第四十九話 兄(37)
白を基調とした廊下だった。ちり一つない床。時折ナース服を着た女性が忙しそうに往来する。
僕は過ぎ去っていく看護師さんをわき目に、病院の長い廊下を歩いていた。
目的の病室を受付の人に教えてもらったが、どうやら迷ってしまったらしかった。思った以上に部屋や廊下が入り組んでいて、何度か足を止めてしまうことがあった。
結局、十五分近く院内を放浪して、目的地にまでたどり着くことができた。
扉は開け放たれてある。だから、遠慮することなく、入室した。
病室もやはり、清潔な白を基準にした部屋だった。四人部屋で、白いカーテンで各々区切られている。
その右手前、上体を起こしたまま和綴じの本を読んでいる、やつがいる。
そいつは僕に気づいたらしく、ふっと笑ってみせた。口角をゆがめ、冷涼な笑みを浮かべる。
ベットの脇に、イスが置いてあって、少女が座っている。その少女はベットに顔をうずめ、昏々と寝入っていた。頬には涙がつたっていて、その姿は美しい乙女を連想させた。
「結局、女泣かせなのは、おまえも一緒じゃないか」とついつい、口が出てしまう。
藤宮詠太郎は何も言わず、ただ佐島月子の髪をなでた。その様子はどこかしら、慈愛を感じさせる手つきだった。顔も柔和に落ち着き、雰囲気も穏やかなものだった。
「何しに、来たのだ」
「様子を見にきたんだ。おまえと、佐島を、さ」
藤宮は苦笑したようだった。
あの事件の後、一時的に錯乱状態にあった藤宮は、後頭部の怪我も相まって、短期間の入院が決定した。その折、その付き添いとして佐島月子が志願した。
佐島はなぜ、藤宮が入院しなければならないのか、その理由を知らない。ただ漠然と、その想いを推察するのみだ。
簡単に言ってしまえば、藤宮は佐島を裏切って、別の女に鞍替えしようとしていたということになる。許されない行為だ。でも、当の被害者は詳しくそれを知らなくて、事態はもやに包まれている。というのも、それは僕が望んだことだった。藤宮の裏切りを知れば、佐島は深く傷つくだろう。静絵の誘拐も、ただの通り魔がした犯行だと虚偽の説明をした。佐島を殴ったのも、その悪辣な犯罪者がしたって。
そして藤宮も、けなげな看病をしてくれる彼女に、少なからず心を傾けているようだった。佐島を見る目つきは深い愛にあふれているように見えた。藤宮も、自分に向けられた愛情に、いまさら気付いたのかもしれない。そして、かつて別の女に向けられた恋情が、ただの錯覚だと思うようになったのかもしれない。急速に燃え上がった火が急激にしぼむように、その恋心が沈んでいったのかもしれない。
どれもが嘘に塗り固められていて、身勝手な虚妄に包まれている。自分本位。かりそめの結末に決を与えて、取り繕うだけだ。今にも瓦解してしまいそうな砂上の楼閣。その上に僕は、天を貫く摩天楼を築くつもりだった。
「元気か」
「おかげで、この通りな。貴様にやられた傷も、もうすぐで、完治する」
「それは皮肉かい?」
「よもや、貴様に不覚を取られるとはな」
「正々堂々不意打ちするのが、俺のモットーだからな」
「そうか」
藤宮はおかしそうに笑った。
開かれた窓から海風が吹いてきた。この病院は海に近く、潮の混じった風が鼻腔を刺激するんだ。僕はこのにおいが嫌いじゃない。なんだか懐かしい気分にさせてくれるんだ。これも母なる海ってやつだろう。
「気付いたよ」
藤宮はふいに、静かな声を出した。
「俺が貴様の妹に惚れたのは、危ういからだ。危うく脆く、弱く、はかない。だからこそッ……! だからこそッ、俺はああまで惹かれたのだ。定期的に補給される愛に飽き、まだ見ぬ何かに、踏み込んで見たいと思った。ふふ……ひどい男だな、俺は。大切なものを、忘れていた」
だが、と藤宮は短く鋭い声を出す。
「だが、同時に、熱湯のようにたぎった、あの想いを忘れることもまた、できん。相克する。その螺旋の中に、俺はいる」
男の恋愛は、名前を付けて保存だといわれる。それぞれの女との恋愛を、名前を付けて胸の奥にしまう。交際相手ができるたびに上書き保存する女とは違い、男は弱く、愚かで、過去を引きずる。螺旋の中でぐずぐずとぐずる。
「それで、おまえはどうするんだ?」
「知ったことか」
と。
藤宮は。
「いちいち、これからのことを確約できるほど、俺は万能ではない。その時その時、その場その場の気分で、決める。悪いか」
「悪いとは言ってないさ」そのあっさりした物言いに、たまらなく笑いたくなった。「そうだよなぁ。逐一自分の未来を規定することなんて、誰にもできないもんな」
「少なくとも、言えることはあるぞ」
「なんだよ」
「熱が再発すれば、またおまえに決闘を挑むことがあるやも知れぬ、ということだ」
「はは、勘弁してくれよ」僕は再度、藤宮と戦って勝てる気がしない。
「ま、気が変われば、だが」
藤宮は、佐島の手をぎゅっと握って、眠るように目を閉じた。
潮時かな……。
僕は黙って、病室をあとにした。リノリウムの床は硬質で、足音が響く。
壁に背を預け、ふと、「多分、やつの気が変わることは、二度とないんだろうな」と心のどこかで思う。