第三十六話 兄(24)
曲芸は往々にして危険と隣り合わせだ。ギリギリのスレスレに、曲芸の真髄がある。スリルとリスクとのサンドウィッチ……曲芸師は自分の軽業に命を賭けている。
人は何かを決断するとき、レイズをしなければならない。チップを積み上げる行為。そのためには恐れとか怯えとかを、覚悟を妨げるものを捨て去らなくちゃならないんだ。
ま、どちらにせよ、そのチップの多寡でそいつの意志の強さが分かるってもんだろう?
「どららぁぁあァッ!」
強靭な枝のしなりを利用した。
その様相は強くたゆんだ弦だ。矢を弦にこめるように、自身を矢のように扱った。この柔軟性に富んだしなりが、無謀ともいえる挑戦を結実させた。僕は弦から放たれた弓矢のように、足の裏でしっかりとしなった太い木の枝を捉え、二階の窓に向けて一直線に飛ぶ。
それはさながら幅跳びのようで、予想以上に三メートルという高さは、それなりの恐怖を感じさせるんだな、と思った。
窓と僕がいた木との距離は約一.五メートル。
眼前にコンクリートで固められた壁と、全開された窓がある。
目測に誤りはなかった、と思う。きっちりと寸法を測った。でも、僕はヤバイと思った。どこかで足を引っかけたのか? 失速しているぞ。このままじゃ激突する。灰色にくすんだコンクリートの壁――。
「空気抵抗を減らすッ!」
僕は猫のように丸まった。
減速するのはマズイのだ。窓にたどり着く前に、その下方の壁に衝突してしまう。だから、空気抵抗を受ける面積を減らす。減速を回避し、速度を保つ。速度を手放さないフォーム。
四角形に切り取られた空間。その奥にある廊下――着地点。人はいない。速度はきっちり維持されている。
視界に及び腰になっている蛾々島の姿が映る。
足が硬質の床を捉えたとき、体中に電流がほとばしったような衝撃があった。足の裏から頭のてっぺんまで貫く一本の槍。衝撃を吸収しきれず、前にのめった。が、かろうじて、持ちこたえる。
「あ……あ……あ……」
空気が凍結している。
着地と同時に、廊下はすっかり静まり返ってしまっている。
僕はこの空気を知っている。例えるならとある授業、先生に当てられて自信満々に述べた答えが見当外れの過誤であったときに生ずる空気……。間違いを指摘したいのに指摘できないような、そんな奇妙な空気だ。
沈黙の中、ポンポンとズボンについた土を払っている。
ポケットから取り出したハンカチで汗を拭いた後、蛾々島に向けて言った。「後は頼むよ、蛾々島」ポン、と蛾々島の肩を叩いた僕は、九十度体を転回させ、細長い廊下を疾駆する。
どっと火山が噴火したみたいに静寂が解け、やにわに騒然となる周囲。事情を聞こうと僕を引き止めるやつらもいたが、無視して進んだ。有象無象にかまっているひまはないのだ。事態は予想よりはるかに深刻。
遠くで何かが着地する音が聞こえてくる。それに追従して起こる悲鳴……。信じられない光景が目の前にある……って感じのトーンが混ざっている。
僕は痛む足を引きずりながらも、走るスピードを速めた。
諦めるつもりはない。
それをどうやら、行動で示すつもりらしい。
「もう、どこに逃げるの? 千尋君はどこまで逃げるつもりなの? ねぇ、鬼ごっこはもうやめようよ……結果の見えている鬼ごっこ……どこにも逃げ場なんて、ないのに……ワタシの愛から逃れることなんて、絶対に不可能なのに……」
「うっせぇェ――ッ! トチ狂った女はお呼びじゃぁねぇんだよッ!」
「ワタシの愛で千尋君を満たしてあげるわ」
盲目の愛を振りかざし、荒風寧は狂逸な言葉を紡ぐ。
みんなが唖然とする中、悲劇的で喜劇的な鬼ごっこが、つれづれなるままに再開されていく。
荒風寧との距離は結構あると踏んでいる。寧は無謀ともいえるスカイダイビングをしており、現在樹上にいるのだ。先般の宣言も同じく、樹上で行われているに違いない。
となれば、逃走時間はかなり稼げるはずだ。寧が僕同様、木から窓に跳躍して渡る可能性も十分にあるが、なんにせよ、時間は稼げる。それは間違いない。その間に距離を広げる。寧が僕を見失うくらいの距離まで逃避する。
