第四十話 兄(28)
それは一本道だ。直進すればいい。側面には畑。耕作している農家。トラクターがうねりをあげて稼動している。
ポケットに手を突っ込み、路傍の石ころを蹴りながら歩いていた。
遠くに峰を望み、ぼんやりとしている。気がつけば石を蹴るのをやめていて、茫々と繁茂するすすきを見つめていた。
空虚な時間が流れていた。空っぽなんだ。すっかり飲み干されてしまったペットボトルのように、胸に空気が満ちていた。どうすることもできない抑鬱。そして、一抹の期待……。しかしそれは、退廃芸術を見て感じるような愉悦に近い。そんな両極端の感情に呑まれている。渦だ。呑まれている僕がいる。
一昔前の屋敷のような外見をしているそれは、二十分もすけば到着する。木でできた看板がそばに立てかけてあって、佐島菓子屋と墨で一筆書きされている。筆致はかすれかけていて、腐朽している。
辺りは物静かな雰囲気だったが、中から人の声がした。二人だ。お客さんだろうか? しかし店内を覗き込んで、その憶測が違うことを知る。
まんじゅうやきんつばなどが並んだ店内には土間が設けられており、土を固めた小高いところに二人の人間が腰かけていた。一人は静絵で、もう一人は齢傾いたおばあちゃんだ。灰色の髪をこぎれいに束ね、人のよさそうな笑みを浮かべている。一方の静絵はじゃっかん顔がこわばっているものの、時折笑顔を垣間見させて、話しこんでいる。
静絵の視線は下を向いている。
おばあちゃんはにこやかにうなづいている。
僕は店外から様子を伺っている。
おそらく、佐島の祖母なのではないか、と思った。佐島の家は三代続く菓子屋だと耳にしたことがあった。それで佐島の祖母はボケ気味で、何を言ってもニコニコするだけだと言う。言葉を返すことはなく、うなづくだけだ。病も進行しているのだろう。土間に投げ出された脚部には、生々しく骨が突き出しているのが分かった。
静絵は手振りを加えて熱心に話している。おばあちゃんはうんうんとうなづいていた。
会話の間隙で言葉が途絶えると、痛々しい静寂に包まれた。おばあちゃんは相も変わらずうんうんとうなづいている。不気味に思えるくらいに、老婆は健やかな笑みを浮かべていた。
静絵はそれに気付かず、必死に次の話題を見つけているのが分かった。顔に汗を垂らして、何とかしないといけないって感じの表情をしている。話題を探し出すことに汲々としているがしかし、おばあちゃんは静絵を無視するようにニコニコするだけだ。
僕はなんだか、狂おしい思いに囚われた。
「静絵」いよいよ堪らなくなって、僕は声をかけた。「静絵」
静絵は体をこわばらせて出入り口のほうを見た。僕はその反応にむなしさを覚える。
僕は土間に入った。
静絵は僕から視線を逸らした。いたたまれなさとか恥ずかしさとかを混合させた、人間らしい表情をしていた。
その点から見ても、彼女は人間的に成長したように思う。引きこもりのころの静絵はまるで人形のように無機質だった。反応らしい反応もせず、情緒を感じさせることもなく、ふいに感情を爆発させて母さんを困らせる。行き着く先は家出だったり、自室で篭城だったりする。どうにかするのは決まって僕の役目だ。静絵から逆襲されて、いまだに首を絞められたあとが残っている。静絵は我が家の地雷だった。
おそらく、社会に触れたからだった。今回のアルバイトだとか、ネットだとか。その成否はともかく、徐々に人間っぽくなったように感じられた。なにぶん、初めは社会不適合の欠陥人間だったからか、そのギャップが狂おしい。
僕は静絵に声をかけるのは諦めて、「おばあちゃん」ともう一人のほうにアプローチをかけてみた。「これ、食べていい?」と近くにあった菓子を手に取る。
おばあちゃんはうんうんとうなづいている。僕は包装を解いて口に入れた。「代金はここにおいて置くから」とおばあちゃんの手のひらにお金を置く。十二円。
おばあちゃんはうんうんとうなづいている。
静絵はいけないものを見たような目つきをしていた。爾後、喪失感と虚無感を合わせたようなものが顔にあらわれる。
「これ、全部もらっておくから」僕は売り物のお菓子を箱ごと抱えて、きびすを返した。制止の声もなく、二人から遠ざかる。
店先まで出たところで、「千尋ッ」と後ろから声がした。静絵だ。困惑するような、まいったようなトーンが混ざっている。
僕は箱を抱えたまま振り返った。すると近くまできた静絵と目が合った。
慌てて彼女は、僕の視線から逃れようとする。追おうと思ったが、箱が邪魔で視線が届かない。けれども、静絵の顔が朱に染まっていることは感覚で分かった。
そして静絵は、おずおずと抱えられた箱を指差した。「そ、それ」
「ん」僕は言った。「なんだ、これかよ。ちゃんと返すさ。あとで、ちゃんと」
「そっか……」
それっきり、静絵は黙している。
僕は会話の糸口を見出せない。
仕方なく、佐島菓子屋に戻った。
土間では先ほどと変わらない姿勢でおばあちゃんが座っている。
僕は棚に菓子の箱を置いた。
ちらと静絵を見やる。
静絵は黙しておばあちゃんを見ている。
「あと何時で終わるんだ?」と僕は問うた。「バイト」
「あと五分」
「帰るぞ」僕は静絵の手を握った。強引に引っ張っていく。静絵の柔らかい手の感触。汗ばんでいるのが分かる。
静絵は困ったような表情をしている。僕の手を握り返すこともなく、ちらちらとおばあちゃんのほうを伺っていた。
従順だった手が止まった。不思議に思って後ろを向いてみると、静絵は立ち止まっていた。
どこか物悲しい気持ちになりながら、「帰らないの?」と言った。
「手を、放して」蚊のなくような声量だった。
静絵は顔を伏せている。
僕は遠くを眺めた。「いや」
「お願いだから、放して」
「けど、おまえの手は放してって言ってないよ」僕は静絵のあごに優しく手を添えた。「その手か、その口か……。どっちの静絵が本当のことを言っているんだろうね」今の僕の顔はきっと悪い顔をしているに違いない。おのずと笑みがこぼれてくるんだ。この感情をなんていうんだろう。……加虐心?
「放して」
地面が濡れている。地面を穿つ水滴。
雨が降ったのかと思った。僕は空を見上げる。しかし、空は快晴だった。
雨は静絵の両の目から落ちていた。
僕は手を放した。
くるっときびすを返す。
僕は狂おしい気持ちになっていた。心の収拾がつかない。僕はこれからどうすればいいのだろう。何が正しくて何が誤っているのかよく分からない。どうすれば静絵のためになるのだろうか。そんな埒のないことばかりを考えている。そんな自分が気持ち悪い。
「ごめんな」僕は静絵の手を放した。手のひらに残るほのかな温かさ。むずがゆい。意味もなく胸をかきむしりたくなる。僕は名状しがたい無力感に苛まれた。自分では何もできないと気づいた。そんな自分が気色悪い。
手持ちぶさたにポケットに手を突っ込み、僕はそのまま泥濘の敷かれた畑道を歩いた。自分の弱さ、身勝手さを噛み締めて。でも、振り返ることはしなかった。
足音は一つ……。