第五十二話 兄(40)
あれから静絵の見舞いに赴くことはなかった。初回の一回きり。あとは家でごろごろしていた。
時候は七月。学校は夏休みに突入している。
藤宮詠太郎都の一件があったのは七月の中旬でのことだった。それからすぐ夏休みとなった。だから、蛾々島や藤宮、佐島月子と逢着したのは病院だけだった。荒風寧に至っては、あれ以来会っていない。今何をしていて、どういう状態になるのかすらもようとして知れない。また、あまり会いたくもなかった。罪悪感に押しつぶされそうで。
母さんはあれからも隔日に病院に通って、静絵の容態を見ているようだった。心配なのだろう。せっかく社会に復帰できそうだった矢先にあんなことに巻き込まれては。
しかしながら、紆余曲折を経て緑葉家は収まるところに収まっているように思えた。収束している。静絵も徐々に精神的に自立していったようだから、一般倫理で言うところの“健全”な家族になれたのかもしれない。社会不適合者のいない建設的な家族。壊れた箇所は修繕され、悪性の腫瘍は控除された。施術はすでに敢行されている。
それ以上の何を望むのか。
自室のベットに横臥して、ゆるゆるとそんなことを考えている。窓から涼味を含んだ夏の風が入ってきて、室内に溜まった熱を流してくれる。酷暑。エアコンが壊れた僕の部屋で、扇風機がせっせと働いている。
天井のシミを数えていると、携帯電話が鳴った。アドレス帳がまっさらな僕の携帯には珍しい現象だ。多少の驚きを持って携帯を手にとってみる。送信者は母だった。文面を読んでみるに、静江の退院の迎えに行きなさい、との趣意だった。どうやら母さんはパートの時間が重なったらしく、病院に行けないらしい。それで僕に、白羽の矢が立った。
きっと母さんは僕が暇を持て余していると思ったのだろう。文面から、「あんた暇でしょ」というのがにじみ出ていた。その通りだった。部活をしているわけでもバイトをしているわけでもない学生の夏休みは暇で暇でしょうがないのだ。家で怠惰に暮らしている。それこそ青春の無駄使いのようで、でも無駄遣いってのは楽しいからやめられないのであって、多分しょうがないんだと思う。先立って退院した藤宮と会うってのも味気ないしさ。どうせあいつらはあいつらでイチャイチャしてるんだろうし。
そこに割ってはいるわけにも行かず、病院に出向くことにした。
バスに乗車して、病院を目指す。停車したバスから降り、玄関を抜けた。静絵の病室は少し離れたところにある。
リノリウムの廊下を歩いていると、変な感慨にさらわれる。海を漂う潅木になったかのような気分だった。なまじこの病院をよく知らないだけに、さ。未知なる場所に足を踏み入れると、なんだか心が精神の水の中を漂流するんだ。
病室はま、当然だが、静絵がいた。清潔な白の服を着ており、髪は後ろに束ねてある。清楚ではかなげな雰囲気がそよそよと揺れていた。
裾から出たおてては、今にも折れてしまいそうなほど細く、色白い。
無言で入室した僕に気づいたらしく、静絵は視線を窓から僕に移した。
「よぉ」と僕は、それだけを言った。たたまれていたパイプイスを立て、座る。
静絵はその様子を、静かに見つめていた。なぜ分かったかといえば、視線が僕に固定されているのが肌で分かったからだ。気配がこちらに向いている。それを皮膚が過敏に感じ取った。
「お母さんは?」
「パート」
「だから」
「そういうことだよ」だから僕がここにいるんだ。
静絵はそれだけで伝わったらしく、「そっか」とただ、口角を緩めた。艶麗な微笑を浮かべる。「嬉しいな」
「何が、さ」
「千尋が、来てくれるの」と静絵は顔をうつむける。
あの事件以来すっかり、恥ずかしがり屋になってしまったのだろうか、と思った。初めの頃は静絵のほうから積極的に迫ってきたって言うのに。今となっては純情な乙女みたいになりやがって。かわいいぞこら。