昼休み終了まで、あと二十分。腕時計で確認した。昼休みが終われば、五時間目の授業が始まる。
昼休み終了のチャイムが追跡の中止を意味しているわけではないのだが、僕はそれを区切りとして解釈する。寧はどこまでも追ってくる。そんな予感がある。とりあえず昼休みが終わるまでは逃げ切る。チャイムによる区分。対処はその後考える。逃走に難しい思考はいらない。逃げ切るって言う思考のみを抱くってことだ。
科学準備室に身を潜めた。
誰一人いない教室の中、荒い呼吸だけが漏れる。散々走ったり跳んだりしたから、息が乱れている。今になって心臓が激しく脈動していることに気付いた。
思う。
なし崩し的に逃げてしまったが、そもそもなんでこのような事態になったのか……? いきなりの急展開ってやつだ。意表をついてきた。寧もメチャクチャだ。僕の予想よりはるかに思いつめた行動をしていた。
どこか釈然としない心持ちだ。
しばらく、じっとしている。
呼吸を落ち着かせている。そうしている間、校舎が明らかに騒がしくなっているのが分かる。それを肌身で感じているが、気配を消すことに努めている。雑踏の外。僕は狂おしい気持ちになった。とてもじっとしていられなかった。こうしていると、気がヘンになりそうだ。
十分ほどたった後、テーブルに手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。一箇所にとどまるのは危険だと判断した。ため息をついた。僕は動き出す。
化学準備室前の廊下は閑散としている。
そーっと抜き足で忍んだ。
そのまま一階へ。階段のすぐ近くには家庭科室があった。
僕がいる棟は移動教室が密集しているところだった。
家庭科室は次の授業があるらしく、かまびすしい。エプロンを着ている連中もいる。
「あっ……」
そうして僕は、ありえないものを視界に入れる。さっと階段の影に身を隠した。
前方に荒風寧がいた。一つ一つ、教室の中を覗いている。寧は今、地学室を覗き込んでいる真っ最中だ。
背筋に冷や汗が垂れるのを感じた。
ピンチだ、と思った。
幸いなことに、寧は遠ざかっている。地学室の次は、地学準備室だ。間違いなく遠ざかっている。僕のほうに来てはいない。
逆に考えるんだ。ピンチをチャンスだと考えるんだ。寧が僕を追うのではなく、僕が寧を追うと考えるんだ。逆転の発想につなげる……。
僕は尾行を開始する。
◆◆◆
逃げてしまえばいずれ捕まってしまうが、むしろ尾行してしまえば捕まることはないのではないか、というのがこの行動の原点だ。寧の足跡をなぞるように追跡する。追っているつもりなのに、逆に追われている……その状況の奇妙さ。
僕の背後を追っているつもりだからか、自らの背後はがら空きだ。
寧は舐めるように周囲を観察している。僕の姿を探しているのだろう。でも一向に見つからないからイライラしているのだ。奥歯を強く噛んでいるのが遠目でも分かる。
僕は変な高揚を感じている。ストーカーにでもなった気分だ。そして、この作戦は功を奏しているな、とも思った。寧は僕に気づいてはいないようだ。感覚としては、盲点をついたって感じだ。思わず安堵の吐息を漏らした。
と。
ふいに、シューベルトの魔王が流れてくる。滑らかな旋律だ。
誰だよ、と思う。
誰の携帯電話が鳴ってんだよ……。
「もう鬼ごっこはおしまいみたいだね」
それはすぐそばで聞こえた。
床に下げていた視線を上げると、眼前にキレイに整った女の顔があった。にっこりと笑っている。熟れた果実が放つような、妖艶なものを濃く匂わせている。
「あ?」
「やっとワタシを見てくれたね。嬉しいよ……千尋君が見てくれるとワタシ、とっても嬉しいんだよ。ワタシが単純だからかな……? どうだろ」
その手には携帯電話が握られている。
画面に表示されているのは……緑葉千尋。
魔王のおどろおどろしい旋律とともに、途絶した意識がよみがえる。
はっとなってポケットに手を突っ込むと、何かが振動しているのが分かった。震えている。取り出してみると、しっかり震えているのがよく分かる。
僕はくるっと体を反転させ、脱兎のごとく疾駆した。