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プシュケの心臓  作者: 密室天使
第2章 とりあえず生きてみた
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第十九話 兄(10)

 

 ま、結局、こんな世界だし。

 


   ◆◆◆




「鳥になりたい」

 開口一番、蛾々島杏奈(ががしまあんな)は憂うような口調でそんな妄言をはいた。

 五月。

 路傍には楚々と牡丹(ぼたん)の花がそよいでいる。濃い(かや)のにおいがするんだ。遠くを見てみればなるほど、真新しい入母屋造りの家がいくつかあった。

「なれないよ」

「それはやってみなくちゃ分からないだろ」蛾々島はむきになったように返答した。

 蛾々島の無軌道ぶりには慣れているので、「やんぬるかな」とただ一言だけ言って、黙った。蛾々島に理論は通用しない。だから、鳥になりたいなんてバカですかな、とは思っても、口にしないことに決めてるんだ。

「あぁ……翼が欲しい。空を自由に羽ばたける翼が欲しい……この胸のざわめき……夢で見た天女はオレに何かをささやいている……たおやかな羽衣を着た天女……これはきっと、俗世を離れ、隠遁し、瀑布に打たれて仙道を極めよとの天啓に違いない。天意だ。これは天意なのだ……」

「おれの親戚に著名な精神科医がいるんだけどさ」とぼくは蛾々島のほうを見ずに言った。「一度紹介してやろうか」

「……んだよ、オレの頭がおかしいってことか? そんなひどいことを言うなんてよー、見損なったぜ、緑場よぉー」

「おまえは自分を見失ってるんだ」ため息混じりに言う。ぼくは本当におまえの頭を心配してるんだ。いや、本当本当。嘘じゃない。

「おいおい、オレは正気だぜ。オレは自分を見失うほどやわな精神してねぇーんだ」

「むしろ正気で、鳥になりたい、とか言うほうが怖いね」

「なんだ、おまえはなりたくねぇのか?」蛾々島は無防備に顔を寄せてきた。綺麗な顔。「鳥によぉー」

「おれはどちらかというと猫のほうがいいな。ほら、見てみろよ、あの猫」とぼくは道の脇を指差した。「のんきに日向ぼっこときた。おれたちはこれから学校って言うのにさ、ちょっとうらやましいなと思うんだ、おれは」

「あぁ、分かるぜ……その心境。オレは珍しくもおまえに“共感”って奴を覚えたぜ。そうだな、猫も悪くねぇ……鳥も捨てがたいが」

 蛾々島は鳥になるか猫になるかについて迷っていた。うーんと唸っている。……おいおい、と突っ込むべきか? 判断に迷う。そんなことしたら、与太話がさらに長引きそうだ。

 畑道を歩いている。

 よく、蛾々島と一緒になるんだ。登校時間がかぶっているらしい。家を出てしばらくすると、示し合わせたかのように蛾々島と出くわす。逢着。そのまま蛾々島と田畑と畦の道を歩くんだ。二十分くらい歩くだろうか。校舎は周囲を山と海に囲まれたところにある。ひなびた村落であるが、どうにかこうにか生徒数を保っている。帰属意識が高いというか、あまり村から出たがる村民が少ないからだろうか、過疎化著しいとは聞かない。石倉市には三百人程度の学徒がいる。

 徐々に生徒の数が多くなってきた。はるか前方には屹とそびえる正門があった。

「蛾々島」

「ん。……ついたみたいだな」

「考えはまとまったのか?」

「あぁ……オレはやっぱ、魔王のままのほうがいいんじゃないかって思うんだが、おまえはどう思う?」

「……魔王様が鳥や猫なんかの動物に落ちる必要はない……と思うぜ」

「そうだよな」蛾々島はぱーっと笑顔になった。「そうだよな。せっかくオレ様は魔王だってのに、わざわざ畜生に成り下がろうとするなんざよ、オレもやきが回ったようだぜ」

 空想製造機の蛾々島杏奈、今日も平常運転を崩さない。

 頭が痛いけど、これはこれでいいように思う。いつも通りの毎日に戻れたような気がした。蛾々島との埒もない会話がぼくに寧日の安らぎを抱かせる。この安息はおそらく、朝の奇異な一事に起因する。何せ、ぼくはついさっきまで、実の妹と抱き合っていたのだから。




