第二十五話 妹(7)
届かない祈り。
叶わない願い。
伝わらない想い。
大切なものを得た瞬間から、失うことを恐れなければいけない。
失うことを恐れなければ、大切なものを得ることはできない。
なんて。
なんて不条理な、この世界――。
◆◆◆
兄と寝た。
人目をしのんで兄の室の戸を叩く。コンコン……と反応が小さく返ってくる。徐々に高鳴っていく体。ちょうつがいのすれる音。夜気に冷えた木の床。素足のひんやりとした感触。窓が開いている。そこから、冷え冷えとした、風……。
許可を求めるわたしの声と、諾する兄の声とが薄暗がりに溶けていった。夜陰に紛れて布団の中にもぐりこむ。すぐ近くに暖かな熱の塊がある。それにつかまった。すがりつくように。
手を伸ばすと、何も言わず、兄が、手を握ってくれた。
月明かりが差し込んでいた。
背中合わせで寝ている。手はつながっている。兄の小動物のような呼吸が空気がふるわせた。
ドキドキしている。
背で兄の体温を感じている。服越しではあるけど、確かに感じている……。心臓が飛び出してしまいそう。わたしはちらちらと、向こう側をうかがう。すると、兄と目が合った。わたしは体を縮こまらせ、目を逸らした。兄も慌てて体の向きを変えた。かすかな布擦れの音。きっと、わたしの顔は真っ赤。兄の顔も真っ赤、だったりして。
相手の様子を探るような行為。断続的に繰り返される。互いの鼓動を感じあって、繭の中のような半睡に沈み、意識はやがて、認知の外に追いやられてしまう。
そばには、恋しい人肌のぬくもりがあった。
幸せだった……と思う。
けれど、朝になってしまえば、そのぬくもりはなくなってしまう。
寂しい。
わたしは掛け布団を胸元に寄せて、千尋のぬくもりを感じようとした。午前十時。隣に千尋はおらず、ただ朝の陽光だけがあった。
鼻腔が千尋の体臭を拾う。わたしはそのにおいを持って、ぽっかりと穿たれた空洞を埋めようとする。昨夜の記憶を、肌の感触を辿り、恋慕の情を強くする。わたしはびょーきなのかもしれない。すごく胸が苦しいんだ。千尋が恋しい。千尋の体の火照りを、全身で感じたい。
わたしは禁忌だとか、人倫だとかの向こう側に、恋々たる想いを馳せていた。
寝ぼけ眼をこすり、一階に下りる。リビング。母は難しい顔で家計簿を広げていた。
わたしの足音に気付いたのか、母は小じわが目立つようになった老顔を上げた。五十にほぼ近い母は、わたしを見てぱっと明るい表情を作る。そして、「静絵ちゃん」といって、手招きした。
困惑しつつも、近寄る。少し怖い。意味もなく怖い。変化を恐れる体質。母の笑顔。わたしはどこにいけばいいのだろう。このまま前進であっているのかな。どうかな。
「驚かないで聞いてちょうだいね」と母はもったいぶるように指をふった。たっぷり間を取る。その間、わたしの視軸は虚空をさまよっている。「三十分くらい前かしら。電話機が鳴ったわ。受話器を手に取った私は、開口一番、信じられない一言を聞いたわ。あなたを採用します――って」
「……え?」
「一瞬、耳を疑ったわ。電話番号、間違っていませんよね? って何度も確認したわ。でも、どうやら、そうらしいの」
まさか、と思った。そんなはずない。そんな、都合のいいことが、そう、やすやすと。
「静絵ちゃんの就職先は――あなたも行ったことがあると思うけど――一本松の和菓子店よ」
「え、うそ……」
「うそじゃないわ。全部本当。真実。あなたは、緑葉静絵は、今日という日から、アルバイトみたいなやつだけど、きちんとした職を得たのよ」
「お母さん……」
わたしは手で顔を覆った。胸の奥から、静かな喜びが浮かび上がってきた。不思議な気持ち。欣喜と興奮がないまぜになって、わたしに迫って来るんだ。
一本松の和菓子店。
