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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第3章 相克するシーブリングズ
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第三十五話 兄(23)

 一階の廊下を全力疾走で走りながら、「神様ってやつがいたら、全力でぶん殴ってるところだな」と一人愚痴る。シャレにならない逃走劇。藤宮の様子も何か変だったし、寧だって尋常じゃない様子だ。何かを狂わせた目をしていた。

 後ろを見たい衝動ってやつだ。猛烈に沸きあがってきた。見てはいけないとは分かっているのに、つい見たくなってしまう。でも、確認してしまったら、この狂態を認識しなくてはいけない。見るか否かの胸中の葛藤……。

「ぐぉぉォ」

 首だけで振り返る。日本人形みたいに、ぎこちない動きで振り返る。

 背後には幸か不幸か、獣性のこもった目をした寧がいた。パジャマ姿のまま、女子とは思えないスピードで走っている。

 メチャクチャな光景なのに、やっぱり寧は美人に映る。そして、猟犬の様相を呈している。死ぬまで獲物を追う犬。獲物とはすなわち……。

「んだよ、昨日好きな女の子にフラレたばっかだってのにさ。最近の僕はツキが悪すぎるんだッ!」

 僕は一年生のいる教室の前――その廊下で、必死の逃走を繰り広げていた。なんていうことだ。先輩の面目丸つぶれだ。

 にわかに騒擾となる教室。だがしかし、疾走する。ちらと後ろを見ても、きちんと寧はついてきている。

 と。

 そのとき、再度携帯電話が鳴った。

 閃いた僕は、電話に出た。

 これで助けを呼べる――そう思ったのが間違い。

「もしもしッ!」

『ねぇ、何で逃げるの? ワタシから、何で逃げるの?』

「ただいまお取り込み中ですので後からかけなおしてくださいッ!」 

 電話を切った僕は、さらにアクセルを踏んだ。加速だ。寧から逃げる。捕まるわけにはいかない。捕まったら間違いなくヤバイ。本能がそう警告していた。

 僕は無我夢中で階段を駆け上がった。二階へと続く階段だ。

 上がってて気付いたことがあるとすれば、「二階に行くのってマズくね?」ということだ。二階は二年生の教室が密集している。そんなところを二年生の僕と寧がチェイスしていれば、間違いなく騒ぎになる。

 判断を誤った。

 そう思ったね。

 でも、事態は僕を待ってはくれない。現実って言うのはいつも、当事者に対して苛烈なものだ。

 通り過ぎた生徒がぎょっとして僕たちを見やるのが分かる。

 仕方なく、そのまま三階へと駆け上がることにした。

 いまだに立ち寄ったことのないテリトリーだ。僕は三年生の廊下を、上靴が脱げるのも無視して全力疾走した。

 背後を見れば、きちんといやがる。追いすがってくる。僕の影のように付かず離れず、だ。

 当学園に四階はなく、屋上に逃げ場はない。これ以上、上へあがることは不可能だ。

 廊下を直進した先に、下へと続く階段があるのを視認する。

 このままじゃイタチごっこだ。また階下に向かっても、根本的な解決にはならない。逃げ切れないって予感がメチャクチャする。いずれ捕まってしまうって、自分の冷静な部分が告げている。

 でも、進むしかないじゃないか。

 進むしか……。

「いや、逆だッ!」

 僕は――止まった。ストップだ。急停止。

 手を壁につける。窓の外には運動場が見え、わいわいとバスケをしている連中がいる。

 その平和的な光景を視界に納めながら、覚悟を固める。覚悟の深呼吸。

 荒風寧は確実に肉薄せんとしている。

「……今の真情を一言で表すとしたら、『クソッタレ』ってのがもっとも適当だろうな」

 僕は窓から飛び降りた。




 校舎の壁に沿うようにして、常緑樹が植えていることを確認している。開け放たれた窓。そこからクッションになりうる程度の高さ、柔らかさを有した常緑樹があることを確認している……。

 常緑樹の身長は高く、枝葉を縦横に張り巡らせている。ふかふかの緑のじゅうたんってわけだ。

「どららぁぁあァッ!」

 窓べりに足を乗っけた僕は、空中に身を投げ出した。 

 ものすごい空気抵抗があるのを感じる。あぁ、僕は今、圧倒的とすら言える重力を体感している。スカイダイビングってのは得てしてこんな感じなのか? こんなすさまじい重力、日常生活ではまず体験できない。

 そして襲ってくるものは、複雑に巡らされた枝と葉だ。そいつがトランポリンのように僕を弾いてくる。制服が破れる音、皮膚を切り裂く音……。全身がチクチクする。例えるなら有刺鉄線の網に全身を横たえるような痛みだ。ックソ、枝の切っ先がズプズプと肌に食い込んでくる……出血した。至るところで生々しく出血しているぞ……。

