第二十九話 兄(17)
命題;愛は罪か?
回答;罪が愛であるならば。
命題;彼女は女である以前に妹であるか?
回答;彼女が妹である以前に女であるならば。
命題;家族間の恋愛感情は成立するか?
回答;それが夫婦間であるならば。
◆◆◆
もう遅かった。
ぼくはとんでもないことを披瀝してしまった。というかぼく、今すっごいひどいこと言わなかった?
寧はしばしポカンとした後、「ふえ、うぇーん」と大泣きに泣いた。幼い子供みたいに臆面もなく、さめざめと泣きはらした。
ぼくはあわあわと彼女の近くに行った。ぼくはバカなもんだから、目の前でそんなに泣かれたら、どうしようもないよ。これは優しさっていうより、陳腐な同情みたいなもので、ようはバカなんだよ、ぼくは。バカってのは救いようがない。なんせ、中途半端に同情的なのに、危機感が致命的に欠如しているのだから。
「それでも」
と。
寧は。
「それでも、ワタシはいいよ。あなたがワタシのことを好きじゃなくても、ワタシがあなたのこと、好きだから、別に、いいよね? このまま付き合っても」
「は、はぁ?」
彼女はぼくの腕をつかんで、幸せそうに頬をすりすりした。「うー、好きぃ。千尋君、だーい好き」
「離せって」ぼくには好きな人がいるんだ。
「いーや。はなさなーい」
すっかり幼児化した寧は、かたくなにぼくを離そうとはしない。無邪気そうにぼくを見上げては、満面の笑みを浮かべるだけなんだ。
人格崩壊。
本当の荒風寧は、想像以上に幼い。
「あのね、寧」とぼくは彼女と視線を合わせて、「お願いなんだけど、手、離してくれないかな」となるべくやんわりと言った。
返ってきたのは、寧の唇だった。
口付け。
寧の唾液がこちら側に流れ込んできた。寧の指がぼくのあごや頬の辺りに添えられ、口付けを促進する。軟体動物のような舌が口腔に侵入し、満遍なくぼくの口の中を探検した。
「ぷはー」寧は無邪気そうに頬を緩めて、「これが、お返事」とにっこり笑った。
「……あう」
「あう、だって。千尋君、アシカみたーい。好き」ともう一度、口付けた。今度は諸手をぼくの首に引っ掛けて、より深く舌を潜らせる。供給される唾液。無理矢理押しつけるもんだから、歯がカチカチ当たって痛いんだ。
思考がまどろんでいく。
彼女の甘いにおいが、麻薬のように身体を蝕んでいくんだ。徐々に視界が霞がかっていく。感覚は口内にしかない。虫のようにうごめく彼女の舌。頭の中が真っ白になる。
死亡する意識の中、一度も静絵とちゅーしたことないのに、とどこかで思う。
◆◆◆
ワタシ、昔から躁鬱の癖があって、感情が高ぶると理性がメチャクチャになるの。頭の中が真っ白になって、気がつけば相手の首を絞めてたり、殴ったり、蹴ったりしてる。暴力好き、ってわけじゃないけど、それに一類するものだと思うな。注意疾患とか多動性障害とか。ADHD。ワタシ、発達障害者っぽいんだ。
不思議って思うでしょ。普段のワタシからは想像もできないって。いつものワタシってほら、おしとやかだとか大人びてるとか言われてるから。でも、それは嘘偽りの姿。本当のワタシは獣みたいに暴力的で、気持ち悪くて、幼稚で、整合性に欠けてて、頭がおかしいの。こんな風に取り繕うの、すっごい努力したんだ。血反吐をはいてがんばったの。これもお母さんのおかげで、お母さんの献身的な介護と粘り強い指導と体中殴られたりご飯抜きの刑なんかのおかげでワタシ、こんな風に普通になれた。死んじゃったけど、お母さん。
そんなワタシだから、普通の交友関係なんかで作れなくて、殴っちゃったんだよね。バットで。気に食わない相手がいてさ、手元にあった金属バットで殴っちゃったんだよ。爽快だった。気持ちよくてさ、鼻の穴からすーっと空気が抜けていく感じ。それで、気がついたら病院の中。そこで初めて、ワタシがADHDだって判明した。軽度だけどね。
あー、ADHDってのは簡単に言えば先天的な脳障害で、注意力が散漫だとか、時間感覚が維持できないだとか、情報をまとめるのが苦手だとか。常人から見ればなんでそんなこともできないのあんたって感じの病なんだけど、これはこれは実際にかかってみないとこの苦しみは分からない。サイケデリックに歪む視界、ぐにゃぐにゃに曲がる秒針、全方向から聞こえるノイズ……思い出しただけで吐きそう。今では大分改善されたけど、やっぱりきついな。
……あれ、驚いてる? 無理ないかな。ワタシ、偽ってきたから。一般社会に溶け込めるよう常識を理解して、いい子いい子な女の子になるために敬語体で話して、女子社会から爪弾きにされないよう適度にファッションなんかに気をもんで、適当に男の子と付き合って、別れて……本当、お遊びみたいな感じ。イニシエーションだよ。ワタシが一般人になるための通過儀礼。人なんてお化け。妖怪。ワタシを騙すんだ。告白してきた男もどうせ、ワタシの体が目当てなんだろうけど。寄ってたかってくる蝿なんだ……あぁ、君はちょっと違う。いいんだ。君のこと、好きだから。単純でしょ、ワタシ。
ワタシ、痛いの好きなんだ。痛覚はワタシに生きている実感をくれる。お母さんから縄で縛られたり、裸のまんまでベランダに投げ出されたときはちょっと悲しかったけど、これもお母さんの愛なんだなぁって思って我慢した。痛みは愛なんだね。学んだよ。だからさ、本当に互いのことを思ってるカップルは、相手に刻印を刻む。刻んで、刻んで、刻んで……互いの愛を確かめ合うんだ。幸せなことだよね。フォーエバーなラブ。ワタシもひそかに憧れだったんだ。
にしてもなんでだろうなぁ。なんで一目ぼれなんて益もないことをしたのか……多分、立ち込める雰囲気にやられたのかな。君のそれは妙に背徳的で、ミステリアス。世間に対して斜に構えた態度も、中途半端な孤独に悩む姿も、どれもどうしようもなく愚かで、つまらない。でも、ワタシそっくり。親近感を覚えたよ。ひょっとしたらあの人も、ワタシのように何かを欠陥させているんじゃないかって。
……しにても頭が痛いなぁまったく。いきなりごめんねキスなんかしちゃって。はめはずしすぎちゃった。本当にごめんね。気持ち悪かったでしょ。時々あぁなる。深層心理のワタシ。自分を認めて欲しくて、誰かに愛されたくて、でも認められず愛されず、ただ孤独に打ち震える赤子……。その実、ただの色狂いの女って寸法――笑えるね。笑っていいよ。