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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第3章 相克するシーブリングズ
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第四十六話 兄(34)

 きっとそのときの僕の顔は、ひどく間抜けたなものだっただろう。道を歩いていて、いきなり見知らぬ誰かに殴られたかのような感覚。痛みや怒りよりもまず、首を傾げたくなるような困惑が先行する。意表をつかれたって感じだ。

 そいつは両手両足を後ろに縛られ、仰向けにうつぶせている。放射線状にその美しい髪が伸び、セロハンテープのように薄い皮膚は血の気が通っていない。その様相はなんとも扇情的で淫猥で、場違いな妖艶さをはらんでいた。インモラルな想像を駆り立ててくる。肌の毛がぞわりと逆立ち、倫理観に抵触するような背徳感すら見るものに抱かせるんだ。

 そいつは――彼女は――冷たい牢の中にいる――てっきり犯人だと思っていた――は、間違いなく。

 間違いなく、荒風寧その人だった。

 不可解。明らかに不可解。予想が外れた、とでも言えばいいのだろうか。盲点をついてくる。てっきり静絵をかどわかしたのは寧だと思っていた。情欲に絡めとられた突発的な奇行。そう解釈していた。しかし、前景から察するに、その解釈は間違っている……? なら犯人が寧ではないとしたら、一体誰なのか。奇妙。僕は奇妙極まりない光景に遭遇している。

 沈思黙考。

 糸を張り詰めたような緊張、そしてあふれてくる疑問の渦に呑まれそうになった。答えのない設問。謎が突如として出現する。一刻も早い救出が急務だというのに、湧出する違和感が行動をためらわせるんだ。

 物音がした。

 草を踏みしめるような音。後ろからだ。聞こえてくる。風のざわめきに混じって過敏になった聴覚がそれを拾う。

 振り向いた。

 索漠とした一陣の風だ。土のすえたようなにおい。大気の流れが近づいてくる何かを知らせている。狼のように獰猛な気をまとったそれは、着実にこちらに肉薄してくる。

 一筋の汗が額をつたうが、緊張でぬぐうことができないでいる。口がカラカラと渇き、息苦しさで生唾を呑みこんだ。 

 二メートルほど先に、透徹とした目を持つ一人の人間がいる。歩くのをやめ、一心に僕を見つめている。

 黒縁のメガネはふくろうのような知性をたたえ、すらりと伸びた背筋はヒョウのような俊敏さを秘し隠している。強烈な存在感。野鳥がおびえるようにばさばさと竹林の上を飛び立った。

 そしてやつは、世界を俯瞰するような無感動な目で、なんてことないように僕を睥睨するんだ。

「ついぞ、修羅にいたる」

 やつはいった。

 腹の底から響くような重たい声だった。

 ああ、なるほどと、ふいに理解した。そういうことか。そういうことだったのか、と胸にすとんと落ちる。得心したんだ。この状況を作り出した張本人が誰であるかが、何の説明もなく確信できた。

 それでも、どこか違和感があった。そいつはそんなくだらないことをするような人間ではなかったし、第一似合わない。そいつのキャラに符合しない。先般のごとき浅ましい情を抱くような、そんな浅薄な人間ではないのだ。

 なのに。

 なのに……。

 なんで。

「おまえ」

 かすれた声が僕の口から漏れ出る。まるでガスのようだった。言葉はすぐに雲散霧消した。

 そいつは猫が首をもたげるように、そのキレイに澄んだ両の目を僕に定めた。間然なく配置された目や口や鼻や耳。精巧に作られた人形を思わせる造詣の顔。きっと粘土をこねたのだろう。聖なる神がじきじきに粘土をこね、創生した。

 そんな美しい口が、やにわに笑みの形になる。やつは高らかに哄笑するように、唇をゆがめた。「それほど、実の妹が大事だと、みえる」

 そして藤宮詠太郎は、背中に手を回すように、腰部に手を当てた。




   ◆◆◆




「なんだよ、そうなのかよ。やってくれるな、藤宮。俺は自分史最大の衝撃を受けている最中だぜ」まるで悲鳴のように発散される声は、蚊の鳴くようにか細いものだった。とても自分の声とは思えない。

