第三十三話 兄(21)
雨がしとしとと降っている。
翌日の朝。
河は凝固したように流れを停滞させている。水量は多いが、停滞させている。草が潅木のようにぷかぷか浮いていた。
「あれ、緑葉君じゃない?」
後ろから声をかけられた。
振り返ってみると、佐島月子がいた。相合傘をしている。親密そうに腕を絡めている。相手はもちろん、藤宮詠太郎だった。
「なんだよ」
「傘、飛んでるけど」
僕はそう指摘されるまで、体が雨で濡れていることに気付かなかった。「あっ」と声を出すひまもなく、視界の端で傘が踊っているのが分かった。荒っぽい風に揺られて、今にも河の中に突っ込みそうだ。
でも追わない。
まるで呆けたように、転がっていく傘を見つめた。魂が抜け落ちてしまったみたいだ。
その様子を不審そうに眺める佐島。「いや、傘、ヤバイんだけど」佐島は困惑した表情をしている。「ねぇ、聞いてる? 聴覚のほうは大丈夫かな」
「大丈夫に決まってるだろ」僕はぶすっとした。
「とてもそうには見えないけどね。詠太郎もそう思うでしょう?」佐島は藤宮にアイコンタクトを試みるが、藤宮はただ突っ立っているだけだ。反応しない。しかし、慣れているのか、佐島は満足そうだった。
「バランス感覚がさ、おかしい奴に言われたくないね。誰かの体にもたれるってことはさ、バランス感覚に自信がないってことだろ? 腕を組むってことはさ、バランス感覚に相当自信がないってことだろ?」
「ちがいますー。これは愛情表現ですー。登下校の恋人のたしなみなんですー」
佐島が唇を尖らせるが、藤宮はやっぱり無反応だ。
「にしては相方が死んでるって感じだ」僕は率直な意見を述べた。雨に濡れている。
「雨が降ると決まって、こうなるのよ。詠太郎の元気メーターは、降水量に左右されるのよ」
「新種の雨男ってことか」
「そういえば」と佐島はいつもの強引さで別の話柄を挿入する。「あなたの妹さんが、わたしの店にきたわ」
「……そうかよ」
「話してみると、結構いい子じゃない。家族に愛されてるって感じの女の子だったわ。仕事内容も速く覚えてくれるし、頭の回転も速い」
「やればできる子なんだ、静絵は」
これまではやらないからできない子だったんだけど。
佐島は静かに笑みを浮かべている。
一転して、藤宮は漂わせていた視線を僕にすえた。刀の光芒を思わせる眼圧が、僕に向けられる。「緑葉よ」
「なんだ、雨男?」僕は胸のこわばりを感じている。鉄の釘を打ち付けられたイメージ。「俺に何か用か?」
「俺は知らなかったぞ……おまえに、妹がいたということ……知らなかったぞ……」
「教えなかったんだ。知ってるわけがない」
「いい女だな」と藤宮はふいに唇を緩めた。「あれはいい女になる」
それは予言のようでもあり、予告のようでもある。
「それって浮気宣言? 見過ごせませんなぁ」佐島が藤宮の腕をつかんだ。そして、耳を強く引っ張る。
いたたたたた、と藤宮は悲鳴を上げるが、佐島は酷薄な表情をしている。青筋が浮かんでいて、ご立腹のようだった。
藤宮にさっきまでの鋭さはなく、ただ痛がっている。歳相応の男子が浮かべるような、困ったような表情をしている。
僕は不穏なものを感じている。
佐島と藤宮とはクラスが違うので、途中で別れることになった。
藤宮は依然としてしばかれていたが、「その辺にしたらどうだよ」という僕の忠告は届かず、やはり藤宮はしばかれたままだ。気の毒だった。
先刻みたいなことを藤宮が言うのは、珍しい気もした。がともかく、佐島は焼きもちのようだった。ほほえましいようで、羨ましいようで……。
「おはよう」と言って教室に入った。
入って、異変に気付く。
なんと言うか……ざわざわしている。死体発見現場にたむろする野次馬みたいに、ざわざわしている。何かが起こったってことを、雰囲気が如実に表している。
「……なぁ、どうしたの?」
隣のやつに聞いてみたら、「おい、来たぞッ!」と言われた。好奇心満々って感じの顔をしている。
いや、何が? と思っていると、みんなが一斉に僕のほうを向いた。その異様さに、一驚を喫す。
僕が雨でびしょ濡れだから? と思うが、どうやらそうではないらしい。気にしていない。雨でびしょ濡れだなんて、眼中にない。みんなの顔には、ただただ困惑の色があった。まるで助けを求めるみたいなんだ。どうにかしてくださいよぉーって感じの表情だ。
「いや、何が?」
僕がそういうと、ふいにモーゼの十戒みたいに道が開けた。
それは窓際の席にまでつながっている。
