第三話 兄(3)
予想通り代わり映えのしない朝がやってきた。起床したぼくは掛け布団をはいでリビングへと向かった。時刻は七時半だった。
「あら、珍しいことがあるものねぇ」と朝食の配膳をしていた母は、寝ぼけ眼で突っ立っている息子を見て言った。「今日は千尋のほうが起きるの、早かったみたいだわ」
「ん」とぼくはリビングを見渡してみた。確かにいつもならぼくより朝が早い妹がいなかった。
「ま、こんな日もあるのねぇ。貴重な日だわ」母親は朝刊を流し読みしている父の肩を叩いた。「千尋、静絵を起こしに行ってくれないかしら」とさらって言ってくれるが、それは非常に困難な試練だ。「お父さんも新聞読んでないでテーブルについてくださいな」
「母さん」
「なに?」
「……分かった。行ってくる」
ぼくは再び階段を上がった。考えてみればそう気を張ることもないじゃないか、と思った。
たかが妹だろう、妹。
しかし。
昨夜の出来事が思い出された。不慮の事故と言っても差し支えない過失、前後不覚の過誤……。頭の片隅にはまだ、そのことがくすぶっている。静絵はあのことを気にしてるのかな。だったら気まずいな。ぼくはそんなことを思った。
妹の部屋がまるでうず高い壁のようにぼくの前に立ちふさがっていた。
ぼくは決起してドアをノックした。もしここで妹が起きているなら、何らかの反応が来るだろう。
でも。
来なかった。
……寝ているのか?
ちょっとした異常事態だった。妹は高校に進学していないくせに、ぼくより遅く起きたことがないのだ。
ひょっとしたら具合が悪くて、起きるに起きれないのか。トラウマの再発。妹は時々、狂ったように悲鳴を上げたりする。
その可能性が脳裏をかすめた。一抹の不安。ぼくは妹の部屋に入室した。
はたして妹は――寝ていた。ベットの上ですやすやと寝ている。
妹の部屋に入ったのは小学校を卒業した日以来だと言えた。久しぶりに見た妹の部屋はやはり小学生当時の面影を残す少女趣味だった。ベットには数個のぬいぐるみや大きい姿見が置かれており、ピンクを基調とした一室。そして子供っぽい内装とは不釣合いなでかいパソコンと周辺機器。妹の最大の娯楽はおそらく、インターネットであると容易に推測できる。
朝の清廉な日差しを浴びた妹は神々しかった。艶のある黒髪が放物線を描いて散らばり、子猫のようにシーツに腕を絡ませていた。普段からは想像もできない姿。二面性。ぼくは不思議と言うか、奇妙な感覚に囚われていた。コインの裏表と言うには、その豹変ぶりが異質なものに見えた。
ぼくは抜き足で妹の眠るベットへと接近した。へたな物音で妹を目覚めさせてはいけないような気がした。
間近で見た妹の顔は清潔な美をたたえていて、どこか艶かしかった。このままずっと眺めていたいと思った。
と。
寝返りを打った妹はゆっくりと目を開けた。
その刹那のことだ。
「なっ、なっ、なっ……なん、で!」
ぼくはものすごい怒号と共に突き飛ばされた。
「なっ、なんでおまえがいるんだ!」
ベットから起き上がった静絵は枕を持ったまま、明らかに狼狽していた。なんでなんでなんで、とうわごとのように呟いている。
「なんでって……母さんにおまえを起こすよう言われたんだ」
「だっ、だったら、無断で、わわ、わたしの部屋にっ、入るな! ドアをノックしろ!」
「ノックしても返事がなかったんだよ」
「返事はした! ちゃんと聞けよ、バカ兄貴!」
妹はきっと前後の文脈がおかしいことに気付いていない。反射的にぼくの言葉に反駁しているだけだ。「嘘つけ。おまえ、今起きたばかりだろ。それともイルカみたいに脳の半分だけ眠らせたりできる奴だったのか?」
