第六話 妹(3)
学校の下駄箱を開けたとき、またか、と思った。
澄み切った夏の日のことだった。
ありていにいえば、わたし緑葉静絵はいじめられている。
小学五年生、暑気たけなわの七月。
わたしは一汗かきながらも、泥と石灰にまみれつくした上履きを体育館のトイレのゴミ箱に捨てた。
これで三つ目になる。
お母さんにはサイズが合わないだとか、野犬に噛み千切られただとかいって買い換えてもらっている。けれど、こう何度も続くと怪しまれそうだ。現にわたしが上靴をねだるときも、お母さんは財布の中を手探りつつ不審そうな顔をしていた。
どうしようかな……。
階段を上がりながら、悶々と考える。もうこれ以上せがむのは無理がありそうだった。でも、上履きがないとどうしようもない。今日もまた靴下のみで一日を過ごさないといけない。
なんとも憂鬱だった。
「おはよう」
一瞬、教室内に妙な沈黙が流れた後、「おはよー」とか、「緑葉さん元気?」とかいった返事が返ってくる。わたしも適当に言葉を返して、自分の席に座った。
わたしのいじめは学校に認知されていない。先生や生徒の大半はいじめのことはおろか、わたしの名前さえ知らないだろう。
けれど。
わたしのクラスの過半数はそのことを知っている。
けれど。
口には出さない。
声高に注意することもなく、かといってわたしを完全に無視するわけでもない。
わたしが挨拶をすれば、相手も挨拶を返す。
わたしが物を貸してといえば、ちゃんと貸してくれる。
しかしながら、わたしの味方になってくれる人は皆無だった。みんなは事態の趨勢をうかがっているだけなのだ。流れを見て、機を見て、判断を下すつもりなのだ。
汚い、と思った。醜悪。連中は下手にわたしに味方して、自分が排斥されるのがいやなのだ。第三者の立ち位置。見ているだけで何もしない、何もなさない。表面的な交誼、親交を取り結ぶだけ。そして、いずれは、縁を切る。そんな企図、算段……。
教室には三十人近くの人間がいる。
それでも、遠い。近いようでいて、遠い。心を通わせられない。手を伸ばせば触れられる距離なのに、隣人の考えていることが分からない。
人は生まれたときから孤独なのかもしれない、といっぱしの詩人のように、そんなことを思った。自分と周囲には埋めることのできない溝があって、越えることのできない壁があって、互いに理解しあえないのかもしれない。理解した気でいるだけで、理解していないのかもしれない。
なんでいじめられるのか。
勘案してみても、その理由は僅少なものでしかないように思えた。きっかけは小さな出来事だった。でも、気がつけば大きく波及していった。みんなひそかにいじめに加わるようになっていた。
連帯感。
わたしをいじめることで連帯感や仲間意識にひたってるのだろうか。ちゃんと仲間の輪に入れた、とでも思っているのだろうか。そんな奴らを哀れにも思うし、ずるいとも思う。
わたしは椅子や机に危ないものがないかどうか丹念にチェックして、着席した。椅子の上に画鋲が置かれていたり、机の中にカッターナイフの刃が入れられたりしていたこともあった。そのせいか、今のわたしは以前のわたしよりもはるかに注意深くなっているのだった。
しかしながら、今度の趣向は当たり前と言えば当たり前なもので、傷つくといわれれば傷つくし、怒りも覚える。
わたしは筆箱の中から消しゴミを取り出して、縦横に書き殴られた落書きを除去していった。
消しても消しても、なくならない。
書かれた悪口が脳の細胞に焼きついていく。無意識のうちの机上の文字を頭が記憶しているのだ。だから、なくならない。消したようにみえても、しっかり保管されている。中傷の文句が脳内に渦巻いているんだ。
きつい。
猛烈にきつい。
わたしの体は早くも疲労を訴えていた。朝っぱらから体を動かしたものだから、それなりに汗が吹き出している。そして、冷や汗。無際限の悪意に包囲されたわたし。その包囲網は着実に狭められている。今すぐにでもわたしの居場所がなくなるか、しれたものでもない。
先生が来た。
先生はニコニコ笑って、「今日は道徳の授業をしましょうね」と言った。「みんな仲良くが大事なんですよぉ。では、教科書の三十二ページを開けてくださいねぇ」
みんな、「はーい」と元気な声を出して、各々教科書を開いた。
幸せそうに笑っている。
一片たりとも己が幸福を疑ってはいない。
アホな奴ら、とわたしは小さくつぶやいた。
