第四話 妹(1)
【妹】
1.年下の女のきょうだい。
2.《古》男から姉妹を呼ぶ語。また、男性から親しい関係にある女性を呼ぶ語。
3.理解不能な生物。
◆◆◆
あの人の顔が指呼の間にあった。
全身が沸騰したように熱くなるのを感じた。瘧にかかったような冷たい熱っぽさと憎悪にも似た肉欲が烈々と惹起する。伝達。体の節々に伝達されるのは、忌々しくもうっとりするようなあの感情だった。
あの人の目、目蓋、鼻、口、頬、髪の毛、うなじ……わたしは恥ずかしさと罪悪感とでぐちゃぐちゃになってしまいそうになる。朝起きるときも、ご飯を食べるときも、お風呂に入るときも、夜寝るときも、あの人のことを思い出さない日はない。いつもあの人のことを考えている。あの人のことだけを考えている。あの人のことしか考えていなかったから、注意がおろそかになって、こんな痴態を招いたのかもしれない。いやだ、わたしは何をやってるんだ。
「だっ、大丈夫か? 怪我は……?」
と。
あの人は言った。
あぁ、と思う。嬉しい。猛烈に嬉しい。あの人に声をかけてもらった、心配してもらった……。と言うことは、あの人はわたしのことが大切ってことだよね。わたしのことが大切なんだ……わたしは火照る頬を隠そうともせず、内心悦に浸っていた。有頂天だったんだ。そして気付いた。
下半身のほうで違和感がする。股の辺りだ。スカートの内にある肌が何か温度のあるものに触れている。
その方向に目を向けてみると、すーっと頭の中が真っ白になった。
あの人の足。あの人の右足がわたしの太ももの間に挟まっている。
あの人は何か弁解のようなことを述べた。でも、耳に入らなかった。あの人の足に触れていた部分だけが異常な熱を発しているのが分かった。その部分だけが悲鳴を上げていた。もっと触って欲しいと悲鳴にも似た欲望の咆哮をあげていた。気持ち悪いと思った。こんなことで悦んでいる自分が気持ち悪いと思った。穢れている。淫奔。でも、押し倒されてもいい。あの人とセックスがしたい。淪落した精神、肉体。堕落の一途、禁じられたよこしまなる想い……。
「この、変態っ!」
わたしの己の本質を否定したいがために、嘘をついた。変態は自分だ。わたしは実の兄に抱いてもらいたいと思ってしまったのだから。
この一見清いように思えるこの恋情も、一皮めくればタールのようにどろどろとしたものがとぐろを巻いている。そのことを自覚したわたしは、壮絶な自己嫌悪を八つ当たりのような形で目の前の人間にぶつけた。身勝手な自分。わたしは一目散に自室へと駆け戻った。
扉を閉めたわたしは壁にもたれながらずるずるとくず折れた。手で顔を覆う。わたしはなんてことをしたのだろう。癇癪に任せてあの人を打ち叩いてしまった。悔悟の念が勃然として湧き上がった。わたしは自分がいやになった。
わたしの部屋にはほとんど外出しないのに大きい姿見がある。お母さんが買ってくれたものだ。その鏡面にはいまだ顔容を朱に染めたわたしがいた。
部屋のぬいぐるみがわたしを見つめている。罪深いわたしを、欲深いわたしを、非難交じりの目で睨み付けている。
わたしはベットに突っ伏した。こみ上げてくる涙を止めることはできなかった。
わたしには好きな人がいる。
実の兄だ。
学校に行くのが嫌になったのは小学校高学年の頃。その時のわたしは今では考えられないほど社交的で友達もいっぱいいた。引きこもりの変態妹ではなかった。
当時、わたしには結構仲良くしていた男子生徒がいた。なんとか君とか言って、女子に人気があった。わたしはそのなんとか君と給食を食べたり、教室でおしゃべりしていた。
世間は狭いとは言うが、人の心はもっと狭い。わたしがなんとか君と仲良くしてるだけで嫉妬する女子生徒が何人もいた。そいつらは徒党を組んでわたしに嫌がらせしたり悪口を言ったりした。わたしは生来ちゃらんぽらんな性格で、そんなこと初めは大して気にならなかった。あるいは、優越感。そんな卑しい感情がどこかにあった。
