第二十六話 妹(8)
「好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い……」
そこで、花びらが途切れる。
散ってしまった。
わたしの手には花片をむしり取られた、一輪の野花があった。細長い茎は頼りなくたわみ、死んだようにこうべを垂れている。
一掬の涙が手の甲から花に伝った。だんだんと勢いを増すそれは、洪水のごとく、涙腺を刺激する。“それ”とはすなわち、悲しみだった。悲哀。胸中が宇宙空間のようになる。膨張する暗黒と虚無。際限はない。延々と継続する。
気がつけば、顔に手を当てて、潸然と泣き伏すわたしがいた。
堤防。眼下にはそよそよと流れる小川があった。対の岸には、白斑の河鵜が翼を広げ、小刻みに震わせていた。そのなにげないしぐさに苛立ちを覚える。無神経な顔……。わたしは身勝手な憤りを、近くにあった小石にこめ、思い切り投擲した。当たらなかった。河鵜は何食わぬ顔で水面を滑っていった。
花を持つ握力が、漸を追って強くなる。やるせない怒気と物寂しい虚しさ。いくあてを失い、彷徨する。
わたしは握りつぶされたそれを、堤の脇に掘られた渠に打ち捨てた。
意思も思考もなく、浪々と水流に身を任せる花。
それはまるで、手足をもがれた人のようだった。
ふと。
ふと、人形流しを想起する。
祓いの川に流れる、人の形をした紙。積もり積もった己が罪や穢れを人形に封入し、「祓えたまえ。清めたまえ」と唱え、人形を送る、神道由来の儀式。
罪業と不浄。
光の射さない河渠。ひっそりと漂う、四肢を立たれた人形……。
「祓えたまえ。清めたまえ」
小さな声で、つぶやく。
「祓えたまえ。清めたまえ」
浮き沈みする緑茎を凝眸している。
「祓えたまえ。清めたまえ」
念じている。あの花に、人形に、この度し難い罪が付着するよう、心底より祈念している。頼みます、お願いします、神様……。
わたしの罪は清められました。
わたしの咎は拭われました。
わたしの邪は封じられました。
だから。
どうか。
なんでもしますから。
神様。
わたしから兄を奪わないでください。
一度は止んだ嗚咽が、ひっくひっく……と視界を曇らせる。歔欷。胸の底から、失意と憂戚がこみ上げてくる。止められそうにない。わたしはこのうら悲しさを止められそうにない。
思えば。
いつも、隣には千尋がいた気がする。揺籃期からずっと、ずっと、そばにいてくれたんじゃないのかな。わたしが露骨に無視しても、口汚く罵っても、悪態をつくだけで、見放すことはしなかった……と思うんだ。
叫びたいことがあれば、耳を傾けてくれた。
逃げだしたいときがあれば、手を握ってくれた。
すぐに思い起こせる。切れ長の目に、中途半端に長い髪。わたしと似た形の、小ぶりの唇……。あぁ、わたしは彼のどこに、恋をしたのだろう――。
すぐには思い出せない。わたしはいつから、彼にときめきを抱くようになったのか……。
ありふれた毎日。
思う。彼との日々は安寧ながらも、幸せな心持ちで過ごせた。順境。健やかな幸福。近親同士という、歪んだ想いがあったとしても、そこにはまぎれもなく、愛があった。少なくともわたしは、彼を、千尋を、愛していた。
千尋にときめいていた。
嘘じゃないんだ。本当のこと。彼の一挙一動にいちいち反応して、わたしの名を呼ぶ彼に、甘えたような声で返事をして、彼が近づいてきたらほんの少しだけ、キス――なんかを期待したりもして……。でも、不純。汚濁している。この感情は倫理の枠から明らかに逸したものだった。
人は長年生活を同じくしてきた相手に恋心なんぞ抱くはずはない。愛憎半ばする想いがあるだけで、それが凄絶な恋愛感情に結びつくことは通常、ありえない。緑葉静絵は狂ってる。人の道を踏み外した畜生。兄の血肉に愉悦する、気持ち悪い女……。
だから。
でも。
しかし。
解答を求む。正確無比の、文句のつけようのない解答。わたしはどうしたらいいのだろう。この喪失感はなにを持って、埋めればいいのだろう。わたしは彼をあきらめたほうがいい……? けど、それだったら、わたしは。
わたしは。
これはことごとく、わたし視点の心得違いの私見、願望。彼の意思を反映しているわけじゃない。彼がわたしと一緒にいたいのか、ともに添い遂げてくれるのか……その心中は不明。 わたしの勝手な解釈なんだ、これは。あまりに楽観的で、空虚な幸せに満ちた、浅慮。実現の余地はない。だって、兄妹だもん。いくらなんでも、妹に一度限りの畢生を尽くそうだなんて、思わない。考えない。兄の選択は正常。普通。わたしは彼を責められない。普通の人を選んだ彼を、責められないんだッ!