「わたしをバカにするな! バカのくせに、変態のくせにぃ!」
「あのなぁ、昨日のことはいわば事故みたいなもんで、悪意とか作為とかそんなもんなかったんだ」
「なんだよ、昨日のおまえ、妹のわたしに欲情してたくせに、なに不可抗力みたいに言ってんだよ! どの面下げて言ってんだよ、妹に欲情してたくせにぃ!」
「してない」と言うか、するかよ、バカ。
「してた! 鼻の下伸ばしてわたしを見てた! おまえ、隙を見てわたしを犯すつもりだったんだろ! 警察に訴えるぞ! 禁錮百年だからな、無期懲役だからな!」
「おまえがそう思ってもさ、おれはそうは思わない。善人なら正直に自分はやってないって言うし、悪人なら自分はやってないって嘘をつく。んで、おれは我ながら結構な善人だと思うよ。ま、自分は善人だと標榜すること自体、善人のすることじゃないけどさ」
「お、おまえのどこか善人なんだよ! 善なる箇所なんて一個もないぞ、このバカ!」
「おまえに付き合ってやってることだよ」
妹は泣きそうな顔になった。
ぼくも泣きたくなった。
そんな顔するなよ、と思う。
思い出す。
小学校の頃、あいつはいつもそんな顔して家に帰ってきた。泣き笑いみたいな顔して、一人部屋にこもっていた。ぼくは変だと思いこそすれど、大して気にしてなかった。気にしてなかったから分からなかった。静絵の実情、苦しみ、分からなかった。
扉を隔てた先からしくしくと泣き声が聞こえてくる。
妹がひどいいじめを受けていると知ったのは、それから随分あとのことだ。
「ほら……早くしないと飯が冷めるだろ」
ぼくは静絵に背を向けた。
妹は何も言わなかった。
静寂が流れた。
ドアノブに手をかけたぼくは、「静絵」と妹の名を呼んだ。「昨日のことはごめん。おれが悪かった。朝ごはんのおかず、おまえにやるからさ。こんなバカで変態な兄貴を許してやってくれないかな」
◆◆◆
「それで、バカで変態な兄貴はその実、妹思いの良い兄貴でしたって言う展開に持って行きたかったのか?」
「やっぱり兄貴はただのバカで変態だったってことだよ、蛾々島」
代わり映えのしない朝が来るなら、代わり映えのしない昼も来る。
学校の昼休み。
ぼくと蛾々島は教室の隅で食事を摂っていた。ぼくは母が作ってくれた弁当を、蛾々島は購買のパンをそれぞれ食べていた。
「それにしても」とぼくは早くも後悔していた。「なんでおまえにこんなこと、話しちゃったんだろ。おれも焼きが回ったな」
「んだよ、殺すぞコラ。右目開放するぞ、コラ」
「なんだよ、おまえの右目にはなんかあるのか?」
「当ったり前よ。オレの右目には古の時代より封じられてきた悪魔が宿ってんだよ」と蛾々島は右目の眼帯に触れ、「それでこの眼帯はその悪魔を一時的に無力化する装置なんだぜ。でもよ、いざこいつを外しちまったら、あたり一面廃墟になっちまうぞ」と端正な顔を近づけた。「そうまでしてオレを怒らせる覚悟はあるのか?」
「……おまえを怒らせる覚悟ねぇ」ぼくはむしゃむしゃと野菜を食んでいる。相変わらずうそ臭い上にきな臭い奴だよなぁ、と思う。
一方の蛾々島はもうぼくの言葉なんざ気にかけていないようだった。いつもどおり、観客のいない一人芝居を続けている。
「疼く、疼くぜ、この右目が暴れたいと疼くんだ」蛾々島は芝居じみたしぐさで己が右目を押さえた。激しい動きで長い髪の毛を振りまき、タイルの床に膝を折った。「ダメだ、もう制御し切れねぇ。ついに、ついに、奴が封印から目覚めるぅ!」
すでに悪魔とは別のものが目覚めている蛾々島は、衆目を完全にいないものとして扱っていた。衆目も蛾々島をいないものとして扱っていた。
