第二話 兄(2)
幼い頃ぼくと妹はわりと仲がよかった。幼稚園、小学校が終われば二人で近所の公園に遊びに行ったし、手を繋いで買い物に行ったこともあるし、小学校低学年の時までは一緒にお風呂にも入っていた。仲睦まじい兄妹だった。
けれど。
「なんでこうなったんだろ」
ぼくはリビングのソファーでため息をついていた。
妹は。
静絵は。
不登校になっていた。原因はまぁ、なんだ。いじめって奴だ。典型的過ぎて笑える。でも、本人にとっては重大なことで、度重なる嫌がらせが妹の心と体を確実にむしばんでいったのだ。
不登校は中学校の頃からだった。妹は小学校の時分からいじめを受けていたらしく、ぼくがそのことに気付いたのはいじめが発生してすでに半年ほどたったときだった。ぼくは小学校の先生に談判したり、妹の友達からいじめについて聞き出したりした。両親もいじめ解明に乗り出し、事態は一応の収束を得た。多分いじめもなくなった。
でも。
すでに妹の心身はダメになっていた。ずたぼろ。高等学校にも在籍していない。外出なんて月に一回あるか、ないか。それも母親を連れ添わなければコンビニにもいけないくらい。重症なんだ、ぼくの妹は。
雨は降り止まない。それはぼくの心象風景を表しているように思えた。
……帰るか。
ぼくは自室へと続く階段へ向かった。
一段ずつ上がっていく。
ぼくはぼんやりとしていた。それがいけなかったのか、眼前の障害物に気付けなかった。一生の不覚。でも遅かった。
「あ」
「きゃ」
やけにかわいい悲鳴がしたと思ったら、ぼくは何かを巻き込んで前のめりに転倒していた。何かに躓いたらしい。こんなときでも脳は状況の分析を怠らない。周囲の光景がスローモーションになっていく。
かろうじて両手両足をついた。四つん這いの姿勢。ぼくは無意識的に閉じていたまぶたを開けた。
目の前には。
目の前には――。
妹がいた。
意志の強そうな瞳。形のよい鼻。つぼみのように可憐な朱唇。その手の匠がこしらえた彫刻みたいだ、と思った。
ぼくは妹を押し倒していた。
この構図は……。
妹は目に見えて真っ赤になった。小動物のように体を縮こまらせ、ぼくを凝視している。
「だっ、大丈夫か? 怪我は……?」
そんな言葉が口から飛び出した。
静絵は。
心ここにあらず、といった風だった。ただ視線が下がっている。今度は逆に、顔が青ざめていた。
不思議に思って視線を下げてみると、ぼくの足が妹の足と足とに挟まっているのが分かった。妹はスカートをはいていて、裾が少しめくれていた。ぼくはかぁーっと体の芯が熱くなった。
「ち、違う」と慌てて否定しようとしたが、すでに手遅れだった。事態は常にぼくの一歩先をいく。ぼくは現実に翻弄されるばっかりなんだ。
「この、変態ッ!」
ぼくは妹に強烈なビンタをされた。ひりひりと痛む頬を押さえていると、がらあきの腹に拳を入れられる。コンボ攻撃かよ、とぼくは薄れゆく意識の中で悪態をつく。妹は脱兎のように自分の部屋へと戻っていった。
「くっ、クソガキがッ……!」
廊下でのた打ち回りながらも、言葉とは裏腹に妹に怪我がないらしいことに安堵している自分がいた。
ぼくは日記をつけている。内容は雑多な日常を書き綴っただけの味気ない奴だ。と言うのも、つれづれなるままに、日暮し、硯に向かひて心にうつりゆくよしなし事を、ってやつさ。誰にでも覚えはあるだろ。ふと気付いたこと、日ごろの所懐、苦悩、そういった感情を言葉にしたくなる気持ち。意味なんてない。でも、日記というものは案外書いてて楽しいもんだ。意味なんて数十年後、日記を見直したときに分かるだろう。
今日も代わり映えのしない一日だった。せっかくの日曜日だと言うのに調子に乗って昼まで寝て、ずっと本を読んで、変な奴から電話が来て、妹に無視され、罵倒され、ビンタされ……と散々だった。
たいしたことのない小事、些事を叙述したぼくは、日記を閉じた。かれこれ日記をつけて五年になるだろうか。ちょうど中学生になったときと重なる。きっとその時から変化する環境や、家族へと接し方なんかに苦労していたのだろう。周りには相談できる相手もいず、ぼくはその代替として日記を選んだ。ただそれだけのことなんじゃないのかな。
それでも、これまでにつけた日記を前に、「これがぼくの人生の集大成だ」と息巻くのも楽しい。思想、雑感、価値観。ぼくの全てがここに詰まっていて、数年後、数十年後のぼくはこれをみて、いったいどんなことを感じるのかな。そう思うと、自然と筆も進むものだ。
後三時間もすれば明日が来る。明日は月曜日。学校が始まる。明日も今日みたいに変化のない一日なのかな。分からない。でも、生まれてこの方、似たような日々を送っている。だから、明日も似たような一日が来るだろう。そして、人によっては早く明日が来ますように、と祈っている人もいる。反対に明日が来ないように、と祈っている人もいる。千差万別。地球は様々な人の思いを背負って自転を続けているのだ。
ぼくはさっさと寝ることにした。布団を敷き延べて、ゆるりと横臥する。そして、うわぁ、今日の睡眠時間、何時間になるんだろ、とか思った。