表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プシュケの心臓  作者: 密室天使
第2章 とりあえず生きてみた
26/54

第二十五話 妹(7)

 届かない祈り。

 叶わない願い。 

 伝わらない想い。

 大切なものを得た瞬間から、失うことを恐れなければいけない。

 失うことを恐れなければ、大切なものを得ることはできない。

 なんて。

 なんて不条理な、この世界――。




   ◆◆◆




 兄と寝た。

 人目をしのんで兄の室の戸を叩く。コンコン……と反応が小さく返ってくる。徐々に高鳴っていく体。ちょうつがいのすれる音。夜気に冷えた木の床。素足のひんやりとした感触。窓が開いている。そこから、冷え冷えとした、風……。

 許可を求めるわたしの声と、諾する兄の声とが薄暗がりに溶けていった。夜陰に紛れて布団の中にもぐりこむ。すぐ近くに暖かな熱の塊がある。それにつかまった。すがりつくように。

 手を伸ばすと、何も言わず、兄が、手を握ってくれた。

 月明かりが差し込んでいた。

 背中合わせで寝ている。手はつながっている。兄の小動物のような呼吸が空気がふるわせた。

 ドキドキしている。

 背で兄の体温を感じている。服越しではあるけど、確かに感じている……。心臓が飛び出してしまいそう。わたしはちらちらと、向こう側をうかがう。すると、兄と目が合った。わたしは体を縮こまらせ、目を逸らした。兄も慌てて体の向きを変えた。かすかな布擦れの音。きっと、わたしの顔は真っ赤。兄の顔も真っ赤、だったりして。

 相手の様子を探るような行為。断続的に繰り返される。互いの鼓動を感じあって、繭の中のような半睡に沈み、意識はやがて、認知の外に追いやられてしまう。

 そばには、恋しい人肌のぬくもりがあった。

 幸せだった……と思う。

 けれど、朝になってしまえば、そのぬくもりはなくなってしまう。

 寂しい。

 わたしは掛け布団を胸元に寄せて、千尋のぬくもりを感じようとした。午前十時。隣に千尋はおらず、ただ朝の陽光だけがあった。

 鼻腔が千尋の体臭を拾う。わたしはそのにおいを持って、ぽっかりと穿たれた空洞を埋めようとする。昨夜の記憶を、肌の感触を辿り、恋慕の情を強くする。わたしはびょーきなのかもしれない。すごく胸が苦しいんだ。千尋が恋しい。千尋の体の火照りを、全身で感じたい。

 わたしは禁忌だとか、人倫だとかの向こう側に、恋々たる想いを馳せていた。

 寝ぼけ眼をこすり、一階に下りる。リビング。母は難しい顔で家計簿を広げていた。

 わたしの足音に気付いたのか、母は小じわが目立つようになった老顔を上げた。五十にほぼ近い母は、わたしを見てぱっと明るい表情を作る。そして、「静絵ちゃん」といって、手招きした。

 困惑しつつも、近寄る。少し怖い。意味もなく怖い。変化を恐れる体質。母の笑顔。わたしはどこにいけばいいのだろう。このまま前進であっているのかな。どうかな。

「驚かないで聞いてちょうだいね」と母はもったいぶるように指をふった。たっぷり間を取る。その間、わたしの視軸は虚空をさまよっている。「三十分くらい前かしら。電話機が鳴ったわ。受話器を手に取った私は、開口一番、信じられない一言を聞いたわ。あなたを採用します――って」

「……え?」

「一瞬、耳を疑ったわ。電話番号、間違っていませんよね? って何度も確認したわ。でも、どうやら、そうらしいの」

 まさか、と思った。そんなはずない。そんな、都合のいいことが、そう、やすやすと。

「静絵ちゃんの就職先は――あなたも行ったことがあると思うけど――一本松の和菓子店よ」

「え、うそ……」

「うそじゃないわ。全部本当。真実。あなたは、緑葉静絵は、今日という日から、アルバイトみたいなやつだけど、きちんとした職を得たのよ」

「お母さん……」

 わたしは手で顔を覆った。胸の奥から、静かな喜びが浮かび上がってきた。不思議な気持ち。欣喜(きんき)と興奮がないまぜになって、わたしに迫って来るんだ。

 一本松の和菓子店。

 小さい頃に時々、千尋に手を引かれて行ったことがあった。古びた屋根と退色した和菓子屋の看板。隣には威容を誇る一本松があった。わたしは店の縁側で、兄と一緒にお饅頭を食べたんだ。