 しかし……。

 樹枝に手足を預けるようにし、視線を三階のほうに上げた。

 荒風寧は窓に身を乗り出し、固唾を呑んで僕を見ていた。言動を狂わせても理性をなくしたわけではないらしく、常人がする反応みたいに、瞳孔を見開いて驚倒している。僕の頓狂な行動にけっこーな驚きを抱いているって感じだ。

 にわかに生徒が集まってきた。僕のほうを指差したり、声を大きくしたりしている。それは運動場にいた連中も一緒で、視軸を僕が引っかかった木に固定している。

 騒ぎがでかくなっているな……とひとごとのように感じている。

「おっ、おいッ! おまえ、何やってんだよ……ッ! おまえ、何自殺の予行練習みたいに颯爽と飛び降りてんだよ緑葉ッ!」 

 その声は二階からした。

 木の高さは二階と同じくらいあるのだが、視線がぴったし声の主と交差した。

 蛾々島杏奈は荒風寧以上に息を呑み、あわあわと僕を指差している。今にも膝が崩れそうだ。

「ななななッ、なんなんだよおまえッ! 意味が分からんッ! オレには意味が分からんッ! おまえが飛び降りる理由と意味が分からんッ! というか、さっさと木から降りてこい――ッつんだよコラッ!」

 僕は肌に突き刺さった枝を抜いている。深々と刺さっていて、相当痛い。枝の先端に血がついている。僕はうぇーっとなった。

 と。

 僕の眼球がすさまじいものを捉える。

 それは窓から片足を乗り出して、今にも飛び降りおうとする寧の姿だった。

 完全に僕と同じことをするって言う体勢をしている。

「今、行くから」

 周囲があわてて止めようとするが、もはや聞く耳を持たない。制止する手を払いのけ、飛び立とうと羽を広げるカラスのように、臨戦態勢に入った。荒風寧、百パーセント飛び降りるつもりだ。そして僕は、荒風寧がそれをやり遂げるだけの気概を持った人間であることを知っている……。

「なんだよ、おまえもスカイダイビングしたいのかよ」

 僕の顔はきっと、辟易としているに違いない。と言うか、僕が言うのもなんだが、これ以上騒ぎを大きくしないでほしい。 

「おい、蛾々島」とやけくそ気味に彼女の名を呼んだ。

 蛾々島はなんだかポカンとしている。事態を呑み込めていない。僕がなぜこんな凶行に及んだのか、まったく理解していない。

 おそらく、三階で今にも寧が飛び降りようとしていることに気付いていないのだろう。三階の騒ぎを僕が飛び降りたからだと解釈しているのだ。これからさらに、もう一人飛び降りるだろうとは想定していない。

 次いで、なぜ僕が自分の名前を呼ぶのか、不可解だと思っているに違いない。

「なっ、なんだよコラ!」

「窓から離れろ」

「……は?」蛾々島杏奈は間抜け顔になった。「いや、何でだよ。説明しろよこのタコがッ!」

「俺はさ、こう見えてサーカスの曲芸師にあこがれてた時期があったんだ」

「なっ、なんだよいきなり。このタイミングでなんで、んなこと言う必要があんだよ……オレはなぜッ、おまえがそんなとこにいるのかについてッ、説明を求めてるのによッ」

「群集がさ、舞台を取り巻いているんだ。衆人観衆っていうのかな。よくあんなところで綱渡りとかできるよな……曲芸師は常に過度の緊張と戦っている……。ところで俺が一番すごいと思っているのが、空中ブランコってやつなんだ。ブランコからブランコへと移動する曲芸。だってそうだろ? 中空で飛び乗るんだぜ。下はマットなんかじゃなくて、フローリングみたいな硬めの床だ。失敗は許されない環境。失敗は死につながる……。俺は改めて、曲芸師ってやつを尊敬したい気分だね」  

「だから何が言いたいんだよ――ッ! 緑葉――ッ!」

「俺はこれから、空中ブランコの曲芸をするってことだよ」

 手の位置は下だ。背中を丸めて、手のひらに太い幹をあてがう。

 足は、バネだ。柔軟なエネルギーを溜め込んだバネ。跳躍する俊敏な鹿のイメージ……。

 陸上選手がスタートラインに立つみたいな手と足の配置だ。あれってクラウチングスタートって言うの、知ってた?

「まっ、まさかッ! おまえ……ッ!」

「この緑葉千尋、未知なるものに挑戦する意志を放棄したことは――過去ッ、一度もッ、ないッ!」

 僕は木から飛び出した。


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