第四十八話 兄(36)
網膜に焼きつくものは、あっけにとられたように口を開ける藤宮の顔だった。横目でそれを視認した。
鬱蒼と茂っている。夕空を摩する竹。その中を、竹を避けて走る。全力疾走だ。自らの影を引き離してしまうかのように、息も切れ切れに疾駆する。
「それはないだろう」
僕の荒い呼吸と軌を一にして、声と足音が重なってくる。動揺するような、困惑するような、憤慨するような声だった。まるで猟犬のように追ってくる。
走っている。
暗い暗い竹林の中を走っている。鮮烈な夕空はやがて、漆黒にぬりつぶされんとする夜空に変わろうとしている。入相の刻。獣の体臭のようなぬるい夜気が足元から忍び寄ってくる。滝のように流れる汗が下着にべったりと張り付いて気持ち悪かった。
逃げているうちに、足音が強くなっていくのが分かった。草や折れた竹を踏みしめる音だ。近づいてくる。
「どこだ、緑葉ッ!」
立ち止まった藤宮は、油断なく周囲を見渡した。目を凝らしている。しかし、僕を見つけられないらしく、隙のないそぶりで小刀を脇に構えていた。
皮膚に汗がにじむ。腐食した雑草のにおいに満ちた竹やぶで、じつと息をこらす。
数メートル先には、藤宮がいる。
顔を土にほぼ密着させ、機会をうかがっていた。虫のすだきと野鳥の鳴き声。くすんだ土にムカデが這っている。生理的に受け付けないねじねじした動きをしているんだ。僕は節足動物が苦手なのだ。ついつい悲鳴を上げたくなるが、口を閉じて悲鳴を封じ込めた。
汗が一滴、雨のように青葉の上に落ちる。
会話もなく、声もない、森閑とした静寂があたりを包んだ。
だっ、と足をバネのようにして、斜め前方に飛び跳ねた。僕の跳躍に気付いて、視線を動かす藤宮。僕は密集する竹の一群に身を潜めようとする。しかし、藤宮がそれを逃がすはずもなく、肉薄してきた。
万般がスローモーションのように緩やかになり、時が飴のように伸び縮みして、体感時間がグニャグニャに歪曲する。どれを持って時間を、彼我を区切ればいいのか、その手段を失する。
転瞬。
「取ったッ!」
小刀をしならせ、会心の一声を上げる藤宮。柄にもなく声を大にしている。
しかし、斬ったのは、投げ出された小刀。
藤宮は、地面に落下しようとする小刀を見て、一瞬の間、思考を断絶させた。
藤宮は反射的に、飛び出してきたものを斬ろうとして、小刀を振るったのだ。飛び出してきたものとはすなわち、僕がおとりとして放った小刀だった。
「取ったッ!」
僕は、ただ佇立する藤宮の背後に回り込み、がら空きの後頭部に拳を叩き込んだ――。
◆◆◆
「はぁ……はぁ……はぁ……」
どさっと倒れる藤宮を前に、気息奄々(きそくえんえん)の呼吸を整えようと、胸に手を当てた。
万感の思いで藤宮を見る。
藤宮は物言わぬ死体のように、地面に倒れ臥している。
その様子を見て無性に泣きたくなって、哀れにも感じ、同時に藤宮に対する敬意すら抱く。罠をかけてすまない、とも思う。僕は黙祷をささげるように、こうべを垂れた。
一人の女のために行われた静かな戦いは、沈黙とともにその幕を閉じることとなった。
僕はきびすを返した。名残惜しい気もして、一度だけ振り返って、でも竹林を駆け出す。一刻も早く、静絵を助けたいと思った。縄を切るために、小刀を回収することを忘れない。
竹林を抜け、例の監獄にまでたどり着く。四角い壁を回りこんで、扉らしきところの前に立った。
呼吸を整え、ドアノブを握る。開いた。ぎぃーっと言う開閉音とともに、腐朽した鉄のにおいが鼻についた。
四方をすすけた壁で取り囲まれた房。そこには拘束された二人の少女がいる。
僕はまず、荒風寧に近寄った。彼女は汚らしい床の上でえびのように体を反らしていた。荒縄できつく縛ってあるからだろう。無理な姿勢で放置されていた。
その姿に一抹の憐憫を覚えるも、救おうとは思わなかった。もはや、そんな悠長なことを言っている場合ではないのだ。少なくとも、静絵をかどわかしたことに変わりはない。僕は他人を許せるほど大人ではないようだ。
そして、その先には……一人の少女。
むしろの上で丁寧に寝かされている彼女の、規則正しい胸の鼓動。
胸のおくからこみ上げてくるものがあって、目が熱くなって、どうしようもない。この感情を形容できる言葉を、僕は持ち合わせていない。だから、僕はそれを行動で表そう。
柄に親指を添え、縄に小刀をあてる。徐々に切れていく縄。はやる気持ちを抑えて、慎重に切断した。
姫を縛る縄はほどかれた。
「……静絵」
彼女を抱きかかえ、呼びかけてみる。
「……静絵」
その声が彼女の心を溶かしてくれることを祈り、その体のこわばりが解けることを念じ、その想いを熱くたぎらせてくれることを願う。
僕はもう、楽園の果実をもぐことをもいとわない。イバラの道なんだ。急峻で険しい道のり。でも、二人なら、二人でなら、乗り越えられるような気がした。むしろ、乗り越えて見せようと思う。その先にある景色を二人で見てみたい。
だから、彼女の美しい笑顔と、淡くつぶやかれた僕の名を聞いたとき、僕は静かに彼女を強く抱きしめる。次いで、彼女の手がゆっくりと、伸びる。その両の手は僕の首に絡みつき、そっと僕の胸に顔をうずめた。
彼女の頬は涙に濡れていた。
そっと顔が近づいてくる。朱に潮した唇が、その距離を縮めていく。おそらくそれは無意識の産物で、ただ本能の命ずるがままに体を動かしているように見えた。ぼんやりと潤んだ瞳が、あふれんばかりの恋情を訴えているようで、心臓がバクバク脈動して、頭が真っ白になる。
そして……。
暗く冷たい壁に囲まれた密室、狂おしい熱気が蒸れこもる獣の檻の中で、僕と静絵との距離は完全に――ゼロになった。