第二十四話 兄(15)
蛾々島杏奈という人間は妙な奴で、顔の造詣はいいのに眼帯をしたり、おしとやかに振舞っていれば十分もてるのに男口調で話したりする。誰かが蛾々島に話しかけようとすると、「ふん」とあざけるように鼻を鳴らして相手を困らせたりする。素材の味をいかしてない、って感じ。何もしなければ美人の典型。
そんな蛾々島は、今日も変わらず肉食動物のように、歯をつきたててパンをかじっている。荒々しい。彼女には自分は女であると言う自覚はない。気随気まま。メチャクチャな奴なんだ、蛾々島は。
「……んだよ、オレの顔に何かついてんのか?」
「……パンくず」とぼくは蛾々島の口元についていたパンくずを取ってやった。食べる。「ついてる」
「あっ、あぁ……うん。ありがと」
顔を赤くするなよ、と思いながらも、「そういえばおまえ、実家にお母さんが来てるっていってたけど、その……どうなんだ? 首尾は」と話題転換。
「さいぃっあくだぜッ!」と蛾々島は大いに力んで、拳を振り上げた。「あの売女っ、気がついたらオレの家に住み着きやがってよぉー、それも体から血と肉を剥ぎ取ったみてぇーななよなよ男と一緒にいやがるんだ。身長百七十五センチッ、体重はたったの五十七キロッ、腕は鳥の手羽先みてぇーに細ぇし、うだつの上がらなさそうな面ぁ、してやがるんだ。あいつ、クソババアのどこに惚れたかぜんぜんわっかんねーけど、クソババアはクソババアであのなよなよ野郎のどこに惚れたかわかりゃーしねぇッ! どんな経緯あって結婚に至ったのか……永遠の謎だぜ。マチュピチュに取って代わって、世界七不思議の一つに数えてもいいくらいだ」
蛾々島が前々から家族間で問題を抱えていることは知っていた。
両親の離婚。
しかし、再婚したらしい。
蛾々島は滔々と語る。「しかも、だぜ。一緒に入りやがるんだ。風呂。気持ち悪いったらありゃしねぇ! 白粉だらけのクソ女と骨だけ骸骨男とが一緒に入浴する……お笑いだぜッ! んで、浴槽からいかにも楽しそうな声が聞こえるからたまんねぇ! あのクソ女、年頃のアホみてぇにキャピキャピ言ってやがるッ。吐き気ッ。ブッ殺したくなるような吐き気が、胸の底からこみ上げてくるんだッ!」
蛾々島は滔々と語る。「それだけならまだいいっ! 我慢してやるッ! オレは寛大な魔王だからよぉー、ちょーっとくらいのことなら許してやってもやぶさかじゃーぁねぇ。でもッ! 我慢できねぇーのはここからッ! 飯ッ! ほら、よく漫画とかアニメであるだろ。“あーん”って奴だ。それを、それを……してやがるぅーッ! 不快感マックスだぜッ! 見ているだけでこの吐き気ッ! あいつら、人に嫌悪感を抱かせる天稟でもあんのかよッ! ヘドが出るって言葉はこのときのために用意されてたとしか思えねぇッ!」
一度しゃべりだしたら止まらない。激しい口調で両親の不平不満をぶちまける。
周りの人間はぼくたちを迷惑そうに見ている。
「ああもう、分かった。分かったから、それ以上しゃべんなって蛾々島。おれはさ、おまえに“共感”って奴を覚えたぜ」
「おぉ、そうか、そうだよなッ! おまえもオレの気持ちッ、分かってくれるよな! そう思ってたッ。おまえなら分かってくれると思ってたんだッ!」
蛾々島の奴、ぼくの両手を強く握って、爛々と目を輝かせていた。
ぼくは、「ははは」と笑って、目を逸らした。
すると。
「なんで、そんな顔をするんですか」
そこにはお弁当らしきものを携えた荒風寧がいた。
教室にどよめきが走る。
「あーん?」と蛾々島は殺伐とした口調で、「おまえ、オレたちになんか用かよ」と問うた。
「はい」と寧は朝のそれとはまったく違う、穏やかな笑みを浮かべた。「一緒にお昼ご飯、食べたいなって」
「……はぁ?」
理解できない、といった表情をする。
蛾々島は暫時目をパチパチさせた後、「まさかおまえ……こいつのこれだったりするの」といって、小指だけを立ててみせた。
荒風寧、静かにうなづく。
静寂。
嵐の前の静けさ。
「ははははははははッ! 笑止ッ! 緑葉に彼女――それもおまえみてぇーにかわいいぃ女がいるわけねーだろッ! お笑いも行き過ぎればただのバカだぜッ!」
「バカはひどいですねぇ。本当ですよ、本当。あなた、知らないんですか? 千尋君は勇気を振り絞って、みんなの目の前で、ワタシに告白してくれたんですよ。ですよね。千尋君」
