第三十七話 兄(25)
「えっ、まだ続いてるの? もうイヤだよ。ワタシから逃げないでよ……悲しいよ……絶対に逃げられないのに」
後ろから声がする。
階段を三段飛ばしで駆け上がった。全身から汗が吹き出ていた。
「考えろ考えろ」僕は着信を告げるメロディーを切った。シューベルトの魔王だ。あれは僕の着メロだった。
「考えろ考えろ」着信を入れてきたのは十中八九、荒風寧だ。確認しなくても分かる。策を練っていた。寧は受信のさいに発生する着メロを使って、僕の位置を特定してきた。携帯から僕の位置を割り出してきたんだ。
気がつけば、さび付いた鉄扉を開けていた。
まばゆい光が視界を覆う。
コンクリートの敷かれた屋上。鉄柵が張り巡らされている。
屋上のちょうど中央のあたりだ。一旦そこで止まり、振り返った。
扉の近く、艶やかな黒髪を風でたなびかせる彼女がいた。
「嵌めやがったな」僕は言った。
「なんのこと?」寧はとぼけてみせた。笑みをこぼしている。楽しくて仕方ないって表情。
柔らかい日射が降り注いでいる。
やがて、荒風寧は伺うように言った。「君のそばに、行ってもいいかな」
僕は無言のまま。
寧は上目遣いで僕を見やり、そっと一歩を進める。
「好きだった。入学式のときから、好きだった……一目惚れでした。ズキューンって胸にきたの。でも臆病はワタシは、千尋君に告白することもなく、胸に秘めたままだった……いつしか想いは想いではなくなって、ここ最近なんて、君のことなんて、思い出しもしなかった。ほこりが堆積していたのかな。うん、きっとそう。でもね、神様は思わぬ拍子に幸運をワタシに落としてくれた……あぁ、嬉しかったなぉ。君に告白されて、すっかり忘れてた想いを思い出したんだ……その瞬間に感じた幸福感、君にも味わってほしかったなぁ……」
「それで、何のようだよ」僕はなるべく無機質な声を出すようにした。
「ワタシとヨリを戻して」
寧の要求は簡潔なものだった。
なんと言うか……どこまでも純粋な女の子だった。
寧は目をキラキラさせて僕を見る。
「千尋君はきっと、動揺してたんだと思う。ワタシがいきなり、あんな告白するから気が動転したんでしょ? 分かるよ、よく分かる。でも、やっぱりそういうのはいけないと思う。キライとかウソとか、イヤだよ。そんなこといわないでよ……胸が痛いよ。千尋君、とってもイジワルな人だよ……」
「事実なんだ」僕は寧から目をそらした。「あのときの言葉、全部事実なんだ」
ぴく、と神経質に眉が動いた。
歯と歯がすれる音がする。歯軋りだ。ギィギィとやけに金属的な音が残響する。
荒風寧は爬虫類のような目をして、僕を見ている。
「ウソ、だ」
「本当だよ」
「そんなわけない」
「そんなわけある」
「ワタシにウソなんか言わないよね? 千尋君はとっても優しい人だから」
「その節は本当にすまないと思ってる」
「何それ……懺悔? つまらない、実につまらない、冗談……」
「冗談なんかじゃない。事実なんだ」
地面が激しく揺れる。寧が足をコンクリートの床に振り下ろしていた。
寧は唇を強くかみ、ギチギチと服の裾を歯ですりつぶしている。
「まだ、間にあうよ」
「…………」
「ごめんなさいしたら、許してあげる」
「…………」
「ゆゆ、許すって言ってんだろッ!」
一歩前に踏み出した寧は、獰猛な目で僕を見た。足の付け根で固く握られた拳は痙攣を起こし、唇は紫に変色している。尖った歯が下唇に食い込んでいる。
「なんでよ……なんで、ワタシにイジワルするのよ……ひどいよ、ひどいよ、グスン。そんなの、千尋君じゃない。優しくてカッコいい千尋君じゃない……。偽者だ! 偽者偽者偽者。千尋君はワタシに優しい、ワタシだけに優しい……。その点、おまえは偽者……贋作……偽り……千尋君の皮をかぶった贋物……」
まるで呪詛のように寧はつぶやいた。ぶつぶつ、ぶつぶつと、吐く息に瘴気を含ませながら、空気を侵食させていく。周りの空間を濃く塗りつぶしていく。
やがて。
寧は銃口をつきつけるように手を伸ばした。右手には鋭利なナイフが握られている。その切っ先は僕に向けられていた。
片足を前に出し、じりじりと漸進する。
距離が狭まるにつれ、滝のように汗が出る。手汗がひどい。顔が熱い。風が内にこもる熱を取り払ってくれない。
はたして寧が大きく踏み出せば十分に届く距離になったころ、僕の緊張は極に達する。
「お、おい」僕は及び腰で後退した。
「なに?」寧は般若のような形相で応じた。
「ナイフを、しまえ」
一転、寧は不思議そうな表情をする。僕の言っていることが理解できない、と言った風だ。子供のような無邪気さで、ナイフの側面をなでたりする。
「そんなもの持ってたら、怪我するだろ。手放せ、それを」
「イヤ」
「手放せ」
「イヤ」
「俺はおまえに、手放せって言ってるんだ」
「なんで手放す必要があるの……?」
「危険だからだ」
「誰が?」
「……おまえが、だ」
「でも、これを持ってるのはワタシのほうだよ? 千尋君ならともかく、なんでワタシが危険なの?」
「分からないのか?」僕は猫のように背を丸めてみせた。雌伏するイタチのような体勢。「俺が抵抗するから危険なんだよ」
「抵抗? なんで? ワタシはただ、千尋君の偽者を倒そうと思ってるだけなのに……」
「……そうかよ。分かった、分かったよ、寧の言い分は。ようは自分に優しくしてくれない俺は偽者で、自分に優しくしてくれた過去の俺が本物ってわけだ。前者も後者も俺に違いないのにな。同一線上の存在だってのにな」
僕は後退させた足を前進させる。後ろではなく、前に出る。僕と彼女との距離が縮まっていく。寧ではなく僕が、距離を狭めている。
そしてタイル一枚分の間隔になった。
僕はゆっくりと手をあげた。あげた手を水平にする。寧の握るナイフ。その刀身に手を添える。握るように添える。皮膚に刃がすれる。ズプズプと肉の繊維の隙間に入り込んでくる。
寧は目を大きくして、それを見ていた。
ナイフの刀身が僕の手に包まれて完全に見えなくなるまで、約十秒。熱湯に手を突っ込みたくなるような痛みが襲う。表情筋が笑いとも悲哀ともつかぬ表情を形成しようとする。しかし、むりやり固定する。ポタポタとコンクリートのタイルに水溜りができる。血の雨。
「あっ、あっ、あっ」
寧はしゃくりあげるような声を上げた。