第三十八話 兄(26)
「やっ、やめて。手が、手が、血だらけに……」
「やめてほしいか?」僕は逆に、ぎゅっとナイフを握った。すると一気に、赤い液体が噴出した。体中に寒気が忍び寄るも、体は熱を帯びる。ナイフに添えられた右手がジンジンと灼熱にあぶられた鉄のようになった。「やめてほしいか?」
「け、怪我してるよ。指が千切れちゃうよ。そんなの見たくないよ……千尋君の顔が苦痛に歪む姿なんて、絶対見たくない」
「だったら、ナイフをしまってくれるって、手放してくれるって、約束してくれるかな」
「えっ……」
寧の顔が戸惑いの色を浮かべる。不安と懐疑。目の前の存在が怪しげで不可解なものに見えてしまう錯覚。囚われている。
おのずとその態度に苛立ちを覚える。「何ためらってんだ。とっとと手放せよ」僕は右手に次いで、左手をも添えた。鋭い刃が左手にも食い込む。突き刺さっていく。僕は限界を感じるも、我慢する。心の中で冷静に、後何秒……と計算をする。
「でも、そんなことできないよ。そんなことしたら千尋君、逃げるつもりでしょ。ワタシから、逃げるつもりなんだ……」
「逃げないよ」
「逃げなくても、ワタシを突き放すつもりなんだ!」
「なぁ、寧」
と。
僕は。
諭すような口調で、懇々と話す。「そもそもおまえはさ、そのナイフで俺をどうしたいと思っていたんだ? ん? それで俺を刺すのか? まぁ、そうだよな。刺すよな、普通。ナイフってのは刺すためにある道具だもんな。でもさ、それで俺を刺したところで何か解決するのか? 俺が死ぬか重症を負うかして、おまえは満足なのか? 血に濡れたナイフを片手に、おまえはその後、どうするってんだ? ……そうだな、話を変えよう。おまえ、俺のこと、好きか?」
寧はかぁーっと顔を赤くした。あわあわと視線を逸らす。困ったように頬を高潮させる。「え、でも」
「言葉にしてくれなきゃ、分からないよ」
「すっ、好きだよッ! 好きに決まってる……大好きだよ。愛してるよ。千尋君のこと……」
「そっか。ならさ、一般論で言えば、好きな人には触ってもらいたいし、手を握ってほしいし、自分に好意的に接してほしいって、思うよな。それが愛情にせよ、友情にせよ、きちんと自分に向き合ってほしいって思うよな。自分を見てほしいよな」
「当たり前だよッ! 見てほしい。触ってほしい。千尋君に、触ってほしい」
僕は右手をやおら離した。手のひらはヒルに吸われたかのように肉が崩れていて、血がにじんでいる。ぐちゃぐちゃになっている。僕はその汚らしい手を、そっと寧の肩に置く。寧の体が魚のように跳ねるのが分かる。それを確かめた後、肩から肩甲骨へ、そして背中へと、手を這わせた。
「あっ、あっ」
「俺が怪我したら、俺が死んじゃったら、こんな風に二度と寧に触れることはできないんだ。そして寧は、俺のことが好き……。好きな人と触れ合うことができないって、すごく悲しいことだよ。むなしいことだ。それを寧は、自分からしようとしたんだ。そのナイフで、俺を貫こうとしたんだ。なんだろうな、これは。改めて考えてみると、愚考ってやつだよな、それは。俺と寧との関係性がどうであろうが、恋人だろうが友達だろうが、こうやって触れられないってのは、イヤなことだよな」
「イヤなこと……」
自分の制服に血がべったりとくっついていることに、寧は頓着しない。ただ僕の手に己が手を重ね合わせて、愉悦している。血が付着しようと関係ない。
それとは別に、僕との問答で苦悩している。難しい顔をしている。
僕は右手を手放した。やはり、煮崩れしたかぼちゃのようになっている。手に突き刺さったガラスの破片をむりやりとってしまった後みたいになってしまっている。気持ち悪いしメチャクチャ痛い。細い針で何本も刺し貫かれたような激痛。手をグーの形にして、その表面を見ないようにする。
寧は血まみれの、所々肉の付着したナイフを見て、おぞましいものを見るような目をした。わっとナイフを手放す。戞々(かつかつ)たる音が響く。金属同士が打ち合うような残響だ。そして寧は、僕を畏怖するような目つきをする。気持ち悪さと痛々しさ、狂おしさと愛くるしさを内包した視線。
ポタポタと手から血がこぼれている。
「俺はさ、おまえのことを大切な友達だと思ってるから」
僕は寧の隣を通り過ぎた。別れの言葉だった。ナイフを回収することを忘れない。きっちりポケットの中に収容する。
「あ……」
寧はとっさに、横から僕の腕を掴んだ。見捨てられた子犬がするような目つきをしていた。庇護欲を誘う表情。
崖から転落して、手を伸ばしている。僕はその手を掴んでいる。そういうときの命脈危うい転落者が表すような、“助けてください”って顔を、寧はしている。もしそんなやつの手を放したら、どうなるだろうか。
試してみたい。
僕は寧の首を掴んだ。血濡れた手だ。そいつで華奢な首を挟む。ギチギチと万力のように締める。寧のキレイな顔が苦痛に歪んだ。そして寧は、その苦痛に意味を付加させようとしている。僕がこんなことをするのは、何か意味があるに違いないと思っている。錯覚。変換している。脳内で構築される自分に都合の良い解釈をもって、事実を虚妄に変換している。
やがて寧の顔に喜びが浮かんだ。「もっどぉ、首絞めてください」
「するかよ、バカ」
手を離した。
寧の首には赤い絵の具で塗りたくったようになっていた。血のアートだ。グロテスクでいて、危うい色香がある。
僕が背を向けると、寧がさめざめと泣くのが分かった。くず折れるさいの布ずれの音がした。涙に濡れた声がする。
「千尋君、千尋君、千尋君……いやだ。行かないで。もっと首を絞めて。もっとワタシをイジメて……それが君の愛なんでしょ? ワタシに愛をちょうだい……じゃないとワタシ、生きていけない。千尋君がいないとワタシ、生きていけない……。死んじゃう。ごめんね。ワタシ、千尋君に気持ち悪いことしちゃったね。……謝るからッ、謝るからッ、ワタシを見捨てないで……」
妙な雑音に混じって切るような風のうねりが聞こえてくる。夏の涼しい風だ。汗と血をスパッと乾かしてくれる。
ポケットに手をつっこみ、中途半端に長い髪が風にさらわれるのを感じた。
最後に。
最後に、寧は。
「諦めない、から」
今にも風で掻き消えてしまいそうな声量だ。しかし、不思議と耳に届いた。精神の深淵から発したかのような物狂おしい執念を感じた。絞り出したみたいな甲高い声なんだ。背筋を凍らせる。心まで凍結してしまいそうになる。
「いつか絶対ッ、絶対……千尋君を手に入れる……諦めない。絶対。約束する……」
五時間目を告げるチャイムが鳴る。
ヤンデレヒロインと対決する主人公ってのは、果たしてありなんでしょうか。
議論の分かれるところですね。