第四十五話 兄(33)
はっとなって周辺を見渡してみるが、その姿はない。掻き消えている。僕の背筋に再び冷や汗が伝った。
僕はおろおろと倒れ臥す佐島と周囲とを見やる。
「おっ、おいッ! なにやってんだッ! さっさとポケットの中にある携帯電話で119番しろってんだよッ!」
そんなこと分かってる。分かってるが……。
どうしたらいいのだろう。またも思考が混線状態になった。蛾々島の言葉が聴覚に入っても脳には至らない。視界がぐにゃぐにゃに歪む。
救急車を呼ぶべきか、静絵を探すべきか……ひょっとしたら静絵は誘拐されたのではないのか? とどんどん悪い方向に思考が流されていく。本来ならばありえない状況だった。なぜ佐島が倒れているのか、なぜ静絵がいないのか……。
ひょっとしたら。
ひょっとしたら、佐島が殴打されているのも、犯人に抵抗したからだとしたら……? 静絵をかどわかそうとした不届き者がいて、佐島がそれに抗したのだ。しかし力及ばず朽ち果てた……。十分にありえる筋書き。凍るような戦慄にさいなまれる。
僕はたまらなくなって棚に手を置いた。吐きそうになる。しかし、吐いているひまなどない。適切な処置を講ずる必要がある。
「クソッタレッ!」僕は木製の棚に思い切り頭をぶつけた。気合を注入した。もう動揺はしない。
まずは警察と救急車だ。僕はこれらの奇態に事件性を察知している。
そして、そして、だ。
「うぅ……」
うめき声がした。佐島だ。意識が覚醒したのか? 慌てて駆け寄り、その華奢な体を抱き上げた……そういえばとこうして佐島を抱きかかえるのは今日で二度目だなと埒もないことを考える。「だっ、大丈夫か? おい、しっかりしろよ」
佐島は苦悶の表情を浮かべている。頭をさすって顔をしかめた。
「あんまり触らないほうがいい。怪我してる」
「うぅ、分かってる、よ」佐島は強靭な精神力で上体を自ら起こした。「それで、どうなってんの」
「それはこっちが聞きたいね。一体全体どうなってんだよ!」
「知らないよ」佐島はすっけない返答をした。どうやら僕と同じように状況を呑み込めていないらしい。
「……静絵は? 静絵はどこに行きやがった?」
「静絵ちゃん……? あれ、いないの?」
「……知らないのか?」
「知らないよ。気がついたら背後から殴られて、意識が途切れて、それっきりだもん」
どうやら事態はより深刻らしい。
蛾々島は固唾を呑んで見守っている。この緊急事態に、さすがの蛾々島も動揺しているようだ。
「意識を失う前までは静絵はいたか?」
「そんな質問攻めしないでよ」
僕は佐島の肩をつかんだ。我もなく手の力が加えられていくのが分かる。佐島が苦しそうにした。「頼むから、答えてくれ」
「い、いた。いたよっ。やめてよ……っていってもやめてくれないみたいだね。いたよ確実に、ここに。さっきまで一緒にお菓子食べてたもん」
「商品のやつをか?」確かに床にはお菓子の包装が散らかっていた。手の力を弱めて言う。「それ、マズくねぇ?」
「いいのよ、ここ、わたしのお店だから」
一瞬朗らかな空気が流れたが、視線が交差すると佐島の顔が険しくなるのが分かった。きっと僕の顔もいかめしくなっているに違いない。空気が一気に張り詰める。事態はもはや焦眉の急を告げている。
「緑葉君、警察に連絡を」
「あ、あぁ」
僕は改めて取り出した携帯電話をプッシュしようとした。
と。
携帯電話が鳴る。
僕は呆然として自前の携帯電話の画面を凝視した。佐島も、そして蛾々島も同様に覗き込む。
まず画面の左方に「荒」の字が浮かび上がる。次いで、「風」、そして――「寧」。この三文字の羅列。一文字一文字ではたいした意味を持たないそれらの群れが、三位一体となってある一つの人間の存在を示唆する。