小さい頃に時々、千尋に手を引かれて行ったことがあった。古びた屋根と退色した和菓子屋の看板。隣には威容を誇る一本松があった。わたしは店の縁側で、兄と一緒にお饅頭を食べたんだ。
今となってははるか昔日の記憶。追憶を巡らせるには、あまりに遠く、現実とかけ離れている。わたしがまだ千尋を兄と慕っていた、アルバムの中の一ページ。
でも。
ひょっとしたら、また……。
千尋とその店で和菓子を食べる日が、再びくるかもしれない。
そのときの。
わたしは。
「ご挨拶に行ってもらいたいわ。そちらさんは出向かなくてもいいとは言っていたけど……礼を欠くのはいやだわ。あなたが働くのは明日。今日中に行きなさい。もちろん、無理に、とは言わないけど……」
母は難しい顔をして、わたしの表情を伺った。
答えは。
答えは決まっている。
「い、行くよ、わたし」震えている。声が、体が、震えている。そのふるえを抑えて、思い切り声帯を振り絞った。これはチャンスなんだ。わたしが今一度、千尋に認められるためのチャンス。千尋のパートナーになるための試験。わたしがダメ人間から脱するための、試練。
そうだとしたら、戦わなくちゃいけない。
前に進む。
濃い闇があろうとも、人の目があろうとも、道が閉ざされていようとも……わたしには篝火がある。暗黒の中、煌々ときらめく一条の光芒。わたしを深淵から引っ張りあげてくれた、優しい灯火。
もう、千尋の足枷にはなりたくない。足手まといには、もう……。
母は満足そうに頷いた。「そっか。あなた、強くなったわね。お母さん、すごく嬉しいわ。小躍りしそうなくらい」
「わたしも。嬉しい。でも……体が震えてる」
「それはね、一般的には武者震いって言うのよ。知ってた?」
母の悪戯っぽい笑み。
わたしは救われたような気持ちで、一筋の光明を見た気がした。当たり前だった。わたしを照らしてくれる光は、何も千尋だけじゃない。お母さんも、お父さんも、わたしのために、出来損ないの娘のために、汲々として……。
「ま、とりあえず英気を養いなさい」母はラッピングされた膳を示した。「腹が減っては戦はできぬ」
かけがいのない、とはこのときのために用意された言葉のように思えた。お母さんの何気ない一言が、わたしの緊張を解きほぐしてくれる。幸福。きっと、この感情は幸福と形容されるもの。そうなのだろう。
テーブルに着いた。お腹は空っぽ。わたしは自分でもはしたないかな、と思うくらいにがつがつと食べた。それを咎めることのできるのは母しかおらず、また、母はわたしに冷ややかな目を向けることもない。安息。小学生の頃に感じていた閉塞感はないのだった。周囲の人間に監視されているような息苦しさは、このテーブルには存在しない。
「そういえば」
暴食をほほえましそうに見ていた母は、不意に声を上げた。
箸を止める。ほんの些細な気持ちで、母を見やった。
母は笑いをこらえ切れないといった風に、幸せそうに唇を曲げていった。「そういえば今日、驚嘆すべき慶事がもう一つ、起きていたことを忘れてたわ」
眉をひそめるわたしは、なになにと無言で催促する。
気分のよかったわたしは、単純に何があったんだろう、と無邪気にそう、思った。
続かない。長くは。平和は。安穏は。分かっていた。初めから理解していた。そんなもの幻想でしかない。虚構の一種。幸せな日々なんて、永久には続かない。そんなこと、分かりすぎるくらい分かっていた。千尋との幸福な毎日も、いつか、終わりがあると……でもわたしは、その事実に眼をつむっていた。見ないようにしていた。一度見てしまえば、その真実を認めてしまえば、弱いわたしは、ガラス細工のように、あっけなく、なす術もなく、崩壊する……。
「今朝、千尋がべっぴんさんの彼女を連れてきたのよ」母は口唇をゆるくした。