第二十七話 妹(9)
和菓子の立ち並ぶ土間に案内されたわたしは、「ちょっと待っててね」と佐島さんに言われて、大人しく待つことにした。
胸部を手で押さえてみれば、心臓がバクバク鳴っているのが分かった。
家族以外の人間と話すのは、ずいぶん久しぶりだった。困惑と安堵。口に唾が溜まって気持ち悪い。
糸を張っている。
緊張の糸。
爪で弾けば、揺れる。振動する。細く、繊細な、琴の弦。緑葉静絵なる肉体の殻の中、それはまるで、蜘蛛の糸のように張り巡らされていた。
衝撃があれば、糸は律動する。神経質に、過激に、官能的に、退廃的に……。拠なき暗澹と狼狽。もたらされる毒。怖気づく。わたしは怖くなって引きこもる。抑鬱。そして、程度の劣るいいわけを作る。わたしは悪くない、わたしは悪くない、わたしは悪くない……と。
――卒業するって、決めたのにね。
おののく四肢を、むりやり御した。
御しても御しても、御しきれない。これでは、のた打ち回る、蛇。大蛇。わたしの心に巣食う、醜怪な悪鬼。
鎮まれ、鎮まれ……。
わたしの、体。
前を見る。
わたしと同じくらいの歳だろうか。天衣無縫、といった風。千尋の通う高校の制服を着ている。チェックのスカート。スマートなカッターシャツ。
佐島さんは鞄を三和土に置いて、無造作にお菓子を一つ、選び取った。包装をといて、口に入れる。
……え。
しばし、混乱する。食べたのかな。食べたよね。食べていいのかな。商品なんじゃないのかな。疑問が渦巻く。土間の隅で縮こまっていたわたしだったけど、思わずそう突っ込みを入れる。心の中で。精神は相も変わらず、萎縮しており、肉体は指の先まで硬直していた。
「……ん」とわたしの視線に気付いたのか、「あぁ、これ」といって、なんてことないように笑う。「君も食べたいの?」
顔の前で手をぶんぶんと振る。顔を見られて恥ずかしいという思いも手伝ってか、わたしは顔を俯けた。
「なーんだ。お饅頭はお気に召さず……か」佐島さんは残念そうに呟いた。
早くも次の甘味を物色している。
隔世の感があった。長年他者との意思疎通を絶っていたからか、どう反応していいかわからない。
以前のわたしなら、切れのある言葉を返していた。
たった数年で、わたしを取り巻く世界は大きく変容している。
「わたしはさー、きんつばが好きなんだけどさー、香ばしい芋餡がいいよね。あれ、うまいんだよなかなか」佐島さんは舌鼓を打っている。そして、さりげない風に、「でさ。君、対人恐怖症でしょ?」と尋ねた。
胸に鏨を突き刺さされたような衝撃。
「たたたっ、たい……」
「君の瞳孔って、カメラのレンズみたいに調整できるレア仕様だったんだね。全開だったよ。視線も忙しなくキョロキョロしてた。それに、意味もなく手をグーパーしたり、靴の上から足の指が動いてるのが分かったんだ。体は口ほどに物を言う。的を射た至言だと思うんだよね、わたしは」
佐島さんは口をもぐもぐさせて、わたしを見ている。
恬とした表情。
舌がチロチロと覗いている。
体の熱が、潮のように引いていった。
瞬間冷凍された空気。
汗がひどい。
「……何もとって食おうってわけじゃないんだからさ、楽になりなよ」佐島さんは相好を崩した。「ここは古ぼけた和菓子屋で、君の目の前にいるのはただの学生。気を張る要素も、理由もない。おーけー?」
「……おーけー」
「よし、素直な子だね。お姉ちゃん、そういう子は好きだな。そんないい子には、ご褒美を上げちゃおう」と佐島さんはひょいっとお菓子らしきものを放った。
わたしは足をもたれさせて、それを受け取った。「あわわ」と千鳥足になるあたり、運動不足が祟っている。うぅ、恥ずかしい。
「きんつばだよ。それを食べたら、誰でも笑顔になるんだ」
食べなよ、と促される。
汗ばんだ手が、包みを掴み締める。このまま握り潰してしまいそうだった。
「御代は頂かないよ」
視界が徐々に揺れ始める。おかしいな。地震でも起こってるのかな。
「……いただけま、せん」
「遠慮してるの」
「食べれ、ないぃ、んです」わたしは歯をカチカチと鳴らした。「人、の前で、ものがたっ、食べれな、いんで、す……」
「……無神経なことをしたね。ごめん、謝るよ」申し訳なさそうに頭を下げた。
「いっ、いや、わたしのほうが……無神経、だと思います」
そんなことないよ、と佐島さんは言った。「わたしのことは気にしなくていいから。でも……わたしにもその感情には覚えがあるからさ、その辛さはよく分かってたつもりなんだけどなぁ、とは思うんだよね」
妙な突っかかりを覚えた。
佐島さんを見る。凝視、といっても過言じゃない。
「わたしも君と同じなんだよ」佐島さんは空虚な笑い顔を見せた。「わたしも一時期、対人恐怖症だったから」
わたしは押し黙った。
きんつばは潰れている。
「体操服をズタズタにされたり、給食に虫の死骸入れられたり、教科書を黒く塗られたりとまぁ、色々あってさ、引き篭もっちゃったんだよねわたし。学校に行くのが嫌でさ、ご飯もろくに食べられやしない。んで、一念発起、がんばろうと思って登校したら、なんか勝手に解決してさ、わたしをいじめてたクズが全員、別の暴力沙汰起こして蟄居してたんだよ。それで問題は解消されたけど、心はとっくにボロボロ。死んじゃおうかなーなんて思って首吊ろうとしたとき、あいつに止められたんだ」
