第四十四話 兄(32)
開け放たれた窓が一枚ずつ閉じられていくのを眺めていた。施錠されている。今日の日直が放課後に窓を閉めるのだ。僕はそれを頬杖をついて見ている。
ホームルームが終了すると同時に教室内はかまびすしいなったが、十五分もすれば潮が引くように生徒たちが退室していって、雑音は机や壁にとけていった。まるでスポンジのように音を吸収していく教室。
学校はつつがなく終わり、帰宅を残すだけとなる。
カバンを取って教室を出る。廊下には思い思いに雑談する生徒にあふれていたが、どこか遠い景色のように映った。位相が合っていないんだ。明暗の異なる紙を二枚重ねたような感じ。焦点が定まっていない。
そして昇降口には、蛾々島杏奈がいる。
蛾々島は物憂いに下駄箱の下方を見つめ、ふと僕の姿を認めると唇を弧の形にしてみせた。
予期せぬ邂逅。どうやら蛾々島は誰かを待っているようだ。
「遅かったじゃねェか」蛾々島の視軸は僕に当てられている。
どうやら僕を待っていたようだった。
僕はいささか面食らった。視界の端で友達と一緒に教室を出る蛾々島を視認していた。「今のこの心境を表すとしたら、はとが豆鉄砲を食らったって比喩が適当だろうなと思ったね」口調がおのずと、斜に構えるような尖った言い方になっていることを自覚する。
「そんなビックリするこたァねェじゃねえか。昇降口にオレがいるってだけなのによ。驚くに値することか?」
「友達と帰るんじゃなかったの?」
「やめたよ」蛾々島は澄んだ双眸を向けた。「やっぱり無理するもんじゃねェな。化粧をしてこのかた、あっちから歩み寄ってきやがる。まるで昔からのお友達って雰囲気だ。オレはそんな気全然ねェのに、親しげに話しかけてくるんだぜ。まぁ、それも無理ねェとは思うさ。見た目も話し方も変えたからな。普通に順応した。それで親しみやすくなったんだろうぜ」
「どういうことだよ」
「やっぱりお友達ごっこは疲れるってことだよ」
「そういえば、昼休みの間、クラスメイトと仲良さげに話してたな」
「誘われたんだよ。一緒に飯食わねェってな」
「よかったじゃないか。友達ができて」
「でもよ、オレはあのときほど他者との溝を認識したことはなかったぜ。驚いた。昨今の女子高生はアニメの話もできねェのかってよぉー」
「女子高生みんなオタクってわけでもないしな」
「きちんとした日本語を話してくれーっつーんだよ。ファッションとかメイクとかいわれても分かんねェよ」
「確かに、めかしこんで姿見見てるよりも、マウスに手を添えてパソコン画面見てるおまえのほうが想像しやすいもんな」
「なんつーかなァ」と蛾々島は仕切りなおすように言葉を切り、「やっぱりおまえと一緒にいるのが一番気が楽でいいんだよなァ、これが。オレも初めは女子連中と一緒に帰ろうと思ったんだけどよ、考え直した」と天真爛漫に笑ってみせる。「なァ、一緒に帰ろうぜ」
◆◆◆
蛾々島杏奈と言う人間はおそらく、生まれたときから他者との懸隔を感じていた少女だったに違いない。
僕も断片的にしか彼女の私生活や家庭環境を知らないが、おぼろげながら彼女の両親が不誠実な人間なんだろうなと推測をつけていた。昼休みはお弁当ではなくいつも菓子パンだったし、三社面談はいつも最後に回されていたから。
彼女の不幸な人生はまず、家族との不和に端を発しているのだろう。イビツな環境に呑み込まれて、今の不自然な人格が構築された。眼帯をつけ口調を変え、周囲を睥睨するような雰囲気を発していた。孤高なんだ。他人との交わりを忌避するような性情。しかし彼女の周縁の壁は屹とそびえ立っているように見えて脆弱で、深く掘られた溝も、実は誰かに埋めてほしいと思っている。
人は遠い。離れている。一瞬心と心が触れ合ったように感じても、時とともにその気持ちは風化する。想いはやがてただの産業廃棄物になる。分かり合うことは難しい。分かり合えてもすぐに離反する。人はいつも自分本位。身勝手で盲目の論理。誰だって自分を受け入れてほしいと思っている。