道の先には、見慣れぬものがあった。
長い、艶やかな髪をしている。漆を塗りこめたみたいに漆黒で、さらさらしている。頬杖をつき、物憂いに斜めを見る姿は、近寄りがたいものを感じさせた。浮世離れしているって言葉は、この人のためにあるのだ、と思えるような俗気のなさ。
と。
彼女は。
憂うように髪をかきあげ、首を動かし、切れ長の瞳を僕に向けた。
彼女の唇が笑みを形成した。
僕はポケットに突っ込んでいた手を、思わず出した。
手のひらを確認する。
手汗がひどい。
「ふふふふふふふふ……」
笑っている。
口元に手を当て、静々と笑っている。
空気が凍結したように動かなくなった。誰も身動き一つ取れない。彼女がそうさせている。
「ふふふふふふふふ……なぁーに呆けてるんだよウスラトンカチ!」
「あ?」思わず、素っ頓狂な声が出る。
「そんなに珍しかったか? この姿がよぉー、さなぎから蝶の脱皮を想像させるこの大変身によぉー、驚いたってことか?」
僕は狐につまされたような心持ちになった。
その声に耳覚えがあるぞ……なんなんだ、この奇妙な感覚は……。
思わず周囲を見渡す。
みんな申し訳なさそうに、僕から目をそらしている。
再度、少女に目を合わせる。「も、もしかしておまえ……」
「そういうのを三流芝居っていうんだぜ。何が、もしかして、だ。もしもクソもねぇ――ッ! とっとと呼べやがれ、オレの名前をよぉー、言いなれた名前をよぉー」
「が、蛾々島ッ!」
「そうだよ、それでいいんだよ」
蛾々島杏奈は非常に色っぽいしぐさで、髪をかきあげた。
◆◆◆
なんてこった。
異常事態だ。
静絵の一件も異常事態だが、それに比肩しうる異常事態だ。少なくとも、予想だにしない出来事ってやつだ。
「ふふふふふふふふ」
蛾々島杏奈は眼前にいる。
眼帯も取り、きちんと化粧をした蛾々島は、明らかに清らかな印象。一目見て、清楚って言葉が目に浮かぶ容貌をしている。
おそらく、元がよかった。元の造詣がよかった。でも、変に加工してしまったから、素材を殺していた。しかし、きちんと磨けば、これほどの逸材……。
「んだよ、何かおかしいかよ?」
「いや、おまえ、随分変わったなってぇ」
「そうか? ハハっ、そりゃまぁ、めんどくせーこといっぱいしたからな。変わってなきゃ詐欺だぜ、詐欺」
「本当に詐欺だよなぁ、この変わりようは……」
「何か含んだ物言いだな、それ」蛾々島は胡乱な上目遣いをした。
なぜか、うろたえる。
「ま、どうでもいいよ、んなことは」蛾々島はすっと体を引く。その様子すら優雅さを感じさせる。洗練された美を感じさせる。「それよりもさ、どうよ? これは。この変わりようを文学的に表現するなら、ただの石膏が匠に彫られて一流のビーナス像になるって感じだぜ――ッ! ビーナスッ! 美の女神が人間界に降臨したッ!」
「今度は女神に転身かよ。魔王じゃなかったのか? おまえは? ワイバーンを使いこなす次期魔王候補……」
「兼務だッ! 方や魔王、方や女神……もちろん、ワイバーンは自宅の庭で放し飼いだぜ」
「……設定はちゃんと生きてるわけだ。外見は変わっても、中身は変わらないってわけだ」僕はきっと、呆れた顔をしているに違いない。「でもさ、なんていきなりそうなったんだ? 蛾々島の変身におかしさを禁じえないな」
「細かいこたぁいいじゃねぇーかよぉッ――! 呼吸することにいちいち理由がいるか? 右腕を動かすことにいちいち理由がいるか? なるべきしてなったッ! そういう解釈だ」
「で、本当のことを言うと?」
「実はさ、あの母親もどきが化粧しろってうるさかったからさ、しかたなしにしてやったんだよ……あぁ、顔の表面が粉っぽくてかなわないぜ」
「そっかそっか。そりゃぁ、粉っぽくなるよなぁ……化粧は顔の表面にするもんだからなぁ」
どうやら、自ら率先して変身したわけではないらしい。仲の悪い母親に言われて、化粧をしたようだ。
どうも時の流れが、親子の確執を溶かしたように思えた。
蛾々島は母親を嫌悪していたが、今の顔を見る限り、それほどでもないみたいだった。母親に対する嫌悪感が減退している。どこか嬉しそうに話している。自分の誇りを話すみたいに、身振り手振りを加えて話している。
うなづいたり相槌を打ったりしているうちに、チャイムが鳴った。
担任の先生が入室する。
「けっ、これからが山場だってときによォー」
蛾々島がしぶしぶ、話を切る。
前の蛾々島なら、先生なんて無視して話していた。
これも成長というやつなのか……? と僕は、無性に嬉しくなる。