静絵はおずおずと手を出してきた。僕の前に手を差し出す。
それだけで静絵の思惟が理解できるあたり、僕は自分が怖い。
そっと、にぎってやった。細くしなやかな指が僕のごつい指と絡んだ。まるで綿飴にみたいに柔らかい。でも肉付きはしなやかだ。程よい。手を握り合う。両手がつながった。
「嬉しいな」と彼女は言った。「千尋と会えて、嬉しいな」
「大げさだな」
「だって、来てくれなかったから。初めの一回以来、一度も」
「恥ずかしかったんだよ」
「ん」と静絵は手を放して僕の背中に手を回してきた。きつく僕の背を扼して、顔を僕の胸に押し付けてくる。
こわごわと静絵の肩に手を置いた。
ぽぉーっと潤んだ目を上目遣いに向けてくる。麻薬をやったばかりの患者のように、トロンとした色合いだ。
すっぽりと静絵が僕の体に納まる。ごしごしと僕の薄いまな板に頭をこすり付けてくるんだ。髪が振り乱れて、なんとも扇情的な光景に映るのだった。これも兄ゆえの贔屓目なのか、今の静絵はめっちゃかわいく見えてしまう。兄ゆえ……ってのも面妖な気もするけど。名状しがたい。
「こらこら」
「イヤ、離れたくない」
「分かった分かった。ほら、よしよし。ずっとそばにいてあげるからね」
「うん……」
「なんだよ、疑ってんのか」
静絵は静々と首を振った。
ぎゅっと抱きしめられる。
そうして、ひさしぶりの再開は頬を寡言とし、ただ肌を触れ合わせるだけとなる。
◆◆◆
病院の中庭。中央には噴水が設置しており、いくつかのベンチが円状にすえつけられている。噴水を囲むみたいに、白い服を着た患者さんたちがぼんやりと座っていた。
その中に、僕たちも混ざることにする。
ベンチに座って、千切れては流れる雲を目で追った。
隣には静絵がいて、肩を持たれかけさせている。両の目を閉じ、昏々と眠っているかのようだった。
「そういえば、話してなかったことがあった」
と。
僕は、これまで話していなかったあの事件について、話すことにした。主犯の藤宮のこと、犯人の寧のこと、佐島のこと……。ありのままに話す。乗せられて寧に告白したことも、全部。包み隠さず、遺漏なく、巨細漏らさず、説明する。
それが彼女に対する義務のように思えて、今になって話さなければと思った。躊躇も逡巡も消えて、訥々と語りかけるように。なんとも、彼女に対する誠実を問われているような気がして、さ。病室で抱き合って、突如そんなことを思った。
静絵は瞑目している。話を聞いているのかどうか、その表情では読み取れない。でも、聞いているものとして、話を続けた。
まるで飴のように時間が流れる。話し終えると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「静絵を騙してた。僕は寧と付き合うつもりだったんだけどね。荒風寧って子と付き合うこととなった。それで、あんな事件に……。ごめんね。静絵がひどい目にあったのも、おれのせいなんだ。おれがしっかりしていなかったから、あんな事件が起きた」
「そう、なんだ」
「ウソだったんだ。全て。虚飾されていた。誰も救えなかった、と思う。ウソで自分を塗り固めたんだ」
それでも、と。
僕は。
「それでも、おまえが、静絵が、好きだったんだ。まったくなぁ、身勝手だよなぁ。でも、静絵が好きだった」
僕は静絵の反応を待つように、口を閉ざした。受け入れる覚悟をしている。結局、二股ってことだから。それに静絵がひどい目にあったのも、元をただせば僕のせいで、諸悪の根源は僕なのだろう。間違いない。取り繕っていた。そんな自分は、己の誠心を証明するために、己の罪状を暴露するしかない。なんと滑稽なことか。道化。盤上で踊るピエロに成り下がった。
「好きなら、それでいいじゃん」
「え」