そんなアホな奴らに、「調子乗らないでよね」といわれた。
体育館の裏側にはこんもりとした木立が繁茂していて、うだるような夏の酷暑を涼しげな木々の風が和らげてくれる。
「おまえさ、自分がかわいいとでも思ってんの?」といわれるが、少なくとも連中よりは容姿は整っていると自負している。
「頭悪いくせに、私らに歯向かうとかきもいんだけどぉ」といわれるが、学校の成績で五位以下からこぼれたことはない。
「いい加減にしてよね、マジで。こっちも疲れるんだよね」といわれるが、自分の言った言葉がおかしいことに気付かないのか。
「あぁ、そんな顔すんな、イライラする!」
鉄火を押しつけられたような痛みが腹部から体の枝葉に至るまでほとばしった。
蹴られた、と知覚したときには、すでに三人の女子生徒に四方を囲まれていた。
うざい。
うざい、うざい、うざい……。
けたたましく聞こえる女たちの誹謗、罵詈雑言の交響曲。
わたしは袋叩きにあった。
背中を丸めて、胎児のようにうずくまる。歯を食いしばり、必死に痛くない、痛くない……と強く念じてみても、この痛みは紛れもない本当のものだった。
鈍った聴覚はもはや、音を拾わない。
視覚のほうもぼんやりとしてきている。
痛覚は……依然、やむことを知らない。未来永劫、続いていくような気もする。
反抗、という気持ちは薄まりかけていた。いまさら反抗したところで、どうにかなるとも思えなかった。加速。たとえ一時期、いじめが減退したとしても、連中がブレーキを踏むなんて、天地がひっくり返ってもありえない。むしろ、アクセルを踏むだろう。
だから。
だから、これでいいんだ。
不思議と安らかな心持ちになった。
胸が穏やかなものに満たされていく。
それはきっと、虚無と呼ばれるもの。
虚無の海に沈んでいく、わたしの体……。
「しっかりしろよ、バカ」
せみ時雨に混じって、海の底から声が聞こえてきた。
あぁ、と閉じきったまぶたを広げる。
体が優しいぬくもりを感じている。
それは心穏やかでも、暗い海の冷たさとは格段に違った、確かな熱を持つぬくもり――。
「……千尋」
「どうせこんなことだろうと思いはしたさ」
千尋は散々に痛めつけられたわたしの体を抱き起こしていた。
「ったく、バカな奴め。おれが通りがからなかったら、おまえ、どうするつもりだったんだよ」
「……しるか、バカ」
わたしは悪態をつく兄の胸を掻きむしり、頭を押し付けた。
鼻腔から兄の体臭と、夏の草木の香気がにおってくる。
わたしは兄の肌を求めるように、その背中に手を回した。そこで初めて、自分が土や己が血にまみれていることに気付いた。
「……きついなら、きついって言え。つらいなら、つらいって言え。言わないと、伝わらない。伝わらないと、こうして助けられない。こんなことも分からないのか、このバカ妹」
バカバカ言うな、と我ながらバカなわたしは、わたしよりももっとバカな兄をそしる。
連中の姿はどこにもない。
涙腺がうるうると、潤みかかっていくのが分かった。
「……これでも、大切なんだ」
と。
千尋は。
「だから、あんまり、一人で溜め込むな。困ったら、おれがいる。お母さんもお父さんもいる。相談しろよ。おまえをすごく、大切にしてる人が三人もいるんだ。いるんだから、頼ってもいいんだ。軽蔑も非難も、するわけがない。大切だから……静絵が、大切だから……」
兄は……千尋は、それ以上、何も言わなかった。
体を密着させているせいか、ひどく蒸し暑い。互いの汗が互いの肌にまとわりついてくる。猛々しい暑気。それでもわたしは、兄の体から離れなかった。離れたくなかった。ずっとそばにいて欲しいと思った。
「家に……帰るか」
「……うん」
付着した土を払い、勝手に先へと進む兄の後姿についていく。先般、あんなお涙ちょうだいなことをいったのにもかかわらず、千尋はすたすたと前に行く。横に並んで歩く、と言う発想がないのか、と思う。わたしはさっきまで感じていた兄への愛着、安堵がバカらしいものに感じてくるのだった。
兄は後ろを振り向くことすら、しない。わたしがついてくるものと信じている。
兄とわたし。
兄に追いすがる、わたし。
その様子がはたから見て主にお供する従者のように感じられたので、早足で兄を追い越した。追い越して、兄が来るまで足を止めた。そして、横になって一緒に歩いた。
千尋は口を真一文字に結んで、颯と走り出した。
山間から野鳥のさえずりが聞こえてくる。
わたしと兄の、自宅までのかけっこが始まった。