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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第2章 とりあえず生きてみた
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第二十三話 兄(14)

「それにしても」と母は上機嫌にこう切り出した。「千尋に彼女さんがいたなんてねぇ。それも、こんなにかわいい……」

 テーブルの空席――本来なら、静絵の席――についた荒風寧は、困ったように笑ってみせた。すみれのように頬を淡く染める。「そんな、かわいいだなんて……」

 それを見た母は、悶えたようだった。えくぼを浮かべる。そして母は、一人分の食膳を配した。「ま、荒風さんも朝ごはん、食べてちょうだい」

「いえ、そんな」と寧はやんわりと断った。その様はなんとも控えめで従順そうで……言葉にできないはかなさ。艶麗な色気が匂い立っている。

 事態の趨勢(すうせい)を一通り見守ったぼくは、寧の手を握った。「寧ちゃん。学校、行こうか」

「こらこら、千尋」と母のたしなめる声。「強引だわ」

「寧ちゃん」

 ぼくは彼女の手をむんずと引っ張った。いすから立たせる。寧は困惑の態ではあったが、強く拒みはしない。柳腰。どこか憂鬱そうに上目遣いをぼくに向ける。

「学校、行こうか」ぼくはもう一度、言った。

「千尋君……」

 ぼくはいつになく強い口調で、「寧ちゃんの分はいらないから」と母にいった。「というかそれ、静絵の分でしょ?」

「でも、静絵ちゃんは……」

「静絵は後でちゃんと朝ごはん食べるよ。それに、寧ちゃんはとっくに朝飯を済ませてると思う。口元にパンくずのあとがあるし」

 寧は己の口元に触れた。

 パンくずのあとはない。 

「とにかく、早く行こう」と我ながら荒々しく、寧の手を玄関まで引いた。

 寧は無言を保っている。

 ぼくは急いで靴を履いた。

 片方の靴を履き終わろうとしたとき、空気の変化を感じた。ちらと横目を向けると、しゃがみこんだ寧がいた。

 寧は凝然とぼくを見つめている。

 何かを咎めるような。

 何かを責めるような。

 視線。

「ごめん」ぼくは謝った。乱暴だったかな、と反省する。

「千尋君って、意外に強引な人だったんだ」と寧は手首のあたりをぼくに示した。浮かび上がる静脈と、縄で締め付けたようなあと。「ずいぶん強く、握られたなぁ」

「ごめん」

 爬虫類を思わせる眼球と、セロテープを張ったように薄い肌。ぼくのつかんだ手首をちろちろと舐める。生々しい。「あとがつくぐらい、がっちりつかむものだから、痛くて痛くて……これが君なりの愛情表現? 手荒な人は女の子に嫌われちゃうよ。嫌わないけど」

「ごめん」

「なんで、あんな嘘をついたの。パンくずなんて、ついてなかったのに」

「ごめん」

「ちゃんづけは、いやって言ったばっかりなのに、もう破ってる。寧ちゃんっていうとまるで、“姉ちゃん”って風に聞こえるからワタシ、いやなんだよね。普通に寧っていえばいいんだよ」

「……寧」

「うん。それでいいの」

 柔和な笑み。

 寧はそっと、ぼくを安心させるようにぼくの手を握った。ひんやりとした感触が心地よい。

 そして、近づいてくるのが分かる。接近する甘い吐息。寧はぼくの耳をなぶるように噛んで、そっとささやいた。「それが千尋君の愛なら、少しくらい痛くても、ワタシ、平気だよ」

 ぼくは耐えきれなくなって、思わず寧を突き飛ばしてしまった。

 ぞくぞくっ――とした。ぼくの体は官能的な寒気に貫かれた。いけないと思った。このままいったら、手遅れになってしまいそうだった。怖かった。ぼくは臆病だ。心臓が痛いくらいに鼓動している。がくがくと(おこり)にかかったように、全身が痙攣していた。

 荒風寧――。

 思えば、戯れでしかなかった。思いつき程度の冗談。それがくしくも、予期せぬ事態を招いた。身から出たさび。ぼくは愚か者だった。けれど、よもや応諾してくるとは思わなかった。荒風寧は気まぐれな人間なのか? 一度会っただけの人間の告白を、ああもやすく受け入れるものなのか? 男女の機微に疎いぼくでも分かる。荒風寧の対応は明らかに奇妙だった。作為のようなものを感じる。愛の告白をしたのはぼくのほうだけど、それでも、何か突拍子もない仕掛けが用意されているような、そんな風。 

