第三十四話 兄(22)
昼休みになると、周囲が浮き足立つのが感覚で分かる。長年学年生活を積んでいれば、そういった動きが分かってくるんだ不思議なことに。おかしなことだと自分でも思う。
蛾々島の周りには、それとなく人が集まっている。まるで美術館の絵画を見るみたいに、みんなの視線が注がれている。
それを蛾々島は、なんてことないように受け流す。イヤミを感じさせず、清新なものを見るものに抱かせる雰囲気だ。この人は違う世界の住人だなぁ、と思わせる雰囲気だ。
その姿を頬杖ついて眺めてると、おずおずした感じで女子が話しかけてきた。多分、好奇心に負けたんだ。蛾々島は光っていた。道端でふと、キレイな人を見つけたらついついナンパしたくなるみたいにさ。僕は経験ないけど。
「ふーん、松下っていうんだ」
蛾々島は思ったより大人びた応対をしている。僕に接するような無軌道さはない。大人の余裕ってやつがあった。
僕はカバンから携帯電話を取って、ポケットにぶちこんだ。
廊下に出る。
階段の踊り場に人気はない。
プッシュする。
しかし、返事はない。何度プッシュしても、返事はない。反応のない画面が恨めしい。反応のない緑葉静絵という名前が表示されて、胸に穴を穿たれたような空虚を感じる。
結局、静絵は部屋から出なかった。
僕の説得が拙劣だったからか、僕を強く恨んでいるからなのか、詳しくは分からない。分かることといえば、静絵は僕との接触を拒んでいると言う事実。原因は僕にあると言う事実……。
ため息をついて携帯を戻した。
と。
なにやら、気配を感じた。それは後ろからする。
最近振り返ることが多いな、と思いつつ、振り返る。
その先にいるのは、一人の男だった。
藤宮詠太郎。
階段の上にいる。右手を後頭部に沿え、片膝を微妙に曲げて立っている。ポケットに手を突っ込み、僕を見下ろすような姿勢をしている。
「……藤宮」
「おまえ、俺の目の前で電話をしたな」
「は? 電話……? 確かにしたけどさ」
「その電話、ひょっとしておまえの妹に通話しようとしたのか?」
「なんだよ、やけにつっかかるな」
「いや、すまなんだ。ちょっと気になってな」
僕は一瞬、何でおまえがそんなこと気にするんだ? と思った。それに静絵のことを知っていることも気になる。佐島から聞いたのだろうか? あるいは、一緒にいたのか? 佐島とともに、和菓子屋のところにいたのか?
「そういえば緑葉。今日、荒風寧は欠席しておるぞ」
「……そうか」
「なんだ、やけに反応が薄いものだな。それがはたして、恋人が病床に臥しているときの反応であるのか? そんなことでは、勘ぐってしまうぞ。おまえに別の女がいると、勘ぐってしまうぞ」
なんだ。
なんなんだこいつは。
恐る恐る藤宮を見る。
藤宮は静かに笑んでいる。
その笑みの凄絶さ。
藤宮はくるっと体を反転させる。
「にしても、蛾々島の変わりようは奇観を呈していたな。鮮やかに花開く白百合……」
視界から消える藤宮。奇妙さを包含する残り香……。
気がつけば、足の付け根の裏をガリガリとかいていた。イライラしたときの僕の癖だ。
◆◆◆
こっからが歪んでいる。
ポケットが携帯のバイブレーションで振動しているのを感じる。
てっきり静絵からだと思い、嬉々として電話に出た。「静絵、静絵だろ?」
『静絵じゃ、ないんだよ』
僕は携帯電話を耳から話した。
画面を確認する。
荒風寧。
今度はこっちか……。
「寧。今日学校で休んでるらしいじゃないか。風邪なのか?」
『風邪じゃ、ない』
「風邪じゃ、ない?」
僕は階段を下りながら、耳をそばだてる。遠くから雨音と生徒の歓声の混じった雑踏が聞こえてきた。
そして。
電話機のほうから雑踏が聞こえてきた。どこかで聞いたことのある雑踏――。
『あのね、千尋君。ワタシ、確認したいことがあって、電話したんだ』
「おい、なんで学校休んでるんだよ」
『千尋君は、ワタシのこと、好きかな』
一階まで下りた僕はふと、前方の中庭に目を向けた。
風雨に揺れる木立に挟まれ、ぽつぽつと降る雨の中、人影が地面に伸びている。
パジャマは雨で透けて見え、白い肌にぴったり張り付いている。限界まで水分を吸いましたって感じだ。しとどに濡れた髪がすだれのように表情を隠している。
まるで亡霊のように突っ立っている。
携帯電話を片手に荒風寧が突っ立っている。
電話口から雨音と生徒の歓声の混じった雑踏が聞こえてくる。
『ねぇ』
粘性のある声が、鼓膜を一過して脳に伝達される。
『千尋君はぁ、わたしのことぉ、死ぬほど好きなんでしょ? 別に確認するまでもないけど』
まるで涙を流したみたいに、寧の頬に雨が伝っているのが分かる。平和的な花柄模様のパジャマがその異質さを際立たせている。
『きっと間違いなんだ。千尋君は、ワタシのことが好きなんだ。大好きなんだ、死ぬほど……分かってるよ、そんなこと。分かってる、そんなこと……当たり前の真実……』
「なんでよ、学校休んでるのか言えよ荒風寧――ッ!」
僕は叫ぶように言った。
恐怖から逃げるように言った。
『寧って言ってよ。フルネームじゃなくて、名前で言ってよ……寧って。愛しの愛しの寧ってぇ、言ってよ……ワタシの彼氏でしょ、君は……』
「僕の言葉が聞こえなかったのか? なんでおまえ、パジャマ姿でここにいる……?」
『考えたんだ。何度も何度も、ベットの中で考えたんだ……千尋君はワタシのことが好きで、みんなの前で告白してくれた。それは厳然たる事実だよ。だから、そうなんだ。千尋君はワタシが好き、千尋君はワタシが好き……そういうことなんだ。もう関係ない。ワタシがキライなんて千尋君の言葉、やっぱりイヤ。そんなの真実なんかじゃないんだ。そんなことを言う千尋君は、ワタシの知ってる千尋君じゃない』
「どうやら、怪電波を拾ったらしいな。虚妄で塗り固められている……ひょっとしておまえ、ADHDっていうの、真っ赤な嘘だろ? 自分の本性を糊塗するための嘘……。おかしいんだ。ADHDがその程度なわけないんだ……日常生活をそうやすやすと送れるほどやわな病じゃないんだ……。本当のおまえは、重患な病を持っているわけでもない、普通の異常者なんだ。突然変異で生まれる畸形みたいに、そいつは現れる……」
『もう耐えられない。千尋君はワタシのことが好きなのに、あの後電話もしてくれない。せっかくワタシがADHDって告白したのに、何の連絡もない。安否も確認しない。お休みのお電話も、行ってらっしゃいのお電話もない。これって変だよ。ワタシたち、愛し合っているのに……将来を約束した仲なのに』
「そういえばおまえ、雨に濡れてるのに携帯電話壊れないな。防水加工でもしてんの?」
『今から、そっち行くから』
途切れた。
ツーツーツーと音がする。
荒風寧もまた、携帯電話を耳から外す。携帯電話を持った右腕。脱臼したようにぶら下がる右腕。顔をぶるぶると振り、前髪を払う。髪の隙間から見える、赤く充血した両の瞳。ぎちぎちと僕を眺める荒風寧――。
僕は逃げ出した。