵はおかしい。箍が外れている。何かあったのか? そう思わずにはいられない。
と。
静絵は不意に、かっと目を見開き、するすると蛇のように肉薄してきた。
ぞくぞくするような怖気と官能が、血の巡りを、神経の伝達を、大いに阻む。うるうると潤んだ瞳が、どこか悲しげにぼくを見つめてくるんだ。
「千尋……」
はかなげな声で、そう呼びかけてくる。
「千尋……ねぇ、千尋……」