第三十二話 兄(20)
金槌を打ち付けたみたいな鈍重な音だ。指の関節を使って、扉を叩いている。まるで僕を責めるようにけたたましく、執拗に……。僕は耳をふさぎたくなった。でも、ふさいでしまったから、拒んでしまったら、僕は僕でなくなる。僕を手放したくはない。逆に、耳をそばだてる。扉に耳をくっつける。うぉ、轟音。
「気にしてない気にしてない気にしてない」
轟音に混じって聞こえるのは、早口言葉みたいな呪文だった。鼓膜を通過する。聴覚が壊れそうだ。でも、むしろ押し付ける。
「本当に気にしてない気にしてない気にしてない」
今度はガリガリがりと言う音に変化する。黒板を爪で引っかくような感じだ。神経を蝕む雑音。僕の聴覚が本格的に機能不全になる。
それは怨嗟。憎悪。罪悪。後悔。
首をかきむしるように、扉に爪をつき立てている。静絵の絶叫とともに、扉が悲鳴を上げている。しかし、止めることはできない。静絵はひっかいている。
「千尋が幸せなら、もういいよ」
くぐもった声だ。
ガガガガガガと音の質が変わる。きっと歯だ。爪ではなく、歯。静絵は唇を扉に押し付けている。木材をかじるねずみみたいに、扉にかじりついている。だから、声がくぐもっている。そう推測する。
ガガガガガガ。
「わたしじゃやっぱり、千尋を幸せにできないから。兄妹で付き合うなんて、元から無理なんだ。気付くのが遅かった。だって、幸せだったもの……わたし、幸せだったもの……」
「おい、歯医者に連れて行くのは俺なんだぞ。あんまり無茶するなよ……自分の体ぐらい、大切にしろよ……。ただでさえ外出がキライなおまえなんだ。これ以上歯を傷つけると、歯医者に連れて行かなくちゃいけないなる……。俺か、あるいは母さんが半場強引に連行する……」
「わたし、思ったんだ。本当に千尋のためをするなら、別れたほうがいいんだ。わたしたち。千尋は普通の人と付き合ったほうがいいよ。妹と付き合うなんて、異常だもん。社会が許容しない……そんな地獄を、千尋に味わってほしくない」
「うっせぇ――ッ! それ以上言ったら張り倒すぞッ! んなもん知るかッ! 社会なんてどうでもいいんだ。おまえが幸せなら、俺はどうでもいいんだ。おまえが望む幸せをつかむまで、そばで支えていたい……ただそれだけの願いなんだ」
「ありがとう……ありがとう……千尋、ありがとう……。わたし、千尋の妹でよかった……」
「なんだよそれ……まるで諦めたみたいな言いようじゃねぇか。まるで俺と付き合うことを諦めたみたいな言いようじゃねぇか。恋人としてじゃなくて、ただの妹に戻るって、宣誓したみたいじゃねぇか!」
「もう、いいの。苦しめたくない。わたし、頑張るから、自立して、一人でやっていけるようにするから……今日だってね、アルバイト先に挨拶に行ったんだよ? 前までのわたしじゃ考えられない進歩だよね。中卒の私をよく雇ってくれたって感謝してるの」
「あぁーもぉーなんなんだよ、おまえ。なんなんだよ、おまえ。俺が悪かったよ。多分、全部俺が悪いんだな。今朝来た女はさ、俺の彼女とか何とか言われてるけど、そうじゃないんだ。あれは手違い……って言ったら都合がいいかもしれないけど、とにかくっ、手違いとしか言いようがない……佐島の奴にはめられた……そう、手違い。自分史最大の失態……」
「今、佐島って言ったよね?」
「……食いつくとこ、違わないか?」
「わたしのアルバイト先にも、佐島って人がいるよ。高校生くらいの人で、メガネの彼氏さんがいる……」
「そういえば佐島の実家は、菓子屋やってるって聞いたことがあるな」
「すごい偶然だね……やっぱりつながっているのかな。どうやっても切り離せない糸みたいなものがあるのかな、わたしたち兄妹には」
その言葉には、感慨とも取れるトーンだった。
感慨っていうことはさ、昔ってことだ。遠い過去を振り返るさいに行われる行為だ。
静絵はもしかしたら、遠い過去として扱っているのか? 僕たちの歩むはずだった行路を、破滅しかないように思える道から、それるつもりなのか? それが賢い行いだと、そう思っているのか?
おまえはそれでいいのか?
僕たちの道に先はない。静絵はそれを知っている。だから、方向転換するつもりなのか? 破滅の未来を回避するため、僕との関係をやめるってことか? それが賢い行いであっても、悲しい行いだってこと、おまえは気付いているのか?
