第三十一話 兄(19)
荒風寧との一件があったあとは、何事もなかったかのよう一日が過ぎた。午後の授業があって、退屈なホームルームがあって、それだけ。
一緒に帰ろう、と寧は言わなかった。僕は後ろ姿を見ていた。別のお友達と帰る後ろ姿を、僕は頬杖をついて教室の窓から見ていた。知らず知らずのうちに安堵の吐息が漏れていた。昼休みから緊張していた筋肉が、元の形に収縮するのを実感している。肩の荷がおりたって感じだ。でも、表裏をなすように、僕は一抹の寂しさを覚えている。現金な性格。僕は身勝手なやつだろうか? 自分本位な考えと取るか、悲しき男のサガと取るか……。
ぬかるんだ畑道を歩いている。水たまり。畦からカエルの鳴き声が聞こえてきた。
漫然と心を漂わせている。
まるで水のなかにいるみたいだ。水槽の底に身を横たえている感じ。キラキラと光る水面を境に、世界が二分されている。手を伸ばしても、届きそうにない。遠近感覚が狂っている。奇妙な酩酊が僕の中にある。
光に群がる蛾のように、玄関を扉を開いた。「ただいま」と帰宅したことを告げる。意識は剥落している。習慣づけられた行為。
今には誰もいなかった。静絵もお母さんもいない。無音。寂しくなって、テレビをつける。
リモコンを取るさい、テーブルに置き手紙があることに気づく。
リモコンを操作しながら手にとって、読んでみる。そこには、お母さんがパートに行っていることと、静絵がバイト先に挨拶に赴いている旨を知らせるものだった。
茫然自失の時間がしばらくあったあと、ふいに鮮烈な驚きと興奮が湧き出てきた。祝福すべき一事。手紙の筆致は溢れんばかりの喜びににじんでいるように思えた。文面からそういった感情が読み取れた。母を上機嫌にさせるにはもってこいの出来事なのだなと思う。
展望が開けてきた、と思った。静絵とともに歩む行路。とある夜、僕の決意を聞いた静絵は、自らによって立つことを目指すようになった。性格も明るくなったようだし、思ったことを行動にも移すようになった。これもそのための一歩なのだろう。僕は嬉しくなった。未来が光あるものになった感じなんだ。たとえ周囲に忌避されるような悪しき道であろうとも、その未来は僕にとって、静穏な幸福に包まれている。愛を育もう。彼女を幸せにしてやりたい。静絵を受け入れてから、決然となる自分がいる。
でも、幸せを保証してくれるものはどこもないし、何もない。険路だ。踏破することは難しい。それでも自分たちの手で切り開かなくてはならない……まったく、なんて因果な選択をしたものか! もはや普通の人生は望むべきもないというのに。
人倫に悖る宿業。その果てにはかない希望を求める。そして、わざわざ置き手紙を残してくれた母はそのことについて知らない……。
心の柔らかい部分を刺激する。申し訳なさとやるせなさが混合して、置き手紙を持つ手が過度にふるえた。
でも。
でも……。
僕はふと、静絵に思いを馳せた。今頃はきっと、拙い口調で挨拶をしているのだろう。そう思うとまた、嬉しいような悲しいような、あるいは罪悪感のようなものが湧いた。
思えばこれまでの彼女の人生は、苦難にあふれるものだった。不当に虐げられ、怒りや無力感を放出せずにグツグツと溜め込むような不器用な生き方をしていた。けれど、もう我慢しなくていい。僕が受け止めよう。
僕が静絵を幸せにするから。
と。
「ただいま」
声がする。
◆◆◆
扉が開いて、床の軋む音がした。耳慣れた足音。段々近づいてくる。転じてテレビの雑音がやけに空々しく聞こえた。
誰かの気配を感じ、振り返る。そこにははっと僕を見る静絵の姿があった。
三日月の髪留めを付け、清楚なワンピースを着ている。こうして見ると普通の女の子と遜色ないな、とそんなことを思う。
「あっ、あ、あっ」静絵は妙な声を上げている。シャクリをあげてるみたいだ。どこか困ったような表情をしている。
僕の頭に疑問符が浮かぶ。
静絵は拳を硬く握りしめている。何かに耐えているかのようだった。
「静絵」不審に思って、彼女の名を呼ぶ。
すると静絵は、何も言わずにきびすを返した。くるっと体を反転させ、階段を駆け上がっていくのが分かる。僕は呆気にとられた。
静絵の反応は奇妙だった。
と。
気づいたことがある。床だ。フローリングの床。目を凝らしてみてみると、変なものがあることに気づく。さっきまで静絵のいた場所だ。僕は膝をつき、指の腹でフローリングをこすってみる。……水滴。とふいに、脳髄に電撃が走った。
息を飲み、慌てて階段をのぼった。予感があった。イヤな予感。思索を巡らせる。
おそらく、静絵は自室にいる。
そう推量する。部屋の中で閉じこもっているに違いない。僕は焦燥に駆られた。
「静絵!」
僕は彼女の部屋の扉を叩いた。
反応はない。
叩扉する音だけが虚しく残響する。
僕は考えていた。突然の退避、不自然な表情、床に落ちた涙の意味……。
「静絵、静絵ッ……聞いたなっ! 俺が学校に行ったあと、母さんから聞いたなっ! おまえッ! 今朝ここに女が来たって聞いたなっ! 俺の彼女を名乗る女……」
言って、しまったと思う。これではまるで、僕が彼女を責めているみたいじゃないか。糾弾。そして、それを自覚するさいに生じる後ろめたさと罪悪感……。僕は打ち付けた拳に後悔を覚えた。もう元には戻れないというあくなき後悔――。
静絵は沈黙を保っている。その沈黙が不気味……嵐の前の静けさ……。
「千尋」
と。
声。
声がする。誰の声? 扉の向こうからする。やけに冷え切った声調。情緒が含まれていない。僕の背中に一筋の汗が流れる……。
「なん、だよ」
あぁ、声がする。これは誰の声だ? 僕の中からする。ひどく震えた声。死刑執行を命じられた囚人みちだ。で、誰が死刑執行を命じる……?
返答の代わりに、扉を叩く音がした。