寧は確認するように、期待のこもった目でぼくを見た。曖昧に笑うぼく。一波乱が起こる……と心の中でそうした危惧を覚えながら。
蛾々島は少し呆けたような面になった。
「……マジ?」
んだよ、そんな顔すんな。
ぼくは逡巡するも、かすかに首肯した。
「はぁぁあぁッ!」
蛾々島の絶叫が響きわたった。
「ここここここいつにッ、かの、じょ……? おいおい、冗談はよしてくれよ。面白くねぇーから。ぜんぜん面白くねーから……。おい、緑葉。この女、名前はなんて言うんだ」
「……荒風寧っていうんだ。荒い風に丁寧の寧」
「荒風ッ!」と蛾々島杏奈、いきなり立ち上がった。「荒風っていやぁ、御鏡のアラカゼだぜッ! 『黒の王国』第三章、十一コマ目に颯爽と登場した、マスコーウ国の剣士――アラカゼ=アズグラングルッ! 何千にも及ぶ魔術師師団をたった一本の刀で粉砕し、魔術は剣術に優越するという大原則を打ち破った規格外の人物ッ! その武勇は一躍、ラグマーク大陸の端にまでとどろき、周辺諸国はその圧倒的武威に恐れおののいたと言う……」
忘れてた。
この女、生粋のオタクだったんだ。
頭を抱える。
ぼくはちらと、寧のほうを瞥見した。荒風寧は一体、どんな反応をするのだろう。想像するだけで気が滅入る。というか、ぼくの周りには精神異常者しかいないのか。
さて。
寧は忍び笑いをもらして、「それは――漫画のお話ですか」と楽しそうにそう、尋ねた。
無機質めいた笑み。
次いで、蛾々島に顔を寄せた。
指呼の内にいる。
すんげぇ近い。
寧の呼気が蛾々島の顔にかかるくらい。アーモンド形の眼は緩く細められ、その唇はみだらに弧を描き、まるで悪戯好きな猫のように、蛾々島を見る。凝視する。寧は蛾々島の目を覗き見た。眼球が触れ合うくらいの距離。いくばくもない。
「いけませんねぇ。そのようなフィクションを、千尋君の耳に、入れては」
蛾々島はピクリとも動かない。手はだらしなく垂れ、いつもの挑発的な眼差しは、すっかり寧の眼球に吸い込まれてしまっている。蛾々島はまるで蛇に睨まれた蛙のようだった。……あの蛾々島が? 恐れと恥を知らない蛾々島が? 蛾々島ほどの人間が、誰かによって無力化される……おかしいぞ、それは。おかしい。そんなこと、ありえない。
でも、ありえている。
「千尋君は“純粋”なのですから、汚してはいけないのですよ。真っ白な心。あなたはそれを、穢そうとしていた」
「けっ、穢していた……」
「そう、ですよ。よく分かりましたね。立派ですよ」
荒風寧は魔性だった。吸引している。蛾々島の思念を、思考を、思索を……蛾々島はすっかり全身を弛緩させている。おかしなことだ。催眠術をほうふつとさせる。
寧は口元を蛾々島の耳の辺りにあてて、つぶやいた。
「分かるということは考えを巡らせるということです。考えをめぐらせるということは理解するということです。理解するということはワタシに従うということです。ワタシに従うということは立派ということです。あなたは、立派な人間になりたいですか……?」
首肯する。
寧は穏やかに笑んだ。
「では、今日限り、お昼ご飯はあなた一人で食べなさい。千尋君はワタシが貰い受けます。そうですね……あなたは、千尋君を、ワタシに、譲り渡したい、と思っている……そうですね?」
首肯する。
寧は穏やかに笑んだ。
「その選択はすばらしいことです。すばらしいということは幸せということです。あなたは幸せになりました。ワタシも幸せです。千尋君も幸せでしょう。みんな幸せですね。あなたはそう思いますか?」
首肯する。
寧は穏やかに笑んだ。
ゆっくりと離れる。蛾々島から離れていく……。
蛾々島は魂が抜け落ちたように放心していた。放心とは、我ながら言いえて妙だと思った。心を放す。蛾々島杏奈は心を荒風寧に解き放った。
教室は異様な雰囲気に包まれていた。
意味不明な論理が作用する空間。寧と蛾々島の奇妙な問答。荒風寧はどのような手段で、蛾々島をたなごころにしたのか。――あの女、何か妙なものを隠し持っていやがるな……。ぼくは不審の目で寧を見た。
寧は。
笑っている。
微笑んでいる。
まるで、ぼくと笑い合えて幸せだと、そういわんばかりに。
「邪魔者はいなくなりましたよ」
寧は骨抜きになった蛾々島を打ち捨て、こちらのほうに歩み寄った。するすると這う蛇。可憐な花を思わせる挙措も、その奥には蠱惑的な妖美と退廃があった。
「では、二人で……二人だけで、屋上に、行きましょう」