 藤宮詠太郎はその様子を、静かに眺めている。「緑葉よ」

「んだよ。俺に声かけんな。俺は今ッ、怒りではらわたが煮えくり返りそうなんだからな」

「怒りで我を、忘れるものではない」

 僕は冗漫な藤宮の物言いにイライラした。「本当、イライラする口調だな。間伸びしてて、聞いてるこっちが眠くなる」

「おまえは怒ると、とたんに饒舌になる癖があるな。人間らしくて、俺は好きだぞ」気持ち悪いことを言うな、と思った。男に好きっていわれて嬉しがる男がいるかよ。「本邦のイザナギ・イザナミも、西洋のアダムとイブも、人の原初を(つづ)る神話は往々にして、兄妹婚を初めとするからな。そういう意味でも、おまえは人間らしい」

「……おい」自然、怒気が言葉に混ざる。「それ以上言ったら殴るぞ」

「おまえも、修羅道に落ちたか」

 藤宮は意味深なことを言った。

 茫漠とした空気が漂う。互いが互いを牽制するような雰囲気だ。のんびりとは振舞っている藤宮だが、視線は油断なく僕を見ている。

同工異曲(どうこういきょく)の、悪しき忌みものをともに、はらんでいるらしいな」

「忌みもの?」

「業なのだよ」と藤宮はやはり意味深なことを述べる。「おまえは兄妹の枷を解くことができず、俺は淫蕩の咎を受けねばならないのだ」

「枷と、咎か」

「しかり。俺たちは、忌むべき宿業を背負っている。違うか?」

 僕は黙したままだった。

「いや、みなまでいうまい。いわずもがなでもある。安心しろ。俺はおまえを糾弾するつもりも、指弾するつもりも、ない。ただ」

「ただ……?」

「貴様の妹は、俺が貰い受ける」

「それは相談か?」

「命令だ」

「貰い受けるとか、静絵を物みたいに扱うな」

「女は、物だ。男の所有物」

「ずいぶんと前時代的なことを言うんだな」

「時代が下っても、変わることのない事実が、世の中にはある」

「時代の変動を肌で感じ取れないんだな。事実や常識は常に変化するってのに」

「近親と(ちぎ)ろうとした、おまえが言うか」

「ほざけ」

「常識に囚われるのが俺の性だとしたら、おまえは常識を破る不届きものだな。吐き気がする」

「女をさらって監禁する犯罪者に言われたくないね」

「貴様の妹をさらったのは、俺ではないぞ」

 僕はにわかに周章した。「なら、誰だってんだよ」

「荒風よ」藤宮は一口に言った。「貴様の妹は荒風がかどわかした」藤宮はさらにもう一言、付け加えた。「そして俺が、漁夫の利を得た」

「誘拐犯をさらに誘拐したってことか」

「察しがいいな」

「勘だけが取り柄でね」

「されど、おまえも罪深い男だな。必死におまえの気を引こうした、荒風がかわいそうだよ。たとえそれが、弾劾すべき犯罪行為であってもな」

 僕は藤宮の話を聞いて、徐々に状況が呑み込めてきた。

 これは僕の推測でしかないがおそらく、佐島菓子店にいる静絵をかどわかしたのは荒風寧だ。そのさい邪魔してきた佐島月子を黙らせ、この場所に静絵を監禁した。そして僕の携帯に連絡して、前みたいに僕とヨリを戻すつもりだったのだろう。静絵を人質にとって。

 しかし、そこで静絵を狙う人物がもう一人いた。藤宮詠太郎だ。静絵を誘拐する寧を見取った藤宮は、誘拐犯の寧を昏倒せしめ、静絵と同じように縄を打ったのだ。二重の誘拐。ストーカーをさらにストーキングするかのような、恐るべき狂態。藤宮は労せず獲物を得ることができた。そして、網を張ったのだ。携帯に受信された寧からのメール。あれを打ったのはおそらく、寧ではなく藤宮だったのだろう。静絵と言う好餌(こうじ)をまき、僕を待ち伏せた……。

「概要は理解できた。でも妙だな。なんでおまえ、俺の妹が欲しいんだよ」それは暗に、おまえには佐島がいるだろ、ということをほのめかしている。

 一方の藤宮はというと、おかしくてたまらないと言った表情をする。やつもこんな顔をするのかと、僕は驚きを隠せないでいる。僕の脳裏に感情の乏しい藤宮の顔が去来するが、今の藤宮はまるで、獲物を前に牙を向く肉食獣のようなんだ。

「そうだな……さしずめ、一目ぼれというやつだろう」


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