ここにきて全てがつながった気がしてくる。ここにいる全ての人間が息を呑んだ。
僕は携帯電話を握りつぶしそうになった。
「なっ、なんて書いてあるの……?」
僕は無言で携帯の画面を突きつけた。
文面の内容はひどく簡潔で、「緑葉静絵は預かった。場所を指定する。警察に連絡するな」とただそれだけが電子データとして送信されていた。
「そんな……」
佐島は手で顔を覆って、嗚咽を漏らした。
僕はのっそりと立ち上がった。
店を出ようとする。
「ど、どこに行くンだよッ!」と倉皇たる蛾々島の声。
僕は振り返って言った。「ちょっとさ、添付されてたんだ。さっきの脅迫じみた無機質な電子メール。それにはちょっとした画像が添付されていたんだよ。それには縄で縛られた静絵、そして画面の端にはその場所の地図が記されてあった。ごめんね。救急車を呼ぶこともできないんだ。下手に犯人が勘ぐるといけないから。ひょっとしたらすぐ近くにいるかもしれないし。偶々居合わせただけの蛾々島には悪いけどさ、しばらくの間佐島のそばにいてやってくれないかな。頼むよ」
「ななっ、なんだよそれ? 意味分かンねぇーよッ! そもそも静絵って誰だよっ! 答えろよ。おまえの女なんだろ? ……おまえの女なんじゃねぇーのかよッ!」
「二人はここにいてくれ。俺は行くから」
「ちょ、ちょっとッ! 緑葉君ッ!」
後方から追いすがるような声が聞こえるが、それを無視して駆け出した。むかむかした。胃が裏返ったみたいに気持ち悪い。ドライバーで心臓を抉り出されたら、こんな風な気持ちになるんだろうなと思った。
◆◆◆
表示された場所までは佐島菓子店から約二キロほど先で、竹林のすぐそばにあった。こじんまりとした民家で、所々塗装が剥がれ落ちている。とても人が住んでいるようには思えない家屋だった。表札の跡があることから、以前は誰かが住み暮らしていたのだろう。
近くに人気はなく、閑散としている。
それゆえに監禁場所としては実に適しているところだと思われた。
縛られた静絵がプリントされている画像の背景には、竹林があった。角度や方角から鑑みるに、家の裏側なのだろう。僕ははやる心を抑えてゆっくりと裏手に回ろうとした。さっきまでずっと全力疾走だったからか、心臓がうるさい。犯人に聞こえてしまいそうで怖くなる。
極度の緊張からか、ひどく喉が渇く。壁に手をつけて忍び足で回りこむ。そぉーっと息を殺して、存在を殺して。
白い漆喰の壁には、はめ殺しの窓が設置してあった。通風には不向きなつくりで、ほこりっぽい夕日を採光している。
僕は屈みこみ、下から室内をのぞき見ようとする。鉄格子がはめられていて見づらい。目を凝らして内部をうかがう。
部屋の造りはまるで堅牢な独房のようだった。豆電球のようなものが屋上から垂れ下がっており、弱々しく明滅を繰り返している。鉛色の壁。床には織り目の粗いむしろが敷かれてあった。そしてその上には、縄で両手を縛られた少女――。
僕はその少女が誰であるか瞬時に分かった。
「静絵……」
僕は奥歯が砕けんばかりに歯を噛み締め、拳を握り締めた。猛烈な殺意が湧いた。犯人が――荒風寧のことが、心の底から憎いと思った。
どうやら静絵は気を失っているらしく、むしろに倒れ臥している。声も届かないだろう。それに大声を上げたら寧が駆けつけてくる可能性もあった。愛憎に狂った彼女が静絵に何をしでかすか……不安で不安で下手に動くことができなかった。そんな歯がゆい状況。
と。
僕が扉のほうに視線を向けようと思った矢先、まったく想定外のものが視界に入り込んでくる。一瞬、頭が真っ白になった。
むき出しの冷たい鉄の床に縛られて横たわっているのは、まごうことなきあいつだった。