第一に、自らが水であることを欲する。第二に、自分と言う液体を存分に満たしてくれる最適な器を探している。他者に器としての役割を押し付ける。しかし、寛大な器を持つ人間はなかなかいなくて、世界は無限の水にあふれている。洪水。ダムが決壊した心は破綻へと至る。汚濁した水の奔流なんだ。そのあふれんばかりの狂気。
結局、まがい物なんだ。誰かの気を引くために作られたかりそめの器。打算に満ちた醜い器。ある種、穴が開いている不完全な入れ物に過ぎない。一旦相手の気持ちを受け入れる代わり、それ以上の想いを相手にむりやり受容させる。そのための器。損得と損益で緻密に計算された汚らしい器。その駆け引きによる奇怪なつながり。それこそが世間一般に言う優しさなのかもしれない。優しさですら損得勘定で見積もられる。誰もが自分を受け入れてほしいと思っているから、あなたを受け入れてあげる、といったポーズをする。自分を受け入れてもらいたいだけなのに。
蛾々島はいつものようにくだらない話をする。
平素変わることのない会話。
「なぁ、蛾々島」と僕はふいにこれまでの話題を区切った。「ちょっとよりたいところがあるから、ここでお別れな」といって曲がり角を指差した。
「ん? なんでだよ」
僕は反応に詰まる。頬をかいた。「ちょっとな」
「ちょっとな、じゃ分かンねェーよ。どこ行くんだよ。答えろよコラ」蛾々島は鷹のような眼圧を放ってきた。
僕は蛇に睨まれたかえるのようになってしまうも、「さ、佐島の家に行くんだ」と弁解するように言った。佐島の家というのは即ち、佐島菓子店のことだ。
佐島菓子店は学校から一キロほど北上した先にある。僕や蛾々島の家はその周辺に立地していた。
蛾々島は胡散臭そうに僕を見た。疑っているように思えた。
僕は蛾々島から顔を逸らす。蛾々島は追うように僕の視線を捕らえようとする。
やがて……。
「だったらオレもいく」と蛾々島はにわかには信じられないことを言った。「あれだろ、佐島の実家って菓子屋なんだろ? いいな、それ。菓子食いてェよ。ていうかおごれよなァ、緑葉。確か男は女の分までおごらなくちゃいけねェって昨日、女子連中に借りて読んだ雑誌に書いてあったぜ」蛾々島はもう乗り気になってしまったのか、率先して十字路を曲がろうとする。
まずい流れになった、と思う。蛾々島を連れて行く気なんて全然なかったのに、困ったことになった。こうなるなら一度家に帰ってから向かったほうがよかったかもしれない。しかし、事態は常に推移している。
「なんだ、菓子屋にいかねェの?」蛾々島は不思議そうに僕を見た。
「……もし俺が一人で行きたいって言ったら、おまえ怒る?」
「あ?」
「だよなぁ」蛾々島の眼光は多分に獣性がこもっていて、僕は小動物のようにひるんでしまった。
僕はただ、菓子屋で働く静絵を見たいだけなのにさ。
濁った夕日を浴びながら、かち歩きをする。菓子屋までは咫尺の間だった。
「こんにちわ」僕たちは暖簾を分けて店内へと足を踏み入れた。
しかし予想に反して、店内は静寂に包まれていた。
不思議に思って奥深く進んでみると、足が妙な物体に行き当たった。
そぉーっと視線を下に向けてみると、信じられないものがそこにあった。
「佐島ッ!」
それは床でぐったりとへばっている佐島月子だった。制服を着ている。きっと学校帰りなのだろう。
店内が薄暗くてよく見えない。僕はしゃがみこみ、佐島を注視した。すると、後頭部が赤黒く腫れ上がっているのが分かった。髪をかき分けてみるとなるほど、大きいこぶがある。
きっと背後から殴られたのだ。
僕はいいようのない恐怖に囚われた。
蛾々島も呆然としたように僕と佐島を見比べている。僕と同様にどうしていいのか分からないらしい。
佐島は何も言わない。先ほど脈を図ってみたが、気を失っているだけだと判明する。
「きゅっ、救急車だッ! 救急車を呼べ緑葉ッ!」
蛾々島はたまぎるような大声を上げた。
その声に一時停止していた思考が活動を始める。僕は慌ててポケットに手をつっこみ、携帯電話を取り出そうとした。
と。
ふいに、ある着想が舞い降りてくる。
「……そういや静絵は?」