 今となってははるか昔日の記憶。追憶を巡らせるには、あまりに遠く、現実とかけ離れている。わたしがまだ千尋を兄と慕っていた、アルバムの中の一ページ。

 でも。

 ひょっとしたら、また……。

 千尋とその店で和菓子を食べる日が、再びくるかもしれない。

 そのときの。

 わたしは。

「ご挨拶に行ってもらいたいわ。そちらさんは出向かなくてもいいとは言っていたけど……礼を欠くのはいやだわ。あなたが働くのは明日。今日中に行きなさい。もちろん、無理に、とは言わないけど……」 

 母は難しい顔をして、わたしの表情を伺った。

 答えは。

 答えは決まっている。

「い、行くよ、わたし」震えている。声が、体が、震えている。そのふるえを抑えて、思い切り声帯を振り絞った。これはチャンスなんだ。わたしが今一度、千尋に認められるためのチャンス。千尋のパートナーになるための試験。わたしがダメ人間から脱するための、試練。 

 そうだとしたら、戦わなくちゃいけない。

 前に進む。

 濃い闇があろうとも、人の目があろうとも、道が閉ざされていようとも……わたしには篝火がある。暗黒の中、煌々ときらめく一条の光芒。わたしを深淵から引っ張りあげてくれた、優しい灯火。

 もう、千尋の足枷にはなりたくない。足手まといには、もう……。

 母は満足そうに頷いた。「そっか。あなた、強くなったわね。お母さん、すごく嬉しいわ。小躍りしそうなくらい」

「わたしも。嬉しい。でも……体が震えてる」

「それはね、一般的には武者震いって言うのよ。知ってた?」

 母の悪戯っぽい笑み。

 わたしは救われたような気持ちで、一筋の光明を見た気がした。当たり前だった。わたしを照らしてくれる光は、何も千尋だけじゃない。お母さんも、お父さんも、わたしのために、出来損ないの娘のために、汲々として……。

「ま、とりあえず英気を養いなさい」母はラッピングされた膳を示した。「腹が減っては戦はできぬ」

 かけがいのない、とはこのときのために用意された言葉のように思えた。お母さんの何気ない一言が、わたしの緊張を解きほぐしてくれる。幸福。きっと、この感情は幸福と形容されるもの。そうなのだろう。

 テーブルに着いた。お腹は空っぽ。わたしは自分でもはしたないかな、と思うくらいにがつがつと食べた。それを咎めることのできるのは母しかおらず、また、母はわたしに冷ややかな目を向けることもない。安息。小学生の頃に感じていた閉塞感はないのだった。周囲の人間に監視されているような息苦しさは、このテーブルには存在しない。 

「そういえば」

 暴食をほほえましそうに見ていた母は、不意に声を上げた。

 箸を止める。ほんの些細な気持ちで、母を見やった。

 母は笑いをこらえ切れないといった風に、幸せそうに唇を曲げていった。「そういえば今日、驚嘆すべき慶事がもう一つ、起きていたことを忘れてたわ」

 眉をひそめるわたしは、なになにと無言で催促する。

 気分のよかったわたしは、単純に何があったんだろう、と無邪気にそう、思った。

 続かない。長くは。平和は。安穏は。分かっていた。初めから理解していた。そんなもの幻想でしかない。虚構の一種。幸せな日々なんて、永久には続かない。そんなこと、分かりすぎるくらい分かっていた。千尋との幸福な毎日も、いつか、終わりがあると……でもわたしは、その事実に眼をつむっていた。見ないようにしていた。一度見てしまえば、その真実を認めてしまえば、弱いわたしは、ガラス細工のように、あっけなく、なす術もなく、崩壊する……。

「今朝、千尋がべっぴんさんの彼女を連れてきたのよ」母は口唇をゆるくした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