それまで険しい顔をしていた佐島さんは、ふいに幸せそうに頬を緩めた。照れくさそうにあごの辺りをかく。
わたしの反応を無視して、佐島さんはふわふわと一人、自分の世界に没入する。
今になってこの人が、微妙にズレていることに気付く。わたしが言える道理じゃないけど、佐島さんはアンバランスな人だった。
所々思考が断絶する中、引き戸を開ける音がした。
振り返る。
地に伸びた隻影。
斜陽に塗りつぶされたそれは、人の形をしていた。
「逢魔が時である。闇夜に備え、篝火を焚くのだ」
それは足音もなく忍び寄ってきた。
「月子よ、このままでは、宵に至りて鬼が出るぞ」
詩を低吟するような声色だった。
わたしの隣を通りすぎ、佐島さんの肩を掴む。
佐島さんの顔は紅に潮している。
「聞いているのか月子。そんな腑抜けた面では、魑魅魍魎が嬉々として近寄るではないか。早急に篝火を燃やすのだ」
肩を揺り動かすが、佐島さんは気の抜けた顔でされるがままになっていた。
蚊帳の外に追いやられたわたしは、じつと身を丸くした。虎が過ぎ去るのを草むらに隠れて待つ小動物の心境だった。
「おい、聞いているのか月子。涎が垂れているぞ。まさか……鬼にとり憑かれたのか。愚か者め。だからあれほど」
颯。
颯。
颯。
引き戸の隙間から吹き抜ける夕風。
「うむ」
その人は顔に手をかざして、振り向いた。
時宜を得たように、夕風がやむ。
やむ。
「や」
整った眉宇をひそめ、メガネ越しの虹彩を広げた。
注視を一身に受ける。
その眼光はこの世のものとは思えぬほど鋭く、常軌を逸していた。
嫋。
嫋。
嫋。
艶やかな和琴のしらべ。
それは涼やかな松風の音色であったか。
「雅なる化生の妖しさかな」
一言を吟じたその人は、佐島さんを突き放して、射るような目つきをもってわたしを貫いた。
初めて視認できたそれは、白皙の妖美だった。女のように透き通った肌、艶のある黒髪。浄瑠璃の人形を思わせる貌。
一歩、進行する。
一歩、後退する。
迫るその人と、引くわたし。
遠くで山鳥のさえずりが聞こえる。
他と隔絶した空間。わたしと対峙する、名も分からぬ人士。二人きり、と称しても差し支えない。一転して、佐島さんは空漠たるこの場からすっかり締め出されている。
人に対する恐れすら忘れていた。
神仏に対するような畏怖。惹起する。わたしは眼前の人にそれこそ魔物のような、そんな神性すら感じている。人の形をした怪異。
妙だ。
この人は……なんなのだ。
「聞くが……おまえ、兄、あるいは弟はいるか」
と。
唐突に。
「いるか、いるのであろう。……決然として答えよ」
詰問じみた口調。
その眼圧に恐怖を感じながらも、「いっ、います」と気力を振り絞って、返答する。
寂とした静けさが、妖精のように一過した。
その人は唇と頬を、人形のように吊り上げた。
「いやはや、巡り合わせの不思議さよ」その人は芝居がかった手振りで額に手を置いた。「事実は小説よりも奇なり……とは、よく言ったもの」指の隙間から漏れる眼差しは、どこか艶かしいものが含まれているように感じる。、
危ういものが胸底から突きぬけ、後ずさりした。
空気が全身にまとまりついているような錯覚を覚える。足の裏が地面に張り付いている。縫い付けられたのだろうか? 釘が足の甲を貫通している……? 視線を下げる。釘はない。妄想。この奇妙にズレた雰囲気が作り上げた幻影。
「名を、申せ」
喀血する病人のように、その人は己が口に手を当てた。
壁に片手でついて、体重を支えている。
陰々とした気迫が充溢している。
「みどりばっ、しず、え、です」
「緑葉……静絵とは」
能のように、ぴたと動きを静止させる。
静。
静。
静。
「藤宮詠太郎……と言う。おまえの兄と旧知のものである」
「ち、千尋、と……」
「さればよ」
と。
その人は。
その言をもって。
「篝火に たちそふ恋の 煙こそ 世には 絶えせぬほのほなりけれ……月子よ、まきをくべ、炎々と燃ゆ篝をあらわせ。もたもたしては、忌むべき夜が来るのだぞ」
「はぁ……なんかさ、いつにも増して意味不明なんだけど。変なものでも食べた?」
「それは、おまえの作った、弁当のことを言っているのか?」
「だからさ……なんでわたしが、お弁当に変なものを混入しなくちゃいけないのよ」
「ごまと昆布をあえたものは、うまかった」
「……そっか。朝早く起きた甲斐があったよ。仕込み、大変だったから」
「昨夜、あれほど逢瀬を交わした、というものを……」
佐島さんは耳まで赤くなっている。「よっ、詠太郎ッ!」
「房事もさることながら、飯炊きもうまい。掃除もする。俺は、おまえのような女を持って……“幸せ”だった」
藤宮さんは遠い目をしていた。
違和感を覚える。
二人の会話に、ちぐはぐな印象を受ける。
「静絵ちゃん」
名前を呼ばれる。
「帰りなさい」
「かえ」
「帰りなさい」
「でも」
「帰りなさい、とわたしは言った。だから、帰るのよ」
「…………」
「明日、待ってるから」