第五話 妹(2)
窓からは涼風にそよぐ草花が見えるが、そんなものクソ食らえだ。
わたしはパソコンのキーを叩いていた。ネットサーフィンで見つけた怪しげなサイト。その内情はただのダメ人間の集まりだ。次いで、この社会はダメ人間が生き抜くにはあまりに困難なものだった。だから、こんな退廃的なサイトが誕生する。世の恨みそねみはこの延々と続くスレッドをもってしても書き尽くすことはできないらしい。
ふとベットのほうに目を向けた。思わず笑みこぼれる自分がいた。三時間前、あそこにはあの人がいた。すっかり熟睡していたわたしは、兄の気配に気付くことなく昏々と寝入っていたのだ。そして、わたしは兄に要領を得ない罵言を浴びせかけた――。
夜遅くまでインターネットをしていた、と言うわけではない。兄に――千尋に押し倒されたあの出来事が頭から離れなくて、胸がときめいて、眠れなかった。千尋のはく息が、間近に感じられた体温が、どんどん妄想を加速させていく。あのままいってたらどうなってたのかな。大変なことになっちゃうのかな。目が冴えてとても眠れるものでもなかった。
今想起しても歯がゆい。いっそそのまま千尋を襲えばよかったんだ。昨晩でも今朝でも、チャンスはあった。千尋は寸毫もわたしを拒絶したりしない。したことがない。悪態をつきながらも当たり前のように受け入れてくれる。だから、わたしの愛も受け入れてくれるはずなのだ。それがどんなにトチ狂ったものだとしても。
「千尋」
言葉にしてみた。その一言は虚しく雲散霧消していった。
「千尋ぉ」
愛しい。早く逢いたい。帰ってきてほしい。その顔をわたしに見せて欲しい。
学校なんてさっさとサボってしまえばいいのに。
わたしは検索ボックスに近親相姦という文字を打ち込んだ。暫時して検索結果が出た。絡み合う男女や連綿と続く卑猥な文章、そして禁忌の二文字――。わたしは震える手で新しいページをクリックした。して、頭を抱えた。やっぱりダメなことなんだ。近親相姦はいけないことなんだ――。
その事実を再認識するたびに、身が焼き焦げるような不安と憂いが胸を掻き抱く。悪逆、背徳、醜怪……。行き場のないこの想いを、わたしはどこにぶつけたらいいんだ。
パソコンをパタンと閉じる。わたしはベットに飛び込んで枕に顔をうずめた。自分が気色悪くて仕方がなかった。
高校にも行かず、仕事もせず、うじうじと家居し、親のすねをかじってばかりで、兄を恋慕の対象にする女……。
のっそりと起き上がったわたしは、階下へと向かった。もうお昼過ぎだ。お腹が減った。これといって運動しているわけでも勉強しているわけでもないのに、やっぱりお腹は空くものだ。せっせと仕事に励んでいる父に立つ瀬がなくて、そんな度しがたい罪の意識がわたしをさいなむ。
リビングには果然、母がいた。小さく笑って洗濯物を畳んでいる。わたしは家事に忙殺される母の横をすり抜けて、残り物のおかずをレンジで温めた。
「静絵ちゃん」
と。
母の声。わたしはどこか後ろめたい気持ちで振り返った。
母は慈愛と疲労とが混じった笑みを浮かべていた。「静絵ちゃん、体調のほうは大丈夫?」
「大丈夫です」
「お薬、いらない?」
「いらないです」
「明日、お医者様のところに行くけど、静絵ちゃん都合つくかしら?」
「はい」
「どうしたの、元気ないみたいだけど」
「そっ、そんなことない!」
わたしは体の底から絞り出すような大声を上げた。
はっとしてうつむく。
母はそんなわたしを哀れむような目で見ていた。
「ご、ごめんなさいお母さん。大声出しちゃって近所迷惑だよね。ごめんなさいお母さん」
「いいのよ、静絵ちゃん。お母さん平気だから」
「……ごめんなさい」
わたしは拳を握り締めて、母に頭を下げた。こんなわたしを愛してくれる優しい母。母をがっかりさせたくない、失望させたくない……わたしはいつもそんなことを思っているんだ。
と。
母は。
おもむろに。
こんなことを言った。
「静絵ちゃんもね、もう少しお兄ちゃんと仲良くしなさいね。あんなお兄ちゃんでも、お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょう? 千尋もあなたのこと、すごく大切に思ってるから」
「あ、あ……」
「もちろん私だってお父さんだって、静絵ちゃんのこと大好きよ。でも、千尋は私たちよりももっと、静絵ちゃんのことを宝物みたいに思ってるのよ。だからね、気が向いたらで良いから、一回千尋とお話してちょうだい」
「う、うぅぅ……」
「分かったわね?」
母はわたしをじっと見つめている。穏やかだけど有無を言わせない口調――。
思考の停止、四肢の痺れ、意識の断絶……。
あの。
あの感覚だ。
認めたくない現実、情けない現状を認識した瞬間、胸に釘を打ち抜かれたような痛みがほとばしる。これまでの後悔の情と、わたしを理解してくれない社会への悪念、そして兄との不和、それらの陰鬱な思念が、襟懐に忍び寄って来るんだ。
軋む。
軋んでいく。
わたしの心。
ガラスのように脆弱な、汚濁しきったわたしの心。
専一に実兄を恋い慕うこの心――。
「ふ、ふざけるな! なな、なんであいつと……! いやだ! 絶対いや! 死んだほうがマシ! わたし、死ぬ!」
わたしはリビングから飛び出した。
背後から母の声が聞こえてくる。魂の底から絞り取ったような制止の叫び。でも、わたしはそれを無視して、自分の部屋に引きこもった。
いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ。
なんでわたしがこんな思いをしなくちゃならないんだ。
なんでわたしが家族の桎梏となっているんだ。
なんでわたしの好きになった相手が実の兄なんだ。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
気持ち悪い。
頭を何度も壁に叩きつけて、夢から覚めろ、となんども念じて、でも覚めることのない現実。屹とそびえる現実……。
逢いたい。
逢いたい、逢いたい、逢いたい。
千尋に逢いたい。
千尋に慰められたい、千尋に手をつないでもらいたい、千尋にぎゅってされたい、千尋と心ゆくまで遊びたい、千尋に好きって言われたい。
大丈夫だよって、子供みたいに頭をなでなでしてもらって、えへってちっちゃう笑うわたしがいて、ほほえんでくれる千尋がいる。幻視。まぶたの裏で現出する嘘、幻想。幸せな未来、表裏をなすありえない未来。それを夢想する哀れな自分、わたしを見限る千尋の隻影……。
止まらない慕情が決定的な罪責を生む。
胸が締め付けられるみたいだ。
年がら年中兄を拒絶して、反抗して、無視して……でも、心の中では千尋を愛しいと思う感情が膨らんでいって、恋しいと思う感情が肥えていって、自分のものにしたいという想いが芽生えていって、血続きの相手と交わると言う、イカレた妄想に明け暮らしている。朝な夕な、ずっと妄想。千尋の血肉を、においを、胸の中で思い描いているんだ。
さっと時計を盗み見た。
午後五時。
もうすぐ千尋が帰ってくる時間だ……。
わたしの日課は、登下校する兄を姿が見えなくなるまで窓から見守ることだった。その時だけは純真な乙女のように千尋のことを思いやれた気がする。
するすると窓の縁に手をかけた。
鮮烈な夕空がどんよりとした黒雲に遮られていく。
ぽつぽつと雨が降り出してきた。
わたしは曇天の下で兄を見た。
見知らぬ女と歩いている兄を見た。