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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第3章 相克するシーブリングズ
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第四十一話 兄(29)

 これほど憂鬱になる朝は生まれて初めてだと思った。

 起床。

 窓から照りつける光は鮮烈で、網膜がチカチカと点滅している。まばたきをするたびに一秒前の前景が残像となり、まるでパラパラ漫画のようになった。酩酊。視界が途切れ途切れになるんだ。攪拌(かくはん)される意識。換言するなら、一本の線だ。精神と肉体とをつなぐかすがい。迷路のように入り組んでいるけど、その糸のほつれを解きほぐしてピンと伸ばしてみればきっと、一筋の直線になるだろう。

 その線が(なた)のようなもので寸断されている、とでも言えばいいのか。好きな子に受け入れてもらえない虚しさや、どうすることもできないやるせなさが混合し、抑圧された性欲がそれらをぐちゃぐちゃにかき混ぜる。曖昧な思惟が水のように形を喪失し、線形であることをやめ、気持ちの悪い円形をなし、やがてドロドロと濁りをたたえた渦状となる。そして歪みが潮流を形作り、負の感情が絡み合い、つながり合い、化学反応のごとく、心を穿つ怒涛の奔流に様変わりする。終わりのない螺旋。相生し、相克する。

 この感情の羅列にどう決着をつければいいのだろう。だから朝は憂鬱なんだ。

 僕はかけ布団を下肢にかけたまま、愚にもつかない思索の渦に呑み込まれていた。

 おぼろげに、静絵の顔を想起する。この世に生を受けて十七年間、起居をともにした隣人であり同胞。同じ母胎を共有する兄妹。そして、一時期愛を交し合った恋人……それは世間一般な家族愛ではなく、男女の睦みを連想させる性愛。しかし、今となっては崩壊している。

 それが良いことか悪いことか、頭の悪い僕じゃ分からない。でも心のどこかで復縁を望んでいた。僕の心が、体が、静絵を欲していた。もう止めることはできない。あふれ出る。過去の思い出で溺死しそうだ。

 まさに人倫に反する感情。でも正論で片付く感情を友情とか愛情とか言わないなんて、彼女はいっていたように思う。確かに、理屈でどうにもならないから感情ってのは厄介な代物だった。それゆえに彼女が愛しい。

 不条理な想いに身を任せて、不条理な境遇を嘆きながらも、理屈では説明できない通好を求める。感情は理で割り切れない。その余りが直情径行の愛であるなら、それはきっと純粋なものに違いない。

 彼女は多分、遠慮しているのだと思う。僕が普通の人生を送ることを願っている。荒風寧という血の鎖に縛られない存在。そんな女に僕を譲り渡そうとしているのだろう。

 そんな彼女にいじらしさと言うか、僕に対する確かな愛を感じ取って、やるせなくなる。彼女は真の意味で僕のことを深く想ってくれている。僕の幸せを考えてくれている。その行路に自分を退けて――。

 でも僕はそんなこと望んでいない。僕は僕のために、隣に他でもない静絵がいてほしいと思っている。君じゃないとダメなんだ。君とくだらない話をしたいし、手をつなぎたいし、キスをしたいし、セックスもしたい。だから寧を遠ざけた。僕はわがままなんだと思うんだ。僕のことを大切に思ってくれている人の意志すら無視して、邪魔して、反故にする。他人のことなんて本当はどうでもよくて、でも何よりもその人のために尽力したいと思っている……人とはままならない生き物なのだな、と改めて思う。そうした無鉄砲で盲目な覚悟が空回りした結果、前日の惨状を導出したに違いない。

 でもきっと答えなんかないんだ。自分で答えを編み出すしかないのだろう。世界に対して自分で練った回答を提示するしかないのだろう。

 線形の想いを柱状になり固め、(ちゅう)()するバベルの塔を作ってみせよう。僕たちの想いを天に届けてみせよう。その果てにまだ見ぬものを求めて。

「決めた」今一度静絵と話し合おう。まだ終わったわけじゃない。また始めればいい。

 段々と網膜が光に馴致(じゅんち)し、明滅がなくなった。パラパラ漫画の後には清々しい朝が待っていることを知る。

 布団を跳ね上げ、服を着脱し、階下へと向かう。朝ご飯の卓に彼女もついているかな……そんな一抹の期待を胸にして、階段を下りる。

 居間には新聞紙を広げている父がいた。キッチンでは飯を持っている母の姿がある。静絵の姿はない。

 食卓についた僕はぼんやりとテレビの映像を追っている。

「あら、おはよう」母さんはイスに座っている僕を見て、少し驚いているようだった。時計と僕とを見比べている。

「僕だってたまには早く起きるさ」

「きっと目が冴えたのね」食器を並べる母さんは含み笑いをしている。「目が冴えれば朝も早くなるわ」

「何か含んだような物言いだね」

 母さんは静かに笑っている。何事もなかったように配膳を再開した。

 と。

 そういえばと言わんばかりにふと、母さんは頬に手を添える。「そういえば……彼女さんとはどうなったのかしら」と暫時して、何かを企んでいるようなイタズラっぽい表情になった。年端の行かない童子のようだった。

「……寧のこと?」

「そうに決まっているじゃない。他に誰がいるのよ」

「あぁ……そうだね。他に誰がいるんだろうね……そうに決まってるか。簡単に予想できる事実」

「それで、彼女とはうまくいっているの? ずいぶんかわいらしいお嬢さんだったから、競争率高かったんじゃない?」

「よくものにしたのねって言いたいの? 母さんは」

「だってずいぶんと育ちのよさそうなお嬢さんだったわ。深窓の令嬢って感じよ。たおやかだったわ」

 確かに僕の第一印象もそんな風だった。「いやさ、寧はそんな簡単なやつじゃないんだよ」

 すると、母さんはニヤニヤしている。「ふーん」と意味深に僕を覗きこんでくる。何かを取り違えているなって感じなんだ。

 もう否定するのも面倒くさくて、そのままにしておいた。ご飯をかきこむ。手が怪我しているから食べにくい。あとで包帯を巻き直そう。

 母はきっと、僕と寧が本当の自分をさらけ出せる仲になったのだと解釈しているのだろう。確かにその通りでもあった。寧はその身に秘めた本性をさらけ出した。そうして僕たちは決別した。

 思うに、母さんのそれはひやかしってやつだ。この後に彼女が迎えにくるんでしょ? とそういった風に僕をからかっているに違いない。猫みたいな茶目っ気な笑みを浮かべている。しかし、そんなことは金輪際起こりえない。そう断言できる。

「……おまえ、恋人がいるのか」

 唐突に横から声が聞こえた。

 父だった。 

 父は新聞紙越しに声をかけている。「女を扱うというものは、絹で包むようなイメージだ。割れ物のガラス細工。丁寧に扱ってやれ。女は玉のように大事にするに越したことはないのだからな」やけに重苦しい口調だった。言っている内容と似つかわしくないのが面白い。

 だから僕や静絵が生まれたのだと思った。

 僕は言った。「そうやって母さんを口説いたの?」

 父さんは口をつぐんだ。新聞紙で顔を隠している。

 母さんは目を逸らし、顔を赤くしている。

 静絵の姿はない。



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