第四十二話 兄(30)
結局静絵が姿を現すことなく、朝食は終了した。母さんは不安がるような、でもどこかで安堵するような表情をしていたのが印象的だった。母は何を思っているのだろう。あるいは、何をどう勘ぐっているのだろう。これも親子だから分かるのだろうか。血の紐帯が非言語的な直感を働かせるのか。
「ッんだよ、辛苦腐った顔しやがってよォ。こっちまでメランコリックな気分になっちまうだろうが」
登校中、声がして後ろを見てみると颯々と黒髪をなびかせる蛾々島がいた。僕のほうに肉薄してくる。「蛾々島」
「まッ、真面目腐った顔よりゃ数倍マシかもしんねェけど」蛾々島は唇を吊り上げて見せた。埒もない諧謔を織り交ぜてくるあたり、今日の蛾々島は上機嫌に相違ない。「けどさァ、悩みでもあんならオレに相談してくれてもいっこーに構わないんだぜ」と親指を立ててみせた。
結構いいやつなんだなと思ったが、残念ながら他人に話せるようなものではなかった。この苦悩は胸中に秘し隠されるべき類のものだった。「ちょっとさ、お腹が痛くてさ、まいったもんだよ。今朝何回トイレに行ったんだっけか」
「んだよ、そんなキタねェ話すんじゃねェよバカ。これほど爽快な朝に似合わねェ話題はないぜ」
「勘弁してくれよ。朝っぱらから漫才だなんて結構体力使うんだからさ」
「オレはおまえと漫才コンビ立ち上げた記憶なんざねェぞ」やれやれと蛾々島は額に手を当てた。
それはこっちのセリフだ、と思う。少しは自己を振り返ると言う習慣をつけたほうがいいんじゃないのかな。
僕が眉をひそめているのを看取したのか、「おい、なんだよその目は」と脅すような口調で僕に迫ってくる。いつもの蛾々島だ。しかし姿形はみめよい淑女であり、そのギャップが新奇なものに映る。見た目と中身が調和していないって感じだ。きっちりと裏切ってくるって感じだ。「おまえのその目つき……それを人は睨みつけてやがるって解釈する目つきだぜ」
「非難してるんだよ」襟首をつかまれて話しづらい。「この目つきはおまえを非難してるぞって無言で伝える目つきなんだよ」
「ようは放せってことか?」
「おまえは手荒いんだよ」
「おまえはオレに胸倉を放してほしいか否かを答えりゃいいんだ」
「行動がそこら辺のチンピラと変わらないな」
「チンピラと魔王を一緒くたにすんじゃねェ」
「どっちも社会不適合者じゃないか」
「荒風寧とはどうなった?」
蛾々島杏奈は刃物のように鋭い視線をよこしてきた。寸鉄人を殺してくる。簡潔な言葉で僕の中身をえぐってくるんだ。
「答えろよ。オレはおまえに答えろといってるんだ。え? そうだろ? 質問にはイエスかノーか、あるいは誰が、何を、いつ、どこで、なぜしたのか答えるのが礼儀ってもんだろ。国語の授業で習っただろ? オレは知ってるんだぜ。オレは昨日の事件に遭遇し、目撃し、見聞し、言わずもがなオレはその場に居合わせているのを忘れたのかよ。教えろよ……事の経緯、その顛末をよ……」
「一つだけ確かなことがあるとしたら」と僕は前置きをして、一呼吸して、言った。「僕は寧をふった」
「……あの男どもが群がるような超優良物件をか?」
「否定してほしいのか?」
「てめェの正気を疑ってんだよ。信じられねェ。あんないい女ふるなんざァ、人生を棒にふったも同然じゃないか」
「狂気の沙汰さ。おまえも見ただろ? 寧は根本的なところを狂わせていた。パジャマ姿で校内をうろつき回り、果てには三階から飛び降りたんだからな」
「それはおまえも一緒だろうが」
「似ているようで違う」
「何が違うってんだ」
「狂気だよ」
蛾々島は押し黙った。僕の発した言葉を咀嚼し、その意味を吟味しているように見えた。
はたから見れば少女に恫喝される男子生徒って感じの構図だった。いい加減手を放してほしい。僕はふっと息を吐いた。「見た目はかわいらしい女の子になったってのにさ、そんなことしたらせっかくの変身が台無しだと思うんだ」
「かッ、かわいい……?」
しばし黙していた蛾々島は一転して周章狼狽した。襟首をつかむ手を離し、あわあわと頬に手を当てた。なかんずく頬を朱に染めている辺り、言ってるこっちも心が乱れてしまう。
その反応がやけに生々しくて、愛らしくて、本当に従来の蛾々島じゃなくなったみたいだ。外面が変わったからおのずと内面も変化を生じさせているのだろうか? こんな反応、僕は初めてだった。
