第五十一話 兄(39)
蛾々島に渾身の一撃を食らった僕は、あまりの衝撃に尻を激しく床に打ちつけ、尾てい骨を強打するという激痛に見舞われた。背骨に電流が突き抜けたかのような悶絶だった。
蛾々島は、「ちくしょー」と手でごしごしと涙を拭きながら、一目散に走り去っていった。ただ事ではない速度だった。そして、残された僕のいたたまれなさ。周囲の視線が僕を責めるようにうごめいている。被害妄想だろうか。でも、どこかからどぎつい舌打ちの音がするのは脳内だけの出来事ではないだろう。
打ち付けた臀部をさすりながら立ち上がる。にしても強烈な一撃をかまされたと思う。女の子だと思って油断していた。……っていうか僕、メチャクチャ悪役よなぁ。女の子振っちゃったよ。すげー。
明日から蛾々島とどう振舞えばいいんだろう。友達やめよってな感じになるんだろうか。ま、しょうがない流れだけどさ。僕はいつでも友達やめる準備はできてるよ。少なくとも、僕が実の妹を好きだって知ったら、蛾々島に限らず同級生とか近隣住民たちとか、両親とかに峻厳なる断交を申し渡されそうだ。だから、なるべく早く縁が切れたほうがいいのかもしれない。そのほうが傷が浅くてすむ。蛾々島だって、妹に欲情してる彼氏を持つことを回避できたんだから、将来的に言えばむしろいいことなのかもしれないしさ。あーあ、言いわけに余念がねえー。
彼女の病室は、最北端の棟の三階にあった。今度はきちんと受付のお姉さんに道筋を教えてもらい、迷うことなく、たどり着くことができた。
中庭を横切り、階段を登る。リノリウムの床。車椅子のおじさんに挨拶をして、目的の部屋へ。
コンコンとノックをし、「入るよ」といって、ドアノブをひねる。
病室には、長い髪を一つに束ねた静絵がいた。囚人服みたいな真っ白な服を着ている。藤宮同様ベットで上体を起こし、ぼんやりと窓の外の風景を眺めていた。
ベットの脇にはパイプいすが二つ用意されてあった。それぞれお父さんとお母さんが座っている。お父さんは憮然とした表情で腕組みをし、お母さんは甲斐甲斐しくリンゴの皮むきをしている。
病室にはくしくも、家族全員がそろうことになった。
静絵は片膝を立て、子猫のようにシーツの端を掴んでいる。時折母さんが八等分したリンゴを静絵の口の前に差し出し、それをパクっと食べていた。親鳥に餌付けされる雛鳥みたいで面白い。
リンゴを食べ終わった静絵は、また視線を窓に定めた。
その様子をぼんやり眺めていると、「あら」と母さんが一驚を喫した。入室したのが僕だと気づいて慌ててもう一人分のパイプいすを用意しようとする。
「いや、俺の分は」と言外にいらないことを伝えて、ベットに接近した。
そっと静絵の横顔を盗み見る。かわいかった。見慣れてるはずなんだけどなぁ。僕は斜めに傾いた横顔に、少しの間見ほれていた。妹を見つめる兄ェ……。今なら、おまえってマジ気持ち悪ィ性癖してんなってみんなに糾弾されても、そうだよって満面の笑みを浮かべられる自信がある。僕ってつくづく変態になってしまったんだなって自分の堕落具合に驚愕する。こうなってしまったことに悔いはないけどさ。
そして。
彼女は何気ない感じで首を曲げて僕を見つけると、一瞬驚いたような表情をして、すぐに笑みを浮かべた。こんなこと、まったく予想してなかったって感じの笑顔だ。
「千尋」
彼女は、緑葉静絵は、澄んだ発音で僕の名前を呼んだ。弱々しい感じはするが、肌に血はしっかりと通っているようだった。栄養もきちんと取れているのだろう。看護師さんに加えて、きっとお母さんの看病が何よりも奏功したんだと思う。母さんは慈しむようにめくれたシーツを下肢に被せてあげて、またリンゴの菓子をむき始める。静絵も母の優しさに知らず知らずのうちに、弛緩した微笑で応じていた。引きこもり少女とは思えないほど爽やかな笑顔だ。母の力は偉大だね、とひとりごちる。
「元気、だったか?」
「うん……」
静絵は一転して、恥ずかしがるような、はにかむような笑みを浮かべている。ぎゅっとシーツの上で拳を握った。頬がちょっと赤い。それで僕と目が合うと、慌てて顔をうつむけた。照れてるのかな。
もしかしておまえ、あのときのこと覚えてんの? と思わず邪推したくなるのはしかたないことだろう。母さんはほほえましそうに見ているが、ある意味母親以上に静絵と接してきた僕には分かる。静絵は困ってるんだ。自分の感情に当惑して、対処に四苦八苦してる。静絵の心境の動きが手に乗るように分かった。
僕はイジワルな気持ちになった。あれは無意識ゆえに行われたことだと思っていたけど、ひょっとしたら、意識はおぼろげながらあったのかもしれない。なんだよ、確信犯かよ。でもま、塵埃まみれの納屋の中なんてロマンのかけらもなかったけど、おまえとキスできてとても嬉しかった。
静絵はまぁ、元気そうだった。
それだけでもう十分って感じ。静絵が元気なら、もう、それで……。
「もう帰るの?」
母さんが不思議そうに質問してくる。思ったよりあっさりしてたから疑問に思ったのだろう。交わした言葉もほんの少しだし。
「帰る」
でもほら、世の中には以心伝心って言う素晴らしい四字熟語があるじゃないか。言葉ではなく視線で、表情で、空気で、たっぷり会話したから大丈夫。言葉と言う限界を超えた非言語的会話。人と人は言葉の外で語り合い、理解し合える。だから、大丈夫。僕たちはもう、大丈夫だ。そうに違いない。
「ばいばい」
きびすを返した僕は、ゆるゆると手を振って退散する。
染み渡る安堵と変な寂寥感に包まれて、僕は誰もいない廊下をゆっくりと歩くことにする。
あー、リンゴもらっときゃよかったよ、と今になって後悔する。