「わたし、バカだから、何も言わない。お兄ちゃんを好きになる、バカな妹だから、お兄ちゃんのこと責めないよ。欠陥のない人はいないから。誰しもみんな、壊れてる部分がある。醜いところとか、汚いところとか、必ずある。それを含めて受け入れるのが、本当の愛情だと思う」
「静絵……」
僕は泣きそうになる。
「逆に言えば、その人しか受け入れない、とも言えるよね。その人以外のことを、どうでもよく扱う。人は完全な博愛主義者にはなれないから。人のキャパシティーはせいぜい、一人の人間程度なんだと思う。どうでもいいんだよ、きっと。みんな、どうでもいい。千尋の罪なんて、罰なんて、どうでもいい。結局、わたしを愛してくれれば、事足りる。そんな自責の念なんて、いらないんだ。ただ、そのことを後悔してくれれば、わたしを愛してくれれば、わたしのそばにいてくれれば、わたしを必要としてくれれば、それで……わたしは満足。人は身勝手だから、わたしも身勝手になる。許してもいいよ。千尋のこと」
「……そっか」
「千尋のほうこそいいの? わたしに本気になっちゃったみたいだけど、ここから先は地獄だよ。お父さんとお母さんとも向き合わないといけないし、お友達とも向き合わないといけないから。それでも、わたしと一緒にいてくれる? そっちのほうが、二股よりも、事件のことよりも、罪深い。近親相姦。実の妹と恋愛するなんて、痛々しくて気持ち悪いってみんな、思うでしょ。当然、みんなの蔑視や軽視にさらされる。それでも、千尋は、わたしと、いてくれる……? わたしはそっちのほうが心配かな」
静絵はぎゅっと僕の手を握った。その動作はまるで、もう離さないといわんばかりのものだった。くもの糸に絡めとられるイメージだ。そしてそれは、夫を思いやる貞淑な妻の優しさにも似ている。
静絵は爬虫類のような感情のない目で、僕を見やる。その眼球の裏には、常軌を逸した妄念が渦を巻いていて、僕を捕捉しようとしている。怒りとか悲しみとか、そういったものを度外視した、深淵のような恋情があるように思えた。同時に、神に全てを捧げる敬虔な乙女の祈りにも似ている。自分の全てを投げ出すような真摯さがあった。
「ずっとそばにいてくれるんでしょ? その言葉に偽りはないよね。ずっと未来永劫、わたしだけを愛してくれると誓えるよね。約してくれるよね。絶対だから。千尋がいなくなったらわたし、死んじゃうから」
あっけらかんと言い放つがしかし、強大なゆがみをも内在している。
彼女の瞳は魔性のように、僕を蠱惑的に併呑する。
「それでさ、わたし、子供が、欲しい。子供は夫婦の証で、絆で、愛そのものだから。結婚はできないけど、千尋との子供、欲しいな。お父さんとお母さんには申し訳ないけど、でもわたし、好きな人と笑いあって、愛する子供を育てて、それで静かに過ごせる毎日が欲しい。もちろんお父さんとお母さんも大切な人。だけど、千尋もそれとは別次元に、大切なんだッ。社会に望まれない恋愛でもいいから、社会に祝福されない恋でもいいから、千尋と一緒に暮らしたい。それも、約束できる? 約束できるなら、許してあげる。わたしに全部を捧げることができるなら、今回のことは不問にしてあげる。その上で、わたしの心と体、千尋に全部あげるから。好きにしていいよ。わたしの唇も、胸も、顔も、手も、足も、全部、千尋のものになる。千尋がワタシのものになるなら、だけど。この約束を誓えたら、だけど」
そして。
最後に。
静絵は。
「誓えますか」
静絵は澄んだ口調で言葉を紡いだ。
僕はそっと、静絵の手を離した。
離して、静絵の前にうずくまる。片膝を立てて、静絵のキレイな顔を見上げた。
そうして改めて静絵の手をとって。
「誓います」
それは主君の前に頭を垂れて、聖なる剣を肩で受けるというような、厳粛な騎士の叙任式を想起させた。
顔を上げると、満面の笑みを浮かべる静絵がいた。
僕は彼女の頬に手を添えて、潤んだ唇にそっと、禁忌に触れるように、己が唇を近づけた。