第三十九話 兄(27)
教室の生徒たちは、授業中に入室してきた僕を不審な目で見ていた。犯罪者を見るような目つきだ。おそらく伝播しているのだろう。先般の騒ぎがこの教室にも伝わっていると見るべきだ。三階から飛び降りる変人か、木から廊下へと跳び渡る狂人か、女の子に追われている奇人か……どちらにせよ、僕の評価は今日を境に反転した。
僕は肩身の狭い思いで教室の後方を歩いた。自らの席に向かう。誰も言葉を発しない。先生も僕の挙措を伺っているのは分かるが、無言を保っている。
着席すると、隣の席から声がした。キレイな黒髪に清楚な雰囲気。イメチェンした蛾々島だ。「おい、緑葉」蛾々島は声を潜めて言った。
「帰る」
「は?」蛾々島は呆けたような表情をする。「帰る……? なんで? 怪我でもしたっつーのかよ」
僕は蛾々島の質問を無視した。両の手のひらを見せないようにする。
僕は先生に向けて、声量を大きくして言った。「すみません。気分が悪いので早退させていただきます」僕はカバンをからった。革の取っ手が傷ついた手に食い込んで、傷口に塩をねじ込まれたような痛みを生じさせた。
僕は何食わぬ顔で教室を横断する。
「お、おう」先生は慌てて返事をする。
周囲にひそひそ声が蔓延する。
僕はその空気に耐えられなくて、早足で教室をあとにした。退室したらもちろん、カバンの持ち方をショルダー式に変えた。
人の気配のない廊下を歩いていると、ふいに整った顔を歪める蛾々島の姿が想起された。不満そうな蛾々島の横顔が印象的だった。
視界の端に保健室が見えた。包帯を巻いてもらおうかな、と思った。しかし、どうしてこんな傷ができたの? と言われれば、どうしようもない。女の子にナイフを突き出され、刀身を握ってできた、とでも言えばいいのだろうか? 家で手当てをしようと思う。
それで手当てをしたら、彼女の様子を見に行こう。
この時間帯だったら、彼女はまだ働いているはずだ。しかし、母親には早退の件をどう言い訳しよう。母親は僕を責めるだろうか。どうだろう。困ったな。前途多難だよ。
おのずと。
おのずと楽しい気持ちになる自分がいる。
◆◆◆
意外なことに母親の反応は淡白だった。あっそう、で済ませている。あまり注意を払っていない。別のことに関心がいっているって感じだ。
午後二時。
おずおずと家の玄関に足を踏み入れた僕だが、心配事は杞憂に終わった。
母親と顔をあわせた後、自室へと向かう。タンスの引き出しを開ける。中に救急キットが収納されている。白い包帯とはさみ。両の手がやられているから、手当てに時間がかかった。
そして僕は、再度階下へ。
リビングには皿洗いをしている母がいる。水の流れる音。それ以外に音源はなく、テレビもつけられていない。
僕は母親の後ろ姿に声をかけた。「ねぇ、静絵は? やっぱりアルバイトに行ってるの?」
母親は答えない。
ん? と思った。母親の態度は奇妙だった。
聞こえなかったのかな、と思いもう一度声をかけようとしたが、「千尋」と母の声に遮られる。「あなた……今、静絵と言ったわね」
「……言ったけど、それがどうかしたのさ」
「家に帰って開口一番に言うセリフが、『ねぇ、静絵は?』というのは、おかしいこととは思わない? そもそもあなたたち、最近やたら仲がいいわね。母親の私が不自然だと思えるくらい、睦まじいわよね、あなたたち。初めの頃はいい兆候だと思っていたのだけれどね」
僕のほうを振り向かず、皿を洗ったまま、言う。
僕は酩酊にも似た感覚に囚われた。今まですっかり忘却していた危機感。同時に、藤宮の一言が思い出された。やつはこういうことを言っているのだ、ということに気付く。藤宮の真意を理解する。
「どうもあなたたち、毎日片方の部屋に入り浸っているようね。それっておかしいことだわ。急激な変化……なぜあなたたちが、ああまで関係を修復させることができたのか、私には理解しかねるわ。もちろん、母親として兄妹仲がいいことは幸いよ。でも、そういった幸いを通り越して、私は今、不気味な感情に囚われているわ。暗雲立ち込めるモヤモヤに囚われているわ」
「なっ、何を言うんだよ母さん。それこそおかしいってやつじゃないか。兄妹間に疑義を抱いてるってことじゃないか。それが何を意味するか、うすうす理解しているって感じじゃないか」
母は水道の蛇口をひねった。水が止まった。皿洗いが終わったのだ。
振り向いた母親は、ひまわりのように爽快な顔をしていた。「そうよね、私何を言ってたのかしら。意味不明よね。ごめんなさい、さっきの言葉は忘れて」
「つ、疲れてるんだよ、母さんは。静絵のために張り切ってたもんだから、疲れが溜まってたんだよ。ほらほら、休んで休んで……」
僕は母の肩を抱いて、無理やりソファーにつかせた。リモコンに手を伸ばし、テレビをつける。
ありがとう、と母は言った。
どういたしまして、と僕が言った。
不穏な空気が流れた。
イヤな沈黙が流れた。
どれも僕が経験したことのないような雰囲気だ。少なくとも、母親とこのような空気になったことは一度もない。こんな、互いを疑うような空気……。
「迎えにいってあげて」母親は言った。視線はテレビのほうに固定されている。「もうすぐで静絵ちゃんのアルバイトも終わるから。あなたが迎えにいってあげて」
「分かった」
僕は母親の肩を離した。
母の肩には、黒ずんだ血がべったりとこびりついていた。