第四十三話 兄(31)
教室は微妙に居心地が悪かったが、気になるほどではなかった。時折ひそひそ声がして、僕に視線が集中する程度。睨んでやったらさっと目を逃がす。平穏。隣に蛾々島がいたのが奏功したのか、激しく詰問されることはなかった。
ただ、僕と蛾々島との関係がやけに親密に見えたらしく、「荒風の次は蛾々島に鞍替えかよ」と言った声が所々から聞こえてくるのがうざかった。そんなつもりなんてないし、蛾々島とは寧と交際する以前から友達だった……だってそうだろ。手をつないだこともないし、キスをしたこともない。そんな男女を恋人と形容することは一般にはしない。ちょっと変なことがあったけど、やっぱり友達なんだよ、僕たちは。
でも、周囲はそうとは思ってくれない。
いたたまれない空気が漂う。
四時間目の科学が終わり、昼休みの鐘が鳴る。カバンから母さんが作ってくれた弁当を取り出し、風呂敷をといた。
僕はいつものように蛾々島が強引に机をくっつけてくるものだと思っていた。無理やり迫ってくる蛾々島をあしらいながらも、不承不承会食となるのがいつもの流れだった。
しかし今回は違ったようで、「蛾々島のやつ、こないな」と思ってふと蛾々島のほうを見てみると、数人の女子と楽しそうにおしゃべりしていた。ほほえましくもあり、かばかりの寂しさもある。僕はなぜか複雑な気持ちになった。
蛾々島は僕に気づいたのか、会話を一旦中断し僕に近づいてきて言った。「悪い、オレあっちと食べるから」蛾々島は両手を胸の前に合わせ、すまなさそうにした。次いで、通達を終えた蛾々島はあっさりと去っていった。
返事をするひまもない。僕はただ、うめき声のようなものを上げるだけだった。
くだんの少女たちはひとつの孤島を形成していた。数個の机をより合わせ、かわいらしいお弁当を開帳し、一つのコミュニティを築いている。
一方の僕も孤島を形成してはいたが、構成要素は僕一人だった。周囲もそれらの少女たち同様、仲のいいお友達とで島を作っていた。しかしながら、僕のみが孤立している。
一瞬、蛾々島に声をかけてみようとも思ったが、自分がすごくかわいそうなやつに成り下がってしまうのでやめておくことにした。蛾々島は僕に目もくれずに購買のパンを食いながら、お友達との会話に興じている。一瞬僕に対するあてつけなのかなと思ったが、もっと自分が惨めになるだけだった。
僕は弁当箱を包みなおした。途中包みのを失敗して何度かやり直した。周囲の喧騒が聴覚に届いてくる。中身は楽しそうな笑い声、煩雑な会話……。
弁当箱を小脇に抱え、教室を出る。
廊下にはちらほらと生徒がいた。窓から漏れる日光。ほこりが浮かんでいるのがかすんで見え、汚いなと思った。
落ち着く場所を図書室に決めて、階段を下りようとする。
すると相識の顔と逢着した。佐島だった。
佐島は階段の壁にもたれかけ、ぼんやりとしている。トイレの帰りなのだろうか。ハンカチを手にしている。
声をかけるかどうか迷ったけど、「どうしたの?」と結局、声をかけることにした。
佐島は茫漠と視線をたゆたわせている。まるで亡霊みたいなんだ。いつもの天真爛漫さはなりを潜めている。奇妙だった。この雰囲気の沈み具合は従来の佐島とは著しく乖離していた。
固唾を呑んで見守っていると、突如佐島の体がくず折れた。糸の切れた人形みたいだった。「お、おい!」と慌てて佐島を抱きかかえるが、当の本人は虚空を見つめているだけだった。「なんだ、貧血か? どうなってんのよこれ」
「よっ、よっ」佐島はまるで嗚咽するように横隔膜をひくひくさせた。
「ん? なんだ、伝えたいことがあるのか?」
「詠太郎がっ、いない……」
「……藤宮がか?」
「うん……」
「なんで」
「さっきまで、教室にいたのに、いなくなった……」
「どっか行ったんじゃないの?」
「そんなことないッ!」と佐島は過剰に反応した。まぶたが痙攣を起こし、唇が病的にたわんだ。歯がカチカチとイビツに鳴り、腕をガリガリとかいている。「そんなことない……約束したのに……詠太郎は、お昼休みに、一緒に食べてくれるから……約束したのに。裏切った。私を。でもいない。どこいったんだろう。ねぇ……知ってる?」そして彼女は無垢な表情をした。
知らないというと、佐島は悲しそうな顔で下を向いた。
そういえばと僕は思い出す。これは蛾々島から聞いたことだが、佐島は中学校の頃イジメを受けていたらしい。それを蛾々島が気まぐれで犯人をボコり、その後始末を藤宮がしたという。そうしてイジメが収束した後二人は彼氏彼女の間柄となり、今に至る。その期間実に四年。浮沈の激しい中高生にしては長い交際期間だと思う。そして佐島は、助けてくれた恩もあってしばらくは藤宮にべったりだったとも聞く。依存しているのだろう。佐島は。
佐島は小動物のようにおろおろとしている。穴から周囲を臆病に見渡すねずみのようだった。
危うい綱渡り。落ちてしまえば心とか感情とか情緒だとかを一つにした結晶体が一挙に崩れてしまうだろう。ガラス細工の宝玉を床に叩きつけるように。
僕は佐島の背中を一定のリズムでタップしてやった。赤子を眠りへと誘うような穏やかなリズムだ。佐島は静かにまぶたを閉じた。
しばらくした後、佐島は自力で起き上がった。「ごめん。迷惑かけた。ちょっと錯乱しちゃったみたい」
「みたいだね」
「恥ずかしいとこ見せちゃったな」佐島は方目をつむって舌を出した。
廊下では相も変わらずやかましい雑音と自己主張の激しい信号とがまぜこぜに残響していた。まるで衛星通信のように互いの電波を飽きることなく交換している。きっと自分はここにいるよと他人に送信したいのだろう。それが己の存在証明となる。
佐島との海の底みたいな静寂の中、それらの雑踏はとても間遠いものに思えた。隔絶していた。
「それじゃ」佐島はそれだけの言葉を残してこの場を辞した。靴音だけが徐々に遠ざかる。その後姿ももやみたいに跡形もなく消えた。
妹のことをよろしく、と伝えたかったが、言うタイミングを逸してしまう。
聴覚が再び、諸般の雑音を拾った。先ほど佐島の体に触れたからか、手のひらが麻痺したみたいにジンジンした。
暫時立ちつくしていたが、ふっと息を吐いて階段を下りた。佐島のことを考えるのをやめて、図書室で朝食をとろうと思った。
藤宮のことは……思慮の外。学校を抜け出したのだろう、と単純にそう思った。あいつがサボるなんて珍しいけど、ありえないことではない。僕はあいつの突飛な性格を知悉している。あいつはいつも、みなが予期しないであろう盲点をつく天才なのだ。
だから藤宮に関して佐島に言及することもなかった。
僕は氷のように透徹と凍てついている男について想いを馳せた。そいつは心の底まで見抜けるような眼球を黒縁のメガネのレンズで隠し、周囲に絶対零度のバリアーを張っている。藤宮詠太郎は宇宙空間の中で一人ぽつりと佇んでいるような男だった。
階段を一歩下りていくたびに、様々な人間の輪郭が湧いては消えていく。静絵、母さん、蛾々島、佐島、そして藤宮。
人は変わらずにはいられない。
知らず知らずのうちに環境に適応していく。それは進化であり退化でありゆがみでもある。
のちに、それがさだめだと知る。