けれど、いずれは決壊する。誰にだって限界はある。靴の中に画鋲入れられたり、筆箱の中にカッターナイフの刃を入れられたり、ノートのページを全部剥ぎ取られたりしたら、誰だって怒る。当たり前だ。
だから抗議した。
いじめは激しさを増した。
許せなかったのはなんとか君のことだった。わたしが被害にあってもへらへら笑うばかりで取り合おうともしない。なんとかしてやるよとか言って、なんにもしない。なんとか君はクラスの中心人物だったけど、あいつは幼心ながら、その立場に執心していたんだ。誰にも嫌われないようそれっぽい人気者を演じるだけの道化。わたしはそんな連中に翻弄される自分が情けなくて家族に相談しようとはしなかった。
そんなある日、いじめが露呈した。ちょっとした異変に兄が気付いて、事態は一気に大きくなる。一つ上の兄は教室に乗り込んで、いじめに加担していた連中を片っ端から殴っていった。女子生徒にも容赦がない。顔の形が変形するくらいぼっこぼこに。兄は先生に捕まって厳罰に処された。兄は精神に問題があるとして、数度精神病院に通院することになった。その後、わたしがいじめにあっていることが発覚した。
急転直下。いじめはあっけなく解決して、両親はいじめ解決に奔走してへとへとになって、兄は病院から追い出されて、わたしはダメになった。
わたしは思ったより強くないらしい。頑丈だと思っていたメンタルも、想像以上に脆く、危うい。悪意に晒され続けたわたしの心は、ぼろぼろに腐食していたのだ。
小学校は保健室登校になって、休みがちになった。ちょっとしたことで苛々してその鬱憤を兄や両親にぶつけたりした。狂人のように喚いて、物を壊して、家出して、それで決まって兄に見つかって連れ戻される。そんな日々。
中学校にいたっては登校した記憶がほとんどない。と言うより人と接することができなくなっていた。両親か兄に手をつないでもらわないと、心の平常が保てない。学校に行っても兄のことがひたすら恋しくて、兄のいる教室に駆け込んだりした。兄は嫌な顔せず一緒に保健室に行ってくれて、しばらくするとお母さんが迎えに来てくれる。兄はわたしの姿が見えなくなるまで見送りをする。
わたしはこんなにも弱い自分が家族の足枷になっていることに名状しがたい羞悪を覚えた。でも、ずぶずぶと堕ちていくこの感覚に安らぎすら感じていた。落下する快感。インターネットにのめり込むようになるのも、ある種の必然だった。
どんどん自分が惰弱になっていくのが分かった。胸中には家族や先生に申し訳ない気持ちとやるせなさが混合していた。あるいは、憎悪。壊れていく自分。
それでも最低限の身だしなみには心がけた。異性の目はほとんどなかったが、幼少期に培った最小限の社交性が、女としての品格をとどめさせた。わたしは引きこもりには似合わぬ化粧品や流行の服などを家計を圧迫しない程度に買った。もちろんネット販売で。
鏡の前に立ってみれば、結構美人だ。でも、社会不適合者だ。
そして一歩も外に出ないわたしがメイクする本当の理由は、兄の存在にあった。わたしは兄に見てもらいたいのだ。綺麗な自分、美しい自分を……。丈の短いスカートをはくのも、わたしに女としての色気を感じて欲しいからだ。入念な髪の手入れをするのも、わたしに見とれて欲しいからだ。と言うか、わたしに欲情して欲しい。そんな倒錯した思慕を恋々と溜め込んでいた。
けれど、現実のわたしは苛烈に兄と接した。くだらない自尊心と気恥ずかしさが掣肘となって、わたしの行動を制限したんだ。話しかけるなと拒絶しても、実はもっと話したくて、触るなと罵っても、実はもっと触って欲しくて、つれない言動とは裏腹にもっと構って欲しかった。矛盾。兄と口論になった夜はぬいぐるみを抱いて寝た。涙が出た。
わたしは兄の一挙手一投足をうかがいながら、非生産的な毎日を過ごしていた。