 おそらく。

 おそらく、荒風寧には何か、裏がある。

 寧はゆっくりと起き上がった。呪い殺すかのように、険のこもった目でぼくを見る。それはくしくも、純な外見とはまったく異なる、毒々しくもあだっぽい姿だった。露出する太ももと前髪に隠れた表情。寧は肩で息を整えて、口元を手でぬぐって、なぜか。

 なぜか。

 綺麗な笑みを浮かべて。

「殴っても、いいよ」

「……はぁ?」

「顔はダメだけど、別の箇所なら、いいよ」

 寧はぼくの手を握った。握って、白魚のようなその指が、ぼくの手の甲に突き立てられた。痛いと思った。爪が肌に食い込んでくる。肉を裂くような痛覚に耐えながら、彼女を注視した。彼女は唇を吊り上げて、ぼくに不自然に柔らかい微笑を返した。

「千尋君、興奮してた。ワタシを突き飛ばして、気分が高揚してた。ワタシを犯したいって、思ってた。違う?」

「ば、バカ言うなッ。思ってない、そんなこと。思ってない……それに、寧を犯すだなんて……」

「君は多分、心に獣を飼ってる。獰悪な獣……ワタシには分かるんだよ? 千尋君は何か、いけないことをしてる。社会通念に反する行為……だから、殴らせてあげる。それで、千尋君の気が休まるなら……」

 なにを。

 なにを言っている。

 この女は。

 殴らせる……?

 寧は見た目からは考えられないほど艶っぽく、むせ返るような色香を持って、ぼくに顔を近づけた。「ワタシのことが好きなら、殴っていいんだよ」

「や、やめろッ! 変なことを、言うなッ!」

「変なこと、じゃない。ワタシには分かる。千尋君の与える痛みが、愛に変わる。相手のことを死ぬほど好きなら、(あざ)ができる。相手のことを深く愛しているなら、傷ができる。それが、愛の証になる。傷つき、傷つけた分だけ、二人の仲は濃いものになる……許されてるよ。好きなだけ、ぶつけていいよ。君の不安や鬱憤、全部、ワタシが受け止めるから……」

 寧はとろんとした表情をしている。

 荒風寧は狂っていた。

 予想に反して、見た目に反して、狂逸な妄執を抱えていた。

 イカレてる。

 でも、かくいうぼくも、十分イカレてることには違いない。

 ぼくは寧の頬をひっぱたいた。ひっぱたいて、倒れ付す寧に手を差し出した。差し出された手を、寧は弱々しく握った。満足したかい、と思った。寧は気持ち悪い笑みを浮かべていた。しかし、家を出る頃には、すっかり凛としたたたずまいを取り戻していた。そのギャップがイカレてるとは思ったが、言わないことにした。

 左右には田畑が広がっている。ぼくと寧はつかず離れずの距離で歩いていた。

 その途でぼくは、遠くなっていく我が家を振り返った。

 静絵……。

 二階の部屋の明かりはついていない。まだ起きていないみたいだった。

 よかったと思う。ぼくは運がいい。禍事を免れた。緑葉静絵は静穏な眠りにまどろんでいる。そのまま安らかに眠るんだよ、静絵。

 視線を横に向ける。

 一輪の花が咲いている。瑞々(みずみず)しく濡れた花弁と清艶なつぼみ。妖花。こんな人がぼくの彼女なんだぜ。イカレてるだろ。不釣合い感半端ねぇー。こんな美人に告白したぼくの勇気っ。褒めてほしいね。でも、この感情は恋情ではなく、一種の憧憬。博物館に飾られた絵画。匠の描いた絵なんだ。それくらいのこと。テレビ画面の女優に恋愛感情を持つ奴がいるかよ。まぁ、少しくらいいるかもしれないけど、それよりもまず、住んでいる世界が違う、と思うんじゃないかな。手の届かない位置にいる。でも、なぜか、ぼくの場合、届いた。腕が伸びたんだろうね。びよーんって。捕まえちゃったんだ。

 お互い、何も言わずに歩いた。

 学校も近い。

 数人の生徒がこっちを指差したり、驚いたりしている。人の群れ。ぼくたちはそれらを無視して、正門に向かった。

 と。

「おっはよーッ! 元気ですかぁー! 緑葉君元気ですかぁー! そんなつまらなさそうな顔したらダメですよぉー! せっかく恋人同士になったんだから、もっとニコニコしないとっ! ちなみにっ。わたしは元気ですっ! もうバリバリっ! バリバリバリっ!」

