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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第2章 とりあえず生きてみた
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第二十八話 兄(16)

 聖人は言った。

「罪を重ねるのはやめなさい」

 賢人は言った。

「己を欺くのはやめなさい」

 哲人は言った。

「嘘をつくのはやめなさい」

 咎人は答えた。

「分かりました。分かりました」




   ◆◆◆




 屋上には一台のベンチがすえつけてある。それがコンクリートの海にぽつんと存在していた。

「あそこに座りましょう」

 寧はベンチのほうを指差した。

 手にはお弁当を提げている。 

「風が涼しいね」

 荒風寧は風にさらわれた髪を押さえながら、清楚として水平線を望んでいた。

 絵になる光景。

 なぜか。

 違和を覚える。

「今日のご飯は豆腐ハンバーグと金平ごぼうだから」

 寧はすたすたと歩いている。前方にはベンチ。潮風と昼の日差し。

「がんばって朝早くから作ったの」

 振り向きざまのその顔は、彫刻のような静止した美があった。

「……どうしたんですか千尋君。返事がないよ」

 生白い腕がぼくの二の腕をつかんだ。寧の指が一本ずつ添えられる。ぞわぞわと肌が総毛だった。その仕草は無機質な昆虫のうごめきを思わせる。

「寧」 

「そんな怖い顔しないで」

 寧の白魚のような指がぼくの頬にかかった。女の顔をしている。顔はりんごのように赤く熟れ、ぼくを見やる瞳はしとしとと濡れていた。つばを飲み込む音、舌なめずりの艶かしさ……。

 頭がおかしくなっちゃうよ。

 女は恍惚のこもった視線を隠すこともせず、体を密着させる。抱きしめたら木の枝のように折れてしまいそうなほど細い腰なのに、熱のこもったそのししおきは弾力性に富んでいる。咫尺(しせき)の間。気がつけば、そばにいる。

「千尋君はワタシの彼氏だよね」

 もう片方の手で手首を握られる。それが万力のような強さできゅっと締めた。痛いと思った。でも、寧の迫力に気圧されて何もいえなかった。

「ちゃんと告白してくれたよね」

 おかしいと思った。寧の表情は墨で塗りつぶしたように無表情だった。

 あぁ……と思い巡らす。

 ひょっとしたらぼくは、とんでもない地雷を踏んだのかもしれない。

 綺麗な外見はただの張りぼてで、中身を覗いてみれば、底の見えない奈落が内在している。人のゆがみ。甘かった。人を見る目がないなぼく。この女、予想以上に。

 寧はどんよりとした目をしていた。無表情は早くも鳴りを潜め、暗渠のようにどす黒い何かがちらついている。「気に食わない」爬虫類みたいな目だ、と思った。胴回りの太い蛇。感情のこもっていない、鉱物のような目。「気に食わねぇーんだよ。気に食わねぇ、気に食わねぇ……」

 寧は背中を丸め、がりがりと頭をかきむしっている。はらはらと抜け落ちる髪の毛。体中が青ざめている。セロテープを、肉の上から一枚だけ引っ付けたような薄く、透明な肌。どくどくと巡る血管が透けて見える。

 荒風寧の奇怪な変容。精神疾患を想起させる。狂気。語調が荒っぽくなっている。普段の寧ではない。普通の寧ではない。ぶつぶつと何かをつぶやいているだけなんだ。

「……寧」 

 さすがに気になって、声をかけた。寧の様子は、明らかに変だった。いや、変というも、びょーきみたいだった。心の病。

 すると。

 すると。

「あぁぁぁあ……」

 彼女はほえた。獣のように。腹の底から吐き出された咆哮は、地鳴りすら生じさせる。ぼくは思わず、耳をふさいだ。

「お、おい。寧」

 突然の変化、変質に息を呑む。

「千尋おぉぉぉ」

 寧はぼくの胸倉をつかんだ。すさまじい力。首が圧迫される。苦しい。「あ、あ」

「なんでおまええぇぇぇ、ワタシ以外の女と飯食おうとしてんだよぉおぉぉぉぉッ!」

 え。

 壁に叩きつけられる。背骨がコンクリートの壁にぶち当たり、悲鳴を上げた。

「あのクズオンナめぇええッ! ブッ殺してやるッ! ワタシがッ! ワタシがッ! 千尋とッ! 飯を食うんだよぉぉおぉッ!」

 散々に振り回され、呼吸が途切れ途切れになる中、地面に叩きつけられる。寧はだらだらと唾液を垂らして、ぼくに馬乗りになった。血走った目がぼくを縫い付けた。

「死罪ぃいいッ! ワタシ以外の女と飯を食うと死罪いッ! ワタシ以外の女と仲良くすると死罪いッ! ワタシ以外の女としゃべると死罪いッ! ワタシ以外の女に触ると死罪いッ! ワタシ以外の女といると死罪いッ! ワタシ以外の女を見ると死罪いッ! ワタシ以外の女と同じ空気を吸うと死罪いッ!  死罪ッ死罪ッ死罪ッ! おまえはどれだけッ! 死罪になんだよバカぁぁぁあッ! ワタシ以外の女と楽しそうにすんじゃねぇーええッ! うざってぇぇんだよぉぉおっ!」

