第二十二話 兄(13)
「ただいま」といって家に帰ると、居間には母がいた。気だるそうな表情をしている。居間にはテレビがついているのだけど、見向きもせず、疲れたように虚空を見つめている。
母は緩慢な風にぼくを瞥見して、「あら」といった。「おかえりなさい」
「ただいま」
ぼくはなんとなく、母の気鬱が読めた。
きっと。
きっと――。
妹の就職先が見つからなかったのだろう。母は気の毒なぐらい狂奔していた。娘のために身を粉にして職を探し回っていた。でも、なかった。簡単なことじゃない。引きこもりに用意される仕事なんて、そうそうない。
分かりきっていた。
そんなこと。
でも。
つらい。
座る。丸型のテーブルがある。ぼくは適当なところにかばんを置いて、母同様テーブルに頬杖をつくんだ。
沈黙。
テレビの雑音。
母は。
気づいているのかな。ぼくと、静絵との関係。どうなのだろう。勘付いているのだろうか。母や父の前では普段と同じように振舞っていたつもりだけど……親だから、分かるのかも。
静絵はここ最近になって元気を取り戻している。母の話では一人でコンビニに行ったと聞く。すごいことだ。これまでの静絵では考えられない行為。静絵は家族のサポートがなければ、外出もままならない。それを鑑みたら、成長してるってことなんじゃないのかな。静絵は強くなっている。確実に。いまだ脆弱さはあるが、それでも――その小さな一歩が嬉しいんだ。兄として。恋人として。
偉業だよ、偉業。
「千尋」
思索にふけっていると、後ろからぼくの名前が聞こえた。
静絵だった。
服を着ている……当たり前だけど、服は服でも明らかに外出用と分かる、それ。黒のワンピースとスタイリッシュなジーンズ。こうしてみると、静絵の体型はすらりとしていて、無駄な贅肉がないように思われた。金塊をやすりで削ってできた彫刻みたいなんだ。研ぎ澄まされている。なのに、見事なししおき……下世話な話、彼女の体を抱くと、弾力のある肉と通っている血の暖かさが、じんわりとぼくの体にしみこんでくるんだぜ。
「外出かい」
「うん……」
静絵はうつむいている。歯がゆそうに片方の耳を掻くんだ。表情は前髪に隠れて見えない。でも、静絵が頬を赤くしているのが分かるんだ。うつむいて耳を掻くのは、静絵の癖で、そのときの静絵は決まって、面を紅に潮するんだ。
三日くらい前かな。自立しようと決起した静絵は、昼頃に単身、コンビニに行ったんだ。初陣さ。その話を静絵から聞いたとき、素直に感心したね。ぼくは思わず、静絵の頭をなでたんだ。よくやったねって。すると静絵の奴、気恥ずかしげに顔を朱に染めるんだよ。かわいいんだ、本当に。ついほほえましい気持ちになるんだぜ。それで、気づくんだ。ぼくは静絵のことが好きなんだなぁって。
けれど。
その後の静絵は悲しそうに目を伏せて、さめざめとすすり泣くんだ。華奢な体を押し付けてくる。初めは困惑したさ。でも、こういうときは優しく抱きしめるのが男の務め、なんてよく言うじゃないか。ぼくはガラス細工を扱うみたいに、なるだけ丁寧に触れたんだ。背中に手を回す。内にある彼女の体温。分かってるんだ。抱きしめている彼女が血のつながった妹ってことくらいはさ。でも、ぼくはついつい変な心持ちになったんだ。許してくれよ、男の習性なんだから。
静絵は哀調に事の顛末を語るんだ。目を湿っぽくして、ね。静絵はコンビニの店員さんに怒られたみたいなんだ。
ぼくは身につまされるような感じになる。ぼくはもう、静絵の温度を感じることしかできない。頑張ったね、くらいしか言えない。そこで、ぼくは弱い存在だってことを忸怩とした思いで自覚する。
幸せと不幸せ。
コインの表裏。
幸せが表に当たり、不幸せが裏に当たる。
もし人生の禍福がコインみたいに単純に説明できるもので、表裏一体だとしたら、ぼくは怖いな。コイントスなんてできないよ。保留する。幸せでも不幸せでもない状態を維持しようとする。曖昧が好きなんだ。ぼくは。
だから、弱いのか。決定しようとせず、選択しようとせず、決断に猶予を持たせようとする。それが優柔不断の原因なのかもしれない。ぼくの弱さの根源なのかもしれない。
どうしようもないんだ。
弱い部分は誰にでもある。
