第五十話 兄(38)
廊下にすえつけられたベンチに、一人の少女が座っているのを発見したとき、僕の胸は奇妙にざわめいた。
そいつはサラサラの髪を肩までつからせ、今様な洒落た服を着ていた。唇にはうっすら品のいいルージュを塗っており、匂い立つような艶麗さを漂わせている。
「よぉ」とそいつは陽気に手を挙げて、僕に声をかけてきた。いつもと変わらぬ気軽な挨拶だ。身構えていた僕は、少し気が楽になるのを感じた。
「なんでさ、なんでおまえがここにいるんだよ」
「いて、悪いかよ」蛾々島杏奈は子供のようにほおを膨らませてみせた。「オレも一応、あの場に立ち会ってるからな。ほら、佐島と藤宮……怪我、どうなんだ?」とそっと伺うようにつぶやく。
その様子がなんともかわいらしく、純真に映ったものだから、知らず知らずのうちに笑みを浮かべている自分がいる。蛾々島も案外、普通の人間と大差ないのだと思った。普通に他人の心配をし、気にかける。突飛な口調も奇抜な発想も、その根っこはただの善良な人柄なのだろう。
蛾々島もやはり、真実の詳細は知らない。やっぱり通り魔的犯行に僕の妹や佐島が巻き込まれ、そして藤宮すらも巻き込まれたと概説したに過ぎない。深い真相を知る必要はないと思ったから。藤宮も僕の言動を黙認している節があった。藤宮もやはり、自分の行動が身勝手であることを理解していたのだろう。
「オレも関係者だろ。だからッ、魔王御自ら来てやったってことだぜ」
「それは光栄至極ってやつだよ」僕は相槌を打った。「それで、病室には入らないのか?」
すると、蛾々島は気まずく視線をそらした。「いや、なぁ……」
「……視線が泳いでる」
「ッンだよ、うるせェな!」
「別にやつらはいちゃいちゃなんかしてなかったよ。入りたきゃ普通に入ればいいのに」
「でもほらっ、その……してる最中に乱入するのは、野暮だろ? オレはそういうことにもきちんと配慮できる、分別ある人間なんだよ」
蛾々島は困ったように顔を赤くした。
意外にうぶなやつだなと、僕まで影響されて顔が熱くなった。
妙な沈黙が数秒間、流れた。時折カツカツと靴音がして、それだけだ。
「おまえはさ」蛾々島は、ふいをつくように、あるいはダムが決壊したかのように、唐突に口を開いた。「そういや、荒風寧とは結局どうなったんだよ?」
「気になるか?」
「だァ――ッ! さっさと言いやがれッてんだッ! オレはッ、てめェにッ、良識ある回答を求めてるんだぜ――ッ!」
僕は荒風寧について思考を馳せる。
荒風寧。
そっと後ろに回って、縄を切って、それだけだ。
先般の房でのことだ。静絵を救出した僕は、荒縄で拘束された寧と対峙していた。その後、縄に小刀をあて、滑らせた。切断。気絶している寧を起こすこともなく、爾後、寧とは顔をあわせていない。今何をしているのだろうかとは思うが、何をしているか知りたいとは、思わない。
私見を述べれば、あれを機に寧とのつながりは切れたのだと思う。寧のほうからも音沙汰ない。断絶した。僕は心のどこかで、もう二度と寧とは会えなくなってしまうような予感があった。
「寧とはさ、なんにもないよ」
「本当、なんだな?」蛾々島はやけに念を押してくる。僕の手を掴んで、顔を近づけてきた。「本当、なんだな?」
「なんだよ、執拗にくるな」
「あのさッ!」
蛾々島は真摯な目つきで睨むように僕を見つめている。何かを覚悟したものの目つきだった。変な気迫があった。
「好きなんだ」
すとん、とやけにあっさり、まるで水がスポンジに吸収されるみたいに、胸に入ってくる。例えるなら、厳重に戸締りをしたのに、泥棒をして簡単に突破されたかのような、そんな感じだ。えっ、そうくるの? って僕は驚いている。
蛾々島は訴えかけるように僕の胸にすがった。上目遣いを向けて、切々と僕と目を合わせようとする。
「好きなんだッ! おまえがッ! ずっと前からッ! ずっと前から……」
蛾々島はぽろぽろと涙をこぼした。頬をつたる紅涙が彼女の想いの丈を表していた。蛾々島は僕のシャツをつかんで、うぅ……と涙交じりに嗚咽していた。
「え……おい、なんだよ。冗談だろ。そりゃ、たちの悪い冗談ってやつだぜ、蛾々島……なぁ」
僕は予想外の展開にあっけに取られて、目をそむけてしまう。
「こっち見ろ、バカやろう」
しかし、蛾々島に頬を挟まれ、強引に顔が向き合うようにされる。蛾々島の真剣な瞳に気おされている僕がいる。
「冗談なんかじゃ、ないんだよ。本当なんだ。おまえのことが好きなんだよぉ」