 ぼくの顔にポタポタと寧の唾液が落ちてくる。生ぬるい感触。身動きが取れない。がっちりと寧のももで体を挟まれている。肩も寧が執拗に(やく)していた。寧の瞳はギラギラとした獣性がこもっている。楚々とした寧はどこにもいない。眼下には獣。一匹の獣。激痛が走る。

「ワタシをイライラさせんじゃぁねぇーええッ! おまえの体舐めまわすぞクソがぁあぁぁッ! ジュルジュルのベタベタにしてやんぞおぉぉおッ! あああぁぁああぁッ! そんな顔すんなあぁぁあッ! 首絞めたくなるうぅーうッ! イジメたくなるんだワタシはぁあッ! おまえを見てるとそそる、性欲が燃え上がる、犯したくなる、壊したくなる、潰したくなる、染めたくなる、ワタシの体でおまえの全部を骨抜きのぐちゃぐちゃにしてやろうかぁああ?」

 寧はぼくの首に指を添えて、ぎぃーっと力を入れた。あうあう、と息が途絶する。

「ワタシの体が欲しいか? 欲しいか欲しいか欲しいか欲しいって言えぇえええッ! どうせおまえもワタシとセックスしたいんだろ? セックスしたいって言えよセックスしたいって言えよセックスしたいって言えよ、言えば楽にしてやるとろけるぞぉぉぉッ! 浄化してやるううぅッ! 浄化だ浄化ッ! ワタシの血肉でおまえをきれいきれいの赤子に戻してあげるようふふふふふふふ。ワワ、ワタシはぁあッ! おまえがほかのクズオンナと一緒にいるのが耐えられねぇえんだよぉおッ! 我慢してやったのにいいぃ、辛抱してやったのにいいぃ、おまえがッ! おまえがッ……ほかの女と飯食ったりするから……ぐすん、ワタシ、悲しいよ。涙もろいの、ワタシ。だから、こんなことするんだよ。罪をね、償いやがれバカぁああッ!」

 ガンガンとぼくを揺り動かす。意識が遠のいていく。首の圧迫感。

「好きなのぉおおッ! ずっと前からッ! 好きだったのぉおおぉぉッ! 一年前からああぁッ! 入学したその日から一目惚れの好き好きだったのぉおおッ! でもワタシッ、臆病だから、弱虫だから、告白なんてッ、できなくてッ、この恋は実らないって諦めててッ、その内考えるのを止めていってッ、千尋のことも思い出さなくなってッ、興味も薄らいでいってッ、このままいったら千尋のことを忘れられるかなってッ、期待しててッ! でもッ、おまえがッ、ワタシに告白なんてするからあぁぁぁッ! 思い出しちゃったのおおおぉッ! 温かくてポカポカしたの、思い出しちゃったのおおぉッ! 打ち捨てるつもりだったのにいいぃぃッ! おまえガッ! おまえガッ! 好きとかッ! 言うからああぁぁぁッ……」 

 寧はぽろぽろと涙をこぼしている。ぼくの胸をドアに見立てるように拳をぶつけて、「ふぇーん」と泣き喚いている。

 首締めから開放されたぼくは、そっと、そっと、彼女の背中に手を置いた。

「ちッ、千尋おぉぉ」

 抱きついてくる寧。震える背中。ぼくは、そっと、そっと、彼女の肩に手を置いた。

 置いた。

「うっせぇーんだよぉぉッ荒風えぇぇ!」

 思い切り突き飛ばした。

「あ」

 気の抜けたような声がして、寧はしたたかに背中をぶつけた。

「あいたた……首が、いてぇ」僕はげほげほと首の辺りを押さえた。

 上体を起こした寧は、「なん、で」と目に涙をためて、訥々とした言葉を上げた。

「なんで、じゃねぇーんだよッ! 首絞めて告白するバカがいるかよ荒風ぇッ! 危うく死ぬとこだったわッ!」

「えっ、でもッ、千尋はワタシのことッ、好きッ、なんだ、よね? そうだよね? 千尋」

「んなもん嘘だよ嘘ぉおッ! 事実無根ッ、嘘八百ッの大嘘だっつーのぉッ!」

「そそ、そんな、嘘、なんて……冗談は止めてよ。つまんないよ、それ」

「嘘じゃねぇッ! ほんとのこったッ! おれはッ、佐島のアホに強引につき合わされただけッ! おまえのことは好きでもなんでもねぇんだッ!」

 僕は真実を口にした。

 寧の瞳が色を失う。

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