 ぼくは“罪”という単語を辞書で調べてみることにした。


【罪】

1.道徳・宗教・法律などでしてはならない行い。悪い行い。

2.悪い行いや悪い結果に対する結果・刑罰。

3.思いやりがない様子。無慈悲な様子(形動)。


 教室は話し声や雑音に満たされている。営為と騒乱と煩累の渦。人の織り成す波……。

 そんな教室の中で、ぼくはただ一人、孤独の極にあった。

 周囲とは相容れない。

 ぼくは漠然としたもやもやを抱えて、机にもたれているんだ。

 罪。 

 ぼくは罪を犯している。度し難い過ち、姦通……ぼくは血続きの近親と恋愛関係のようなものを形成しつつあった。いけないことだ。常軌を逸している。ぼくの行動は人倫にもとっていた。

 分かってる。

 分かってるんだ、そんなこと。ぼくもそこまでバカじゃないし、血縁関係の女を手篭めにするほど愛欲に飢えてるわけでもない。違うんだ。問題はもっと、複雑で奇怪で、イカレてるんだ。常人の理で理解できる領域じゃない。これは本能とか禁忌とか、そういった忌むべき理の作用する領域なのだ。

 肌がいまだ、生暖かい女の熱を覚えている。

 緑葉静絵の柔らかい肉の感触。

 華奢な体からは想像もできないほど豊満なししおき。彼女の肌はうっすらと血管が見えるほど白く、透明で、滑らかな質感。雪肌。軽くさすると、くすぐったそうに笑って、ぼくに体を押しつけてくる。髪は烏の濡れ羽色といった風で、一本一本に艶がある。目は悩ましげに伏せられており、紅色の唇は切なげな吐息を漏らしている。

「千尋」

 彼女がぼくの名前を口にすると、全身の血が滾ったように熱くなるのを感じた。鳥肌が立っているのが分かった。それは実妹と触れ合う後ろめたさに対するものではなく、単純に女の体に触れている、という興奮からであった。ぼくの体は、本能は、確かに緑葉静絵を一介の女として認めている……その恐るべき事実! イカレたのかと思った。ひょっとしたら自分は、理性を司るどこかのねじが取れたのかもしれない……だがしかし、そういった正常な思考すらも、彼女の血肉に取り込まれてしまう。

 彼女はうっとりとしている。

 恍惚。

 ぼくの服の裾を強くつかみ、やがて背中に手を回してきた。

 一階には母親がいるというのに、ぼくと静絵は二階の室の中で互いの体を温めあっていたんだ。  

 兄妹なのに。

 兄妹なのに。

 静絵の右手首には、刃物で切ったような跡があった。

 どうしたの、とまるで好きな女に語りかけるような、自分でもぞっとするくらい甘い声が口から飛び出していた。

 静絵は悲しげな表情をしたまま、何も答えなかった。寡言な彼女の頬は青白かった。

 その傷跡が、単なる切り傷でないことは明白であった。それはさながら、自らナイフでえぐったかのように深く、鋭い。死神の鎌。縄目の跡にも見える。

 ぼくは彼女の手をとって、手首の傷を舐めた。

 静絵はあ、あ……声にもならない悲鳴を上げた。

 唾液の滴る音が響いた。

 体の芯から熱湯が押し寄せてくる。圧倒的甘美。トチ狂っている、と思ったがしかし、体は言うことを聞かない。静絵はぼくの頭に手を置いて、歯を食いしばっていた。

 舌が染み出た血をすくった。ぼくはそれを音を出してすすった。

「いや……」

 よがる静絵。

 舌を動かすぼく。

 体内に取り込まれた静絵の血はその実、ぼくの体にも流れている。起源を同じくする静絵の血とぼくの血が渾然と混じり合い、絡み合い、やがて一つになる。母胎の人を共有し、この世に呱々(ここ)の声を上げた隣人。隣人たちは手と手を取り合い、片やよがり、片やすすっている。色欲、禁じられた性の渇き……陶然とまどろむ理知。止めることはできない。交錯する愛情と劣情。ぼくたちはその身に宿した想いを、拙劣な風でしか表現できないのか……。

 あぁ……いっそぼくたちが理性ある人間ではなく、理性なき鳥や猫であったなら……もう少しましな人生が待っていたかもしれないというのに。

 先生が来た。

 思索を打ち切る。

 ぼくは漠とした意識の中、つまらないホームルームを受けた。



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