表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プシュケの心臓  作者: 密室天使
第3章 相克するシーブリングズ
31/54

第三十話 兄(18)

 荒風寧のほうが笑っている。

 ぼくは憮然としている。

 風が寧の奇麗な髪をさらっていった。涼味のある夏風だった。

 荒風寧は異常をはらんでいる。表と裏をすみ分けて、別の顔を持っている。その深層が露呈したとき、寧は獣になるのか。

 でも……。

 ベンチに座る寧の顔は、泣きはらして子供のように見えた。

「そんな顔するな」僕は寧の手を握っていた。そんな顔をしてほしくなかった。荒風寧の異質にはきちんとした論理があった。納得のいく異常。そういうものがあった。寧本人もそういうものを必死に抑えて過ごしていることも、おぼろげながら推察された。ふいに寧が哀れに見えた。「せっかくの美人が台無しだろ」

 寧は悲しげな表情をした。

 しょせん。

 他人の言など救いにもならぬ。

 寧の言っていることが真実であれ虚偽であれ、そんなことは些細なことでしかなかった。その仔細は不明だが、寧がなんらかの障害にぶち当たっていることに違いはない。

 問題に向かい合っているのは己自身であって、他人ではない。その間には大きな懸隔がある。越えることのできない壁。寧の四方にはそうした隔たりがあって、僕の声は届かない。鋳型が違うんだ。性別も違うし性格も違う。出生も大きく乖離しているだろう。人と人は理解し得ない。

「ありがとう。嬉しいよ」寧は僕の手に己が手を重ねて、ニッコリと笑った。空虚。

 その笑みは反動なのかもしれない、と思った。寧のうそ寂しい笑顔も、精神の暗部に巣食うものを鎮めるためのもののような気がした。取り繕っている。その笑みに傷跡のような生々しさがあった。

 別に興味もない。

 荒風寧の歩みなど知るよしもない。でも湧き上がる同情。僕は愚かにも寧にそのような感情を抱いている。悪いほうの同情。健常者が障害者を哀れみるような感じでさ、タチが悪ぃんだ。

 僕の目を覗き込むように見ている。寧の眼球は水晶球みたいに透徹としていて、心の底を見透かされてしまいそうになる。細く長いまぶたと赤い唇。寧は申し訳なさそうに言う。「ごめんなさい。その……初めてだった?」

「初めて?」

 そこで寧は唇に指を添えた。

 かぁーっと全身が熱くなる。僕は気恥ずかしくて顔をうつむけた。言葉が出なかった。

 寧もまた、困ったように顔を朱に染める。先ほどの態度とは一線を画す反応だった。大人っぽい顔が初々しくなって、花のような可憐さがあった。本来の寧はこう言う風なのかもしれない、と思った。同時に、その変貌ぶりに人間として振り切れたものを感じる。まるでコインみたいなんだ。裏と表、容易にひっくり返る。

「ファーストキス、じゃないよ」僕はそっと寧をうかがうように言った。

「そう、なんだ」

 寧は寂しそうにした。そんな顔にさせているのが僕だと思うと、自分はなんて罪深い男なのかと、そんな痴愚な意識に囚われる。

 なんつーか……一気に男としてのレベルが上がったみたいな錯覚があって、イヤな気分になる。名状しがたい。なんといえばいいのか。別にそんなことないのに。

「誰?」

「……妹。おれ、妹がいてさ、小学校の頃におふざけ半分でしたことがあったんだ」

 その後で不登校気味になった。

 その頃は自分のキスのせいで、妹が学校に行きたくなくなったのかとうろたえてしまった記憶がある。今思えば、なんておかしなことだろうと失笑するのだった。

「千尋君、妹さんいたんだ」

 寧は首を傾けて、柔らかな表情を作った。

 その目は妖しげな光を帯びている。

 彼女は言った。

「一度会ってみたいな」 




   ◆◆◆




 寧との食事は辞退することにした。あんな雰囲気でご飯を食べれるほど肝も座っていなければ、胸に潜む罪悪感をやすやすと控除できるほど肝が太いわけでもない。あれほど魅力液に映った寧のお弁当はその輝きをくすんだものにした。灰色になる。僕はなんだか退廃的な気分になって、屋上を去る。

 途中振り返ってみると、ポツリとベンチに座って細々と箸を動かしている寧を見やる。よく見ると、口が動いている。当たり前だ。しかしその動きは食べ物を噛み砕くという動きではなくて、何かしらの言葉を紡いでいるように思えた。

 どうやら隣に話しかけているようで。

 耳を澄ませてみれば、聞こえる。とても楽しそうに声を弾ませて、寧は存在しない架空の人物と熱心に話し込んでいた。

 あーん、と箸でレンコンを掴んで、差し出す。

 隣には誰もいない。

 背筋に悪寒が走る。

「はい、あーんして。千尋君。甘辛く煮付けたレンコンですよ。早起きして作ったんだから」

 寧はまるで、僕がそこにいるかのように幸せそうな顔をした。

 虚妄。

 虚妄だ。

 寧の頭は常軌を逸した虚妄で糊塗されている。

 僕はいたたまれない気分になって、早々と扉を潜り抜ける。

 三階へと続く階段を下りながら、豹変した寧のことを思う。

 寧は壊れていた。

 まるでスイッチを切り替えるみたいなんだ。容易に入れ替わる。その変化の度合いが急激すぎて、人間的に破綻しているように思えた。

 会話の端々から推察するに、寧の過去には何か、強烈なトラウマがあるのかもしれない。おぼろげながら耳に届いた情報は、どうやら寧は母親に虐待を受けていたのではないか、ということ。親からの外圧を受けて、精神がいびつな形に歪曲した。それは間違いなく不幸なことで、報われない。しかし、一度曲がった金属板が二度と元の形状を取り戻さないように、二度とは矯正できない。人の心は複雑で、入り組んでいて、説明がつかない。あっさりと常識を覆してくる。それはもう、人の理の外にある理なのだ。人を好きになるという想いもまた、不合理に軋んでいく。壊れてしまったから。戻らない。無邪気な子供に幼児退行していく。純粋な自分を取り戻したいがために、行動や言動が何年もさかのぼる。外圧に押し潰される前の無垢な自分。緑馬千尋を好きなのだと自覚したとき、回路は錯綜し、一昔前の自分が返り咲く。深淵に住む獣。

 だから、おかしいのだと思った。空想の僕を作り上げて、現実を捻じ曲げている。トチ狂ってるんだ、寧は。

 結局のところ、何も解決していないのだと思った。静絵のことも、寧のことも。そして、蛾々島のことだって、なにも変化していない。停滞している。

 限られた選択肢。不当な掣肘(せいちゅう)をかけられ、矮小な自分を嫌悪する。そんな中で、最善のものを処決しなければならないのだとしたら、僕もその渦に自ら身を投じるしかないのかな。

 僕は悄然とした気持ちで、昼休みの雑踏に埋没する。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