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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第3章 相克するシーブリングズ
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第三十三話 兄(21)

 雨がしとしとと降っている。

 翌日の朝。

 河は凝固したように流れを停滞させている。水量は多いが、停滞させている。草が潅木のようにぷかぷか浮いていた。

「あれ、緑葉君じゃない?」

 後ろから声をかけられた。

 振り返ってみると、佐島月子がいた。相合傘をしている。親密そうに腕を絡めている。相手はもちろん、藤宮詠太郎だった。

「なんだよ」

「傘、飛んでるけど」

 僕はそう指摘されるまで、体が雨で濡れていることに気付かなかった。「あっ」と声を出すひまもなく、視界の端で傘が踊っているのが分かった。荒っぽい風に揺られて、今にも河の中に突っ込みそうだ。

 でも追わない。

 まるで呆けたように、転がっていく傘を見つめた。魂が抜け落ちてしまったみたいだ。

 その様子を不審そうに眺める佐島。「いや、傘、ヤバイんだけど」佐島は困惑した表情をしている。「ねぇ、聞いてる? 聴覚のほうは大丈夫かな」

「大丈夫に決まってるだろ」僕はぶすっとした。

「とてもそうには見えないけどね。詠太郎もそう思うでしょう?」佐島は藤宮にアイコンタクトを試みるが、藤宮はただ突っ立っているだけだ。反応しない。しかし、慣れているのか、佐島は満足そうだった。

「バランス感覚がさ、おかしい奴に言われたくないね。誰かの体にもたれるってことはさ、バランス感覚に自信がないってことだろ? 腕を組むってことはさ、バランス感覚に相当自信がないってことだろ?」

「ちがいますー。これは愛情表現ですー。登下校の恋人のたしなみなんですー」

 佐島が唇を尖らせるが、藤宮はやっぱり無反応だ。

「にしては相方が死んでるって感じだ」僕は率直な意見を述べた。雨に濡れている。

「雨が降ると決まって、こうなるのよ。詠太郎の元気メーターは、降水量に左右されるのよ」

「新種の雨男ってことか」

「そういえば」と佐島はいつもの強引さで別の話柄を挿入する。「あなたの妹さんが、わたしの店にきたわ」

「……そうかよ」

「話してみると、結構いい子じゃない。家族に愛されてるって感じの女の子だったわ。仕事内容も速く覚えてくれるし、頭の回転も速い」

「やればできる子なんだ、静絵は」

 これまではやらないからできない子だったんだけど。

 佐島は静かに笑みを浮かべている。

 一転して、藤宮は漂わせていた視線を僕にすえた。刀の光芒を思わせる眼圧が、僕に向けられる。「緑葉よ」

「なんだ、雨男?」僕は胸のこわばりを感じている。鉄の釘を打ち付けられたイメージ。「俺に何か用か?」

「俺は知らなかったぞ……おまえに、妹がいたということ……知らなかったぞ……」

「教えなかったんだ。知ってるわけがない」

「いい女だな」と藤宮はふいに唇を緩めた。「あれはいい女になる」

 それは予言のようでもあり、予告のようでもある。

「それって浮気宣言? 見過ごせませんなぁ」佐島が藤宮の腕をつかんだ。そして、耳を強く引っ張る。

 いたたたたた、と藤宮は悲鳴を上げるが、佐島は酷薄な表情をしている。青筋が浮かんでいて、ご立腹のようだった。

 藤宮にさっきまでの鋭さはなく、ただ痛がっている。歳相応の男子が浮かべるような、困ったような表情をしている。

 僕は不穏なものを感じている。




 佐島と藤宮とはクラスが違うので、途中で別れることになった。

 藤宮は依然としてしばかれていたが、「その辺にしたらどうだよ」という僕の忠告は届かず、やはり藤宮はしばかれたままだ。気の毒だった。

 先刻みたいなことを藤宮が言うのは、珍しい気もした。がともかく、佐島は焼きもちのようだった。ほほえましいようで、羨ましいようで……。

「おはよう」と言って教室に入った。

 入って、異変に気付く。

 なんと言うか……ざわざわしている。死体発見現場にたむろする野次馬みたいに、ざわざわしている。何かが起こったってことを、雰囲気が如実に表している。

「……なぁ、どうしたの?」

 隣のやつに聞いてみたら、「おい、来たぞッ!」と言われた。好奇心満々って感じの顔をしている。

 いや、何が? と思っていると、みんなが一斉に僕のほうを向いた。その異様さに、一驚を喫す。

 僕が雨でびしょ濡れだから? と思うが、どうやらそうではないらしい。気にしていない。雨でびしょ濡れだなんて、眼中にない。みんなの顔には、ただただ困惑の色があった。まるで助けを求めるみたいなんだ。どうにかしてくださいよぉーって感じの表情だ。