「なッ、なんてこと言うんだッ! か、かわいいだなんて……女の子に面と向かって言う言葉かッ!」僕の視線に気づいたのか、まるで難詰するように排撃してきた。整合性に欠けた文句を縷々(るる)と垂れてくる。「どッ、動揺するだろがッ!」
「……なんつーかさ、変わったな。おまえ」
「ど、どういう意味だよッ!」
「すっげぇかわいくなった」
蛾々島は魂が抜け落ちたような表情をした。
僕は思ったことを素直に口にする。「言動がいちいちさ、年相応の女の子っぽくなったって言うか、いじらしいって言うか……なんか少女漫画チックになってった感じ。ちょっと前の蛾々島じゃ考えられない反応だと思うんだ」
「そ、それで……?」
蛾々島は透徹とした目を向けてくる。穢れを知らない快活な処女のような天衣無縫さ。僕は対応に困って、頭をかいた。「なんつーかさ……いや、やめよう。言うのは」
「言えよッ!」
僕は恥ずかしくなって、気がつけば早歩きしていた。顔が赤くなっている。新鮮な経験。これまで蛾々島を女と意識したことがなかったせいからかもしれない。今になって蛾々島がかわいい女の子に見えてくる不思議。
互いが互いを意識しているというのに、目が合ってしまえば目を逸らし、何か言いたそうに唇をかんでしまう。そんなはがゆい雰囲気。
「おまえはさ」
と。
「おまえはさ、なんでオレが似合わない化粧なんかしたと思う?」
「そりゃ、お母さんに言われて渋々。だろ」
「違うんだ、それ」と蛾々島は熟れたリンゴのように頬を朱に染めた。「それはまぁ、きっかけってやつだ。押せ押せなんだよ、あのババァはよ。でも、原因じゃないんだ、こんな風にしたの。きちんとした理由があるんだ……。まぁ、おまえにも見当もつかないとは思うけどよ」
「確かに見当がつかない」
僕が一息に言うと、蛾々島は下唇を強く引き結んだ。何かを決心しているような表情だ。これから重要なことを言うって決意したものの目だった。「もしもッ! もしもの話だぜ……もしオレがッ、おまえのために化粧したって言ったらァ、おまえどうする?」
それは突拍子のない言葉だった。
反応に困った僕は、蛾々島の顔を注視した。
蛾々島は僕の表情を見て、にわかに顔をしかめた。しまったって顔をしている。
足元に風が吹き込んできた。
「なにそれ、おまえ、俺が好きなのかよ」茶化したような口調なんだ。というのも、僕は蛾々島が冗談を言っているのだと思った。あまりに素っ頓狂な冗談だったので、意表をつかれたのだ。だから僕も、いかにも冗談ですよってトーンで応じた。
「ははッ、んなわけねェだろ。オレがッ、おまえを好きだなんて、たちのワリィ冗句だ。百人中百人が笑わないようなくっだらねェ軽口……そうだよなぁ、そうだよなぁ……」
蛾々島は泣きそうな顔をしている。目に涙をため、子供のようにはらはらと頬を震わせた。
僕はやにわに、焦心する。もしかしたら僕は、とんでもない間違いを犯したのではないかと思った。
「殺してやる」
蛾々島は憤怒を前面に押し出して、僕に手を伸ばしてきた。迫ってくる。身の危険を感じ、撤退する僕。
何がなんだか分からなくて、いつの間にか地雷を踏んでいて、被爆していたことを知る。
「殺す殺す殺す」
蛾々島は執念深い殺人鬼みたいに追いすがってくる。それを振り切ろうとして、僕は足をバネのようにして走り出していた。
「待ちやがれって言ってんだよタコッ! 謝れッ! 乙女心をもてあそんだ罪を謝りやがれッ!」
「なんだよ、ただの冗談なんだろ!」
「殺す」
「殺すとか理不尽」
「なぁーに、死期が少し早まるだけだぜ」
「俺はきちんと寿命を全うして死にたいんだ!」
またいつものように追いかけっこが始まる。僕が逃げて、彼女が追いかける。往々にしていたちごっこ。終わりがない。しかし、どうやら彼女に心境の変化が訪れているらしい。
むずがゆい気持ちが湧き上がってくるのを止められなかった。なんなのだろう。判然としない。なぜ僕は走り出しているのだろう。分からない。きっとこれまでの事件が重なって混乱しているだけなのだろう。だから彼女の本意が理解できない。理解できないまま等閑に伏してしまう。滑稽だ。まるで漫才。互いの本心をさらけ出すことなく、表層の会話のみで成立させている。蛾々島はその暗流に終止符を打ってくれようとしたけど、僕はそれを単なる冗談と解してしまったのだ。
結局、僕と蛾々島の漫才は学校の玄関前まで続くことになった。