 佐島月子はいっぱしに敬礼なんかしていやがる。隣には藤宮詠太郎。ぼーっとたゆたう蝶々を目で追っている。

 ぼくは天衣無縫な佐島に殺意のようなものを覚えた。「おい、藤宮。相方のほうがうるせぇーんだけどっ」

「うるさくなんかありませーんっ。元気いっぱいなだけでーすっ!」

「それを世間一般ではうるさいって言うんだ」 

「こんにちわーっ! 荒風さん、元気ですかー!」

「おれの話を聞けよ」

「ええ、元気ですよ」と荒風寧、静かに微笑んでいる。

「よかったねッ!」

 珍奇な会話。

 常識が通用しない。

 二組のカップルが行く。しゃべるのは主に佐島月子。応じるのは主に荒風寧。「ええ」とか「そうですね」などと相槌を打っている。一方の男性陣はその後ろを主従のようについていくだけ。鼓膜が破れているのか、ぼくの声に応答しない藤宮。

 教室のほうまで着くと、「またねー」と佐島・藤宮カップルと別れた。うるさい。そして、荒風寧とも別れる。彼女はぼくに意味ありげな目まぜを寄こして、去っていった。なんだろう。でも、そんなことをしたら周囲が誤解するかもしれないよ。そう心の中で思ったが、早くも周囲(男子)からの嫉視がひどくなっていることに気付く。

 ぼくはまっすぐ自分の席に着いた。ぐてーっとなる。朝から大騒動。どうしてこうなった。……あぁ、ぼくのつまらない嘘からだった。早く解消しないと、どんどん波及しそうだ。現にぼくと寧との交際は衆目一致するところに至っている。それもそうだよ。みんなのいる前で告白したんだから。

 ぼくは頭を抱えた。……なんて幸せすぎる悩み。加えて、邪悪だ。彼女は度し難い暗黒を内在させている。まるでキチガイみたいだぜ。あの女、痛みを愛と勘違いしていやがるんだ……。見てくれは綺麗なのに、中身はキチガイ。食虫植物を連想させる。

 疑問を抱いていた。寧との交際。このままでいいのか、どうか。というか、寧の本性を垣間見た気がして、怖かったんだ、ほんと。

 いっそ、彼女に嘘を明かそうか。「ごめーん、あのときの告白は単なる冗談なんだよねー。許して」とか言うのか? それはそれで男連中に不敬罪で惨殺されそうだ。かといって、寧と交わりを持つのは不純と言える。静絵の耳に届くところとなれば、ぼくは首を吊らなければならない。ぼくは静絵だけを大切にすると確言したのだから。

 嘘から出た真。

 そもそも、寧はぼくのことを好いているのか? それこそ性質(たち)の悪い繰り言に聞こえる。そう少しましな冗談をつけよ、と思う。でも、あの様子だと、あながち……っておいおい、どれだけクルクルパーな奴なんだ、ぼくは。荒風寧は想像以上に(たが)の外れた瘋癲(ふうてん)だというのに。

 少なくとも、あれは愛ではない。

 妄念の一種。

「ったく、とてつもない大穴が開いちまったぜ!」自宅から全力疾走したらしく、蛾々島杏奈は肩で息をしていた。「緑葉ッ! 現在の時刻を教えろっ!」 

「八時三十七分」

「あと三分か……さすが飛行速度に定評あるレッドワイバーンだぜ。十二秒っ。驚異的なスピードッ!」

 蛾々島は自分の机にカバンを置いて、どかっとイスに腰掛けた。隣の席。彼女は薄ら笑いを浮かべている。ぼくは言った。「遅刻すれすれだったな」

「しかたねーだろッ! オレもよもや、鎮圧にこれだけかかるとは思わなかったさ。地下実験室に魔界へと続く大穴が開いたときには、き、肝を冷やしたぜ。危うくアークデーモンの軍団が大挙して押し寄せるところだったんだからよぉー」

「それは大変だったんだなー」

「想像を絶するってのはこのことを言うんだろうな。オレは次期魔王候補だからな、おおかた別の魔王候補の仕向けた刺客に違いねぇ。汚いまねをしやがる……だが、ここで“魔風幻影波”が炸裂ッ! カカ、身の程を知りやがれッ、下級悪魔がッ!」

「蛾々島」ぼくは恐る恐る、教卓のほうを指差した。「先生来てるぞ」

 

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