「いや、何が?」

 僕がそういうと、ふいにモーゼの十戒みたいに道が開けた。

 それは窓際の席にまでつながっている。

 道の先には、見慣れぬものがあった。

 長い、艶やかな髪をしている。漆を塗りこめたみたいに漆黒で、さらさらしている。頬杖をつき、物憂いに斜めを見る姿は、近寄りがたいものを感じさせた。浮世離れしているって言葉は、この人のためにあるのだ、と思えるような俗気のなさ。

 と。

 彼女は。

 憂うように髪をかきあげ、首を動かし、切れ長の瞳を僕に向けた。

 彼女の唇が笑みを形成した。

 僕はポケットに突っ込んでいた手を、思わず出した。

 手のひらを確認する。

 手汗がひどい。 

「ふふふふふふふふ……」 

 笑っている。

 口元に手を当て、静々と笑っている。

 空気が凍結したように動かなくなった。誰も身動き一つ取れない。彼女がそうさせている。

「ふふふふふふふふ……なぁーに呆けてるんだよウスラトンカチ!」

「あ?」思わず、素っ頓狂な声が出る。

「そんなに珍しかったか? この姿がよぉー、さなぎから蝶の脱皮を想像させるこの大変身によぉー、驚いたってことか?」 

 僕は狐につまされたような心持ちになった。

 その声に耳覚えがあるぞ……なんなんだ、この奇妙な感覚は……。

 思わず周囲を見渡す。

 みんな申し訳なさそうに、僕から目をそらしている。

 再度、少女に目を合わせる。「も、もしかしておまえ……」

「そういうのを三流芝居っていうんだぜ。何が、もしかして、だ。もしもクソもねぇ――ッ! とっとと呼べやがれ、オレの名前をよぉー、言いなれた名前をよぉー」

「が、蛾々島ッ!」

「そうだよ、それでいいんだよ」

 蛾々島杏奈は非常に色っぽいしぐさで、髪をかきあげた。




 ◆◆◆




 なんてこった。

 異常事態だ。

 静絵の一件も異常事態だが、それに比肩しうる異常事態だ。少なくとも、予想だにしない出来事ってやつだ。

「ふふふふふふふふ」

 蛾々島杏奈は眼前にいる。

 眼帯も取り、きちんと化粧をした蛾々島は、明らかに清らかな印象。一目見て、清楚って言葉が目に浮かぶ容貌をしている。

 おそらく、元がよかった。元の造詣がよかった。でも、変に加工してしまったから、素材を殺していた。しかし、きちんと磨けば、これほどの逸材……。

「んだよ、何かおかしいかよ?」

「いや、おまえ、随分変わったなってぇ」 

「そうか? ハハっ、そりゃまぁ、めんどくせーこといっぱいしたからな。変わってなきゃ詐欺だぜ、詐欺」

「本当に詐欺だよなぁ、この変わりようは……」

「何か含んだ物言いだな、それ」蛾々島は胡乱な上目遣いをした。

 なぜか、うろたえる。

「ま、どうでもいいよ、んなことは」蛾々島はすっと体を引く。その様子すら優雅さを感じさせる。洗練された美を感じさせる。「それよりもさ、どうよ? これは。この変わりようを文学的に表現するなら、ただの石膏(せっこう)が匠に彫られて一流のビーナス像になるって感じだぜ――ッ! ビーナスッ! 美の女神が人間界に降臨したッ!」

「今度は女神に転身かよ。魔王じゃなかったのか? おまえは? ワイバーンを使いこなす次期魔王候補……」

「兼務だッ! 方や魔王、方や女神……もちろん、ワイバーンは自宅の庭で放し飼いだぜ」

「……設定はちゃんと生きてるわけだ。外見は変わっても、中身は変わらないってわけだ」僕はきっと、呆れた顔をしているに違いない。「でもさ、なんていきなりそうなったんだ? 蛾々島の変身におかしさを禁じえないな」

「細かいこたぁいいじゃねぇーかよぉッ――! 呼吸することにいちいち理由がいるか? 右腕を動かすことにいちいち理由がいるか? なるべきしてなったッ! そういう解釈だ」

「で、本当のことを言うと?」

「実はさ、あの母親もどきが化粧しろってうるさかったからさ、しかたなしにしてやったんだよ……あぁ、顔の表面が粉っぽくてかなわないぜ」 

「そっかそっか。そりゃぁ、粉っぽくなるよなぁ……化粧は顔の表面にするもんだからなぁ」

 どうやら、自ら率先して変身したわけではないらしい。仲の悪い母親に言われて、化粧をしたようだ。

 どうも時の流れが、親子の確執を溶かしたように思えた。

 蛾々島は母親を嫌悪していたが、今の顔を見る限り、それほどでもないみたいだった。母親に対する嫌悪感が減退している。どこか嬉しそうに話している。自分の誇りを話すみたいに、身振り手振りを加えて話している。

 うなづいたり相槌を打ったりしているうちに、チャイムが鳴った。

 担任の先生が入室する。

「けっ、これからが山場だってときによォー」

 蛾々島がしぶしぶ、話を切る。

 前の蛾々島なら、先生なんて無視して話していた。

 これも成長というやつなのか……? と僕は、無性に嬉しくなる。


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