僕は悲しいよ。引き金を引いたのが僕だって意味でも、すごく悲しいし悔しい。僕が過ちを繰り返さなければ、事態を避けられたと思うと、たまらなく悲しいし悔しい。
もう決めたのに。
静絵の望むことをしようって、決めたのに。
それが本心に思えない僕がいる。
「おい……確認するぞ。確認だ。これからおまえは二つの道がある。一つは俺の弁解を聞くという道。二つ目は、俺と決別する道。とりあえず、俺の言い訳がましい弁解をきくって言う選択肢は、おまえの頭にないのか? 俺の弁解を聞いて、とことん罵倒して憎んで、このスカタンってなじるっていう選択肢を残しておこうって、おまえは思わないのか?」
「罵倒なんてしないよ。無理を言ったのはわたしのほうだし、今朝のことを浮気とも思わない。きっとさ、このまま彼女さんと付き合うほうが正しいんだと思う。その、荒風さん? って人とさ、幸せな青春してよ。楽しんでよ。だって、千尋の幸せがわたしの幸せだから」
「静絵の不幸は俺の不幸だッ! おまえは嘘を言っているッ! 俺の幸せがおまえの幸せだと、嘘を言っているッ! そんなわけがない。静絵の存在を排した上で手に入れる幸せなんて、まがい物だッ! 間違っているッ! 少なくとも俺はそう思っているんだからな。今のおまえは、とても悲しい顔をしているって、分かるんだからな……何年おまえを見ているって思ってるんだ……お兄ちゃんを舐めるな。これはうぬぼれとか傲慢とかじゃないぞ。扉越しでも分かる……おまえが嘘をついていることがはっきりと分かる……」
「嘘なんかじゃ、ない」
声の震え。冬の寒さに凍える犬みたいに、ちっぽけだ。
手形をつけるみたいに、扉に手をつける。手の甲に骨が浮かび上がるのが分かった。透けて見える血管。血が流れている。静絵にも流れている。
僕は今、高揚している。この血の因果を憎んでも、恐れてもいないって証明したい気分だ。僕たちの仲は、禁忌という足かせ程度では抑えられないってことを、高らかに宣言したい気分だ。
もはや、禁忌は意味を失した。
兄と妹の紐帯は、血ではなく……。
「おまえと生活していた分かったことがある……おまえを受け入れて理解したことがある……教えてやろうか? 別に否やがあっても教えるけどな。簡単なことなんだ。俺は多分、惹かれていた……妹としてのおまえではなく、女としてのおまえには、引力を感じていた……俺はおまえを、いい女だって思ったんだよ」
「やだ、やめて……そんな、決心を揺るがすような、決心を根底から覆すような、そんな言葉は……とろけるような甘さに満ちた、溶けるような優しさに満ちた言葉は……」
「カリギュラ効果だッ! 禁止されるとかえって、その行為をしたくなる心理……そんなことを言われたら、余計に言いたくなるってのが人間心理だよな……にしてもこっぱずかしいな、こんなことを言うのは……でも言わないと、後悔しそうだ。後悔する人生はもう、送りたくない。引き戻すぞ、おまえを」
流されてしまったからダメなんだ。
いまさらそのことに気付いた。
荒風寧に関しても、流された。彼女のことは気の毒に思うけど、身勝手だと思うけど、優先順位をつけさせてもらう。
優先順位をつけるってことはさ、逆に言えば、優先順位をつけられることを許容しなくちゃいけないってことなんだろ。僕の選択で荒風寧が僕を軽蔑したりしても、文句は言えないってことだ。近親と姦通していることを、蛾々島や佐島の知るところになっても、きっちり受け入れるってことだ。ありのままの自分……それを社会に示す。他者に疎まれたり、遠ざけられたりしても、毅然と振舞うってことだ。不撓不屈の意志を持つってことだ。
さしずめ、誰かを取って、誰かを捨てるってことなんだと思うんだよ。優先順位を設けることは、自分が捨てられることも考慮しなければならない。今になって、寧の悩ましい肉体が惜しい、とだだをこねるのは許されないってことだ。捨てたものを拾うことはできないってことだ。
取ったものはなんとしても守らなくちゃいけないってことだ。
覚悟なんだ。
一を得るために、百を捨てる覚悟を、問われている。かけがえのない一のために、その他大勢を犠牲にしなければならない。苦しい選択。でも、処決しなければならない。でなければ、大切なものを失う。その覚悟を、問われている。
そして、決死の覚悟ってのは往々にして、身勝手で盲目的だってことだ。
結婚式を挙げる新婦の手を、むりやり引くような強引さなんだ。
自分を犠牲にして仲間を助ける選択をしたやつを、むりやり助けにいくような強引さなんだ。
「静絵……なぁ、待てよ。今朝のことは納得のいくよう話すからさ、待ってくれないかな。無理は言わない、なんて言わない。無理にでも、って言うぜ。だからさ、扉を開けてくれないかな……母さんもいい加減不審がってるだろうしさ……」
しばしの緘黙。
扉は。
扉は――。
開かない。