悲しいれど。
いやだけど。
彼の幸せを第一に考えれば、これが最上。良識ある選定。
諦めるしか、ないのかな。
どうしよう。
どれが正しいのだろう。
どっちが正しいのだろう。
寂しい。
千尋に、逢いたい……。
自立。
誓った。千尋に誓った。自立する、と。それがたとえ、彼に恋人ができようとも、関係ない。わたしは自立しなくちゃいけない。これ以上家族に迷惑をかけちゃダメなんだ。鬱々と家居する状況から、脱却するんだ。
そして、千尋に認められよう。普通の人間になって、千尋に、「えらいえらい」って頭をなでなでしてもらうんだ。
人形はとっくに見えなくなっていた。
どれくらい、ここにいたのだろう。
袖は涙でぐちょぐちょになっている。
着替えないといけない。
お母さんにはなんて言い訳しよう。あの知らせを聞いた直後に家を飛び出したから……変に思ってるかもしれない。それで、無我夢中になって、一キロ先の河畔まで走ったんだ。その途で人知れず咲く野花を見つけた。
あは。
バカみたいだ、わたし。
行かなくちゃ、いけないのに。
進まなくちゃ、いけないのに。
同行者はもういない。わたし一人の、孤独な旅。でも、勝ち取らなくちゃいけない。わたしはもう、子供じゃない。困難を前にして、ただ立ちつくすだけのわたしじゃない。
気がつけば、薄暮の空。
決意を新たにして、川沿いの野道を歩き出す。
一本松の和菓子屋は、高峻たる山々を背にした日本家屋だった。軒先は長く、引き戸の奥には和菓子が雑然と陳列されてある。
わたしと千尋が前に通ったときより、わずかに壁や柱が腐朽しているのが分かった。
こみ上げてくる懐かしさが、一時の感傷をもたらした。自室に引き篭もっていたからか、千尋との思い出の場だからか、胸の高鳴りは天を摩する勢いだった。
ここなら、と思った。
推察するに、和菓子を売却するだけの楽な仕事と見た。周囲を見渡してみても、人気はほとんどない。社会を経験しておらず、コミュニケーション能力を大きく破綻させたわたしには、おあつらえ向きの職場のように思えた。
心の中でガッツポーズ。
前向きに、前向きに……。
さて。
立ち往生。店主さんはこの中にいるのだろうか。人がいるようには思えないけど。外出している? にしても留守番一人いないなんて……。ふふふ、無防備だなー。そんなことだと、お菓子盗み食いしちゃうぞー。
と。
「んんー、怪しい人物発見。至急拘束します」
「え?」
「おぉー、いい体してるねぇー。上から、八十二、五十九、八十四と見たッ! うわぁ、理想的なプロポーションだねぇ。えへへ」
「えっ、あのッ」
誰かがいる、と理解したときにはすでに、体中をぺたぺたをまさぐられていた。くすぐったいのと羞恥心、そして掻き消えない恐怖心がない交ぜになる。
「やっ、止めてくださいいいぃっ!」
「あのねぇ、うちの店の前でうろうろされるこっちのほうが困るんだよ。分かるかな」
うちの店……?
「今日はねぇ、めでたい日でさぁ、なんとこんないつ倒壊してもおかしくない店に、アルバイトさんがくるんだよ。ちょっとわけありの子らしいけどさ。でも、信じられる? 信じられないよねぇ、正直わたしも、あんな薄給な求人に応募する奴なんて、絶対いないと思ってたのに」
その人は滔々と何かを話している。
内容から玩味するに、それは……。
「でもまぁ、結果オーライってもんだよ。わたしも詠太郎以外に話し相手が欲しかったからさ。あぁ、詠太郎ってのはわたしの彼氏で、平安絵巻物から抜け出したみたいに古臭い奴なんだけど、それはなんとも爽やかな男でさ、メガネ男子っていうのかな。黒縁メガネがすっごく似合うんだよね。でも無口だし、変に格式ばってるし、いきなり和歌とか詠みだすし! けどまぁ、いい奴なんだろうけどさ」
んで、君の名前は?
快活そうなその人は、わたしの前に回りこんで、誰何した。
多弁に気圧されていたわたしは、とっさに答えることができないでいた。
それを感得したらしいその人は、白い八重歯を見せて、「君、うちのアルバイト生でしょ?」と尋ねた。
こっくりと頷く。
すると、「やっぱりなんだ」とその人は見るからに嬉しそうにした。朗らかだった。人の緊張をほぐすような笑み。
「おっと失敬。相手の名前を尋ねる前に、まず自分の名前を明かすのが筋か……わたしの姓は佐島、名は月子、人呼んで、おんぼろ菓子屋の跡取り娘……なんて言われてる、一介の学生だよ」