そして。
蛾々島は。
ちらちらとアイコンタクトをしている。顔が少し赤い。どうやら引っ込みがつかなくなったらしい。
ぼくはため息をついた。「ったく、毎度つき合わされるおれの身にもなってみろ。すっげー疲れること請け合いだから」ぼくは蛾々島に手を伸ばした。
「あぁ、目が、目がぁ……!」
「もう、一切喋ることなく、一切動くこともなかったら、結構おまえもかわいいんだけどなぁ」ぼくは屈んで蛾々島のスカートについたごみを払ってやった。「おまえも少しは女の子らしく振舞ったらどうなんだよ」
「オレは女の子なんかじゃねーよ、タコ」と口汚い蛾々島は拳を作り、「オレは次期魔王候補の一人だッ!」と言い放ちやがったんだよ……。頭いかれてんだろ、蛾々島よぉ。
「はいはい、それで次期魔王候補はなにをご所望なさいますか」
「うむ、では玉子焼きをくれ。おまえの母君の作った玉子焼きはたいそう美味でな、仮にオレが魔王の任について人類を滅ぼそうと思っても、おまえの母親だけは生かしといてやるよ」
「それは光栄なこった」
「魔王の慈悲に感謝するんだな」
「玉子焼きをくれてやるおれの慈悲にも感謝するんだな」
蛾々島め、うまそうに玉子焼きを食っている。多分ぼくの話を聞いていない。独断専行はこいつの得意技だということを忘れていた。「そんなことよりも蛾々島、昨日の電話はなんだったんだよ。何か用事でもあったんじゃないか?」
「あぁ、そのことか」蛾々島は口元によだれを垂らしながら、「実は用事なんてなかったんだ」と言った。
「……なかったのか」ぼくはポケットからハンカチを取り出して、よだれを拭いてやった。「ならなんなのさ」
「おまえの声が聞きたかった。それだけだよ」
と。
蛾々島はぼくの腕をつかんだ。ひんやりとした感触がして、蛾々島の目がまっすぐに網膜に飛び込んでくる。強い光を孕んだ、閃々とした目だった。ぼくの脳裏に灯りに群がる蛾がフラッシュバックする。蛾々島の目にはその灯りのように妖しげな光芒が噴き出していたんだ。
呆けたようにしていると、蛾々島がにっこりと笑って言った。「おまえもさ、それなりに家族のことで苦労してるんだな。オレもさ、家族とうざってぇ揉め事起こしたりしてるんだよ。だからおまえの気持ち、結構分かったりするんだ。だからさ、お互い、励ましあってさ、自分なりにがんばっていこうぜ」そして蛾々島は握手なんかを求めてきやがった。
「……蛾々島さ」
「なんだ、そんな辛気腐った顔して」蛾々島は和やかに笑いかけて来るんだよ。「そんなんじゃ、幸せは逃げちまうぞ」
ぼくときみ。
緑葉千尋と蛾々島杏奈。
互いに家族間での悩みを抱えているもの同士。
ぼくは妹。
きみは親。
それぞれ異なった様相を呈していても、本質は同じ。根源は人の醜い欲、腐った闇、淀んだ悪……そいつは決まって、弱い奴の弱い心を支配する。そして、より弱い奴に矛先が向くんだぜ。不条理な世の中だと思うだろ。そうなんだ、世の中ってのは九割方不条理にできてるんだよ。
ぼくは差し出された手を握った。強く握った。これ以上ないほど力を込めて握った。
「痛いだろ、タコ助」
「痛いのはおまえの格好だろ、眼帯女」
「あぁもう、うっせーな! 魔王に喧嘩売るなよ、この小市民よぉ。灰にするぞ!」
「おまえがハイになってるだけだろ。おれはおまえと漫才をしに学校来てるわけじゃないんだからな」
「ははっ、そうかよ」
蛾々島杏奈、鼻で笑いやがった。
それでも。
握り返してくれたその手は絹みたいにすべすべで、じんわりと暖かかったんだ。