弱くない人間なんていない。
強くない人間もいない。
ほどほどに弱く、ほどほどに強い。
均衡があるんだ。一方的に天秤が傾くことはない。
ぼくは静絵を守れるくらいの強さがあれば、それで十分だよ。
さて。
静絵を蝕んでいるものは孤独なのかもしれない。人と触れることを忘れ、接することを恐れ、外界に恐怖を抱いている。ついさっきまで、静絵の世界は狭い一室にすぎなかった。閉ざされている。遮るものは一枚の壁と扉程度であるが、心的には絶大な懸隔があるんじゃないかな。
だから、静絵はまず、人との清い付き合いを学ぶのが吉なのかもしれない。人は他者と交際することで成長する。だとしたら、静絵はいまだ雛のまま、ってことになるんじゃないかな。巣の中の雛。ぼくは彼女を解き放ってあげたい。なにも、世界はぼくだけしかいない、とは思って欲しくないんだ。ぼく以外にも、人はたくさんいるし、中には静絵のことを大切にしてくれる人もいるだろう。……そりゃ、静絵を独占できないのはつらいさ。でも……独占欲は愛じゃない。妄執の一種なんだよ。
世界は広がっている。眼をつむる必要はない。少しずつでいいんだ。ぼくが後ろで支えるからさ。静絵のペースで少しずつ、少しずつ……。
「いってらっしゃい」
「いって、くるよ」
静絵は微笑んで、颯爽と玄関へと向かった。敢然と敵に立ち向かうような顔。凛々しいその横顔に、普段の静絵とは違ったものを見る。
母と目が合った。
母は笑っている。
ぼくも嬉しくなって、笑う。
よくなってる。
これが自立の足がかりになって欲しい。
ぼくは安らかな気持ちでテーブルに突っ伏した。
◆◆◆
朝だ。
嫌だ嫌だ。
起きると、決まって悄々となる。ちょっとだるいんだ。誰も一度くらいはあるだろう。窓から注がれる朝日、峨々と連なる峰、鳥のさえずり……死にたくなる。学校なんていいから、ぼくはもっと寝たいんだ。この睡魔をどうにかしてくれよ。
静絵。
寝ている。
ぼくの布団で。
昨日、「いっしょに寝ていいかな」といって、枕を胸に抱えて布団にもぐりこんできた。
拒絶はしなかった。
静絵は胎児のように丸くなっている。放物線状に広がる髪。ぼくは彼女の柔らかい頬をなでた。
制服に着替えたぼくは、机の上に放置しておいた携帯電話をポケットにぶちこんだ。どうせあってもなくても変わらないんだけど、なんだろう、目についたからさ。ぼくの携帯は基本、電源を切っても生活には困らない。それがどういう意味かは……推して知るべし、だよ。
居間にはすでに母が配膳の準備をしているところだった。
椅子には新聞を広げた父が座っている。
いつもどおりの光景。
飯を炊いている母。
新聞を読んでいる父。
実妹と寝たぼく。
そんなありふれた家族の、ありふれた食事風景。
その数分後に、緑葉家の食事が始まる。
静絵はいない。
まだ寝ているのだろう。
朝ごはんはご飯に味噌汁、冷奴と簡素なもの。パクパク食べるよ。
と。
ピンポーン。
気の抜ける音。
「あらら、誰かしら……」
首を傾げつつも、玄関へと向かう母。懐疑。
しかし、その後おかしな歓声が上がる。母の声だ。
どうしたんだろ。
「ふふふ」と帰ってきた母は笑みをのぞかせて、ぼくのほうを見た。「千尋も隅に置けないわねぇ」
椀と箸をおいて、母の妙な態度を問うた。「なにがさ」
「ま、玄関に行ってみなさい」
釈然としないものを感じつつも、母の言うとおりにした。
すると。
「こんにちわ」
いた。
女の子だ。
荒風寧。
まるで風の妖精のように。降臨した女神のように。
そよそよと黒髪が揺れている。
「……荒風、さん?」
「寧、って呼んで」
「……寧、ちゃん」
「ちゃんづけは、いや」
「……寧」
「よろしい」
荒風寧はいたずらっぽく笑っていた。
カバンを握る手首は、強く握ったら折れてしまうんじゃないかって思うほど華奢にできていて、胴回りは細くしなやか。首の上には綺麗な顔が乗っているんだ。間然するところなく配置された目、鼻、口……。
人の理解を超えた造形美。
ぼくは震える体を御すことに腐心しながら、「なにしに、ここまで」といたって無意味な質問をした。
「なにって……決まっているじゃないですか。お迎えにきたんです」寧はそう答えた。