「バカっ、そんな大声出すな」
「化粧したのだって、おまえのためだ。おまえに女を感じて欲しいから、化粧をしたんだ。分かれよバカッ! 女が化粧する理由なんて、一個しかないだろッ! 好きな男に振り向いてもらうためだろがッ! 違うかッ!」
その勢威に押され、「違いません、です」と口が勝手に動く。どうなんってんだよこれ。どうなってんだよこれ。僕の脳の演算速度をはるかに上回るこの事態。
「そうだろう、違わないだろがこのスカタンッ! だからッ! 察しろよバカぁ」
うるうると目を潤ませて僕を見やる蛾々島は、楚々とした色気に包まれている。くしゃとアルミホイルを丸めたような表情は、痛切な情を物語っていた。
周囲からひそひそ声がしてくる。騒ぎを聞きつけた患者さんや看護師さんたちが、物陰に隠れて僕たちを伺っていた。
恥ずかしい。
「あー、もう。なんだよ、分かったッ! 分かったから、みんなが見てるから、結構恥ずかしいから」
「ンなもん関係あっかッ! そんなことよりもッ、イエスかノーか、はいかいいえ、それだけを答えりゃいいんだよおまえはッ!」
「いや、なんの二択だよッ!」
すると蛾々島はじれったいを言わんばかりに頭をかいた。「おまえは本当に頭が鈍いな。オレはおまえの頭が石で構成されているかどうか疑っている最中だぜ……。ようするにな、オレと付き合えって言ってんだよぉ――ッ!」
「だばーッ!」
僕は卒倒しそうになった。口から変な声が漏れた。心臓がバクバクと脈を打ちまくっておいおいそんなに血を供給しなくていいんだぞ僕の心臓と叱責してやりたい気持ちになる。熱を帯びた血がグルグルと体の中を巡っているんだ。
僕はとんでもない二者択一を突きつけられたのだった。
予想だにしていなくて、唐突にぶつけられ想いにどう答えていいのかわからなくて、でもその答えはとうの昔に決まっていて、どうすればいいのか分からなくて。
分からないから、もう。
「だぁ――いきなりおまえは何を言ってんだッ! 好きだの嫌いだの、予想外ッ! いきなりそんな恥ずかしいこと言うなぁ。おめーは花も恥らうおにゃのこだろーが」
「なんだ。おまえ、気付いてなかったのかよ。百人斬りして血がべったりの日本刀よりもにぶいやつだな。ラブコメの難聴型主人公かよ、そんなのはやらねぇーゼ」
「自分に向けられた好意には鈍感型主人公なんだよ」
「ホントタチ悪ィ主人公だな。女の敵だぜ」といつものごとく軽口を叩くけど、顔は泣きそうだった。
この胸に去来するのは、罪悪感と呼ばれるものか。けどさ、いまさら主人公の性格は変えられないから。人の人格なんて矯正不可能なんだよ。でも、ごめんな、蛾々島。その想いには応えられないよ。っていうかなんというハーレム。高校生になって、二人の女性に告白された。一生に三度しかないもて期到来か? 逆に怖い。人の人生は往々にして幸運の量が決まっているというが、もうとっくに使い果たしてしまった感が異常。空の瓶を手で振るみたいに、すっからかんになっちまったのかも。
それでも、まぁー、な。
蛾々島もさ、もしここで僕が君の告白を受け入れるような人間だったらイヤだろ。だって僕にはすでに好きな子がいるんだ。それにもかかわらず付き合ったりしたら、二股ってことだろう? 二股はダメだよなぁ。二股が許されるのはかろうじて少女漫画くらいだろうに。第一僕にはそんな度胸ないし、日本は一夫多妻制を採用していないので。却下。つーか、ここは未開拓のアフリカじゃないんで。放縦に過ぎる。
もし静絵を旧だとしたら、蛾々島が新だ。これは古女房とかいう意味じゃないんであしからず。……それで、もし蛾々島のほかに新しい女性が現れたとする。それで僕がこの子――新しい子に首ったけになったら、僕は蛾々島を軽んじるだろう。新しいものを優遇して、古いものを冷遇する。蛾々島を受け入れるってことはさ、静絵を軽んじるってことと同義だからさ。いずれ蛾々島もおんなじ思いしなくちゃならないって思ったら、この告白を諾すべきでないことは明瞭だろう?
それだけにごめんな。ほんとごめん。
僕は言葉にすることができなくて、深々と頭を下げることしかできない。きっかり九十度だ。氷河期な就職難にあくせくするアルバイトの面接生でも、こんな分度器で図ったとしか思えないようなお辞儀はできないだろ。前面に現れる謝意。視線はリノリウムの床に固定。
「うわーん、緑葉のッ、バカやろうッ!」
だから、彼女の拳が僕の頬を貫いても、何の文句も言えないのだろうと思う。




