第十八話 妹(6)
私室から出て、階下に降りた。
居間にはテレビを見ている母がいた。
わたしの姿を見た母は、少し驚いたようだった。「あら」と口元に手を当てて、パチパチとまばたきを繰り返している。
「お母さん」わたしは気恥ずかしいものを感じながらも、「どうかな」といった。
「き、綺麗よ」母はひどく嬉しそうな顔をした。「綺麗よ。すごく綺麗。似合っているわ」
「そう……」
母は立ち上がった。少し興奮している。「どうしたの、静絵ちゃん。着飾っちゃって」
「外に」わたしはこんなことをいっていいんだろうか、と思った。いって後悔するかもしれない。「行きたい」でも、認められたい。初めはダメかもしれないけど、少しずつ、少しずつ、進めばいいんだ。「お金、貸して」
「まぁ……」
母は手を震わせている。
その後、いそいそと財布の中に手を入れた。「持っていきなさい」
「こんなにいらない」
渡されたのは、一万円札が三枚だった。
「いいから」母はむりやり万札を握らせた。「いいから、持っていきなさい」
「でも」
母の目には涙が溜まっている。「いいから」
「……うん」
わたしは何も言わず、お金を受け取った。母の手は深いしわが刻まれていて、優しく、暖かかった。
「静絵ちゃん」
居間から出ようとすると、背中越しに母が声をかけてきた。
止まる。
「いってらっしゃい」
「……いって、きます」
日差しがまぶしいんだ。
まるで自分の醜い部分が克明に照らされているように感じる。
道行く人は概ね、農家の人だった。麦藁帽子を被り、長靴をはいている。わたしは目を合わせないように通り過ぎた。通り過ぎると、バクバクと脈打つ心臓が少し落ち着いた。それでも脈動は継続している。
石倉市は萬丈の山に囲まれた僻地だった。第一次産業を業種とする人が多い。つまり老人が多いから、わたしの格好は微妙に浮いている。それに今は昼間なので、学生であろう若者が昼間にうろつくのは奇異なことだと思う。さっきの人も、胡乱な目でわたしを見ていたに違いない。
外に出るのは久しぶりだった。一年ぶりくらい。前はリハビリとして夜中に町を散策したりもしたけど、飽きて止めた。どうでもいいと投げ出して、年中部屋の中にいたんだ。
お昼時だからか、通行人は少ない。人通りが僅少なことに安心を覚える。人がいないと、精神が安定する。でも、心のどこかで人の温もりを求めている。人を遠ざけたいのか、人を疎んじたいのか、自分でも分からない。分からないから、怖い。本当の自分はいったい何を希求しているのだろう。
畑道をしばらく進むと、希少なコンビニエンスストアが見える。僻村に数少ないチェーン店舗。
わたしは汗をかいている。暑さからではない。針のむしろに座らされた思い。熱を帯びた血液が激しく体中を巡っている。まるで日射病みたいだ。くらくらする。
そのくらくらを押さえ、店内に入った。
「いらっしゃいませ」
年配らしい声がする。わたしはそれを無視して、足早に店員から離れた。声をかけないでください、と切に思う。それと、あなたが嫌いなわけでもありません、と心中で何度も謝った。わたしは身勝手な罪悪感に囚われた。
わたしはポケットの中で握り締めていた万札を、おずおずと取り出した。
何を買おうかな。
棚には食品や日常雑貨が置かれてある。どれも魅力的に映る。久方ぶりに出歩いた興奮も手伝ってか、手元にあるお金が魔法の道具のように思えた。なんでもできる、と言う錯覚。
わたしは菓子パンを手に取った。
安い。
記されている値段は、所持している金額からすれば、桁違いに安く感じる。わたしは軽いショックを覚えた。なんだこれは。安すぎるって。
この一驚を、千尋に伝えたい。
わたしの感じたこと、驚いたことを、彼も同様に感じてくれたら、すごく嬉しいだろうな、と思った。共感してくれたら、きっとわたしの心は安らかになるだろう。
うきうきしていた。これから起こるであろう幸せが、早くも予測できた。
チョコレートが好き。パン生地とチョコレートが絶妙に合している。これしかない、とわたしは気負いこんだ。まるで稚気溢れる子供のように、わたしは新鮮な喜びに包まれていた。これまで鬱々と家居していたことが嘘のように感じられた。わたしって意外に明るい……?
「これ、ください」
それでも、店員と目を合わさないようにした。胸中にはいまだ、人に対する恐怖があった。この子供っぽい高揚も、裏を返せば他者に対するおびえ、おののき、おそれが内在している。わたしのそれは小動物のように神経質で、気が小さく、やや病的でもあった。
「百二十円になります」
無言で一万円を出した。
店員はどこか胡散臭そうに札を領収した……ような気がした。そう思うだけで身のすくむような不安が湧いた。わたしはこの人にどう見られているのだろう、おかしい奴と思われているのかな、どうなのかな。わたし、怖いよ。
わたしは膨大な釣り銭を受け取った。多い。
「君」
と。
「君は学生だろう。学校には行かないのか」
「あっ、え……」
「半日と言うわけでもないのだろう。……サボりかね」
「い、そ、の……」
「どうせ親のすねをかじっているだけなのだろう。きちんと学校に行ってはどうだね」
「あうぅ……ち、が」
「この金も、親のものだろう……違うかッ!」
やめてください。やめてください。やめてください。そんなに怒らないでください。わたしをいじめないでください。
わたしはかちかちと歯の根を鳴らして、この場から逃げた。心臓が急激に収縮している。手足の感触がない。
後ろから男の人の怒声が聞こえる。
「聞こえない。聞こえない。聞こえない」
わたしは自己に暗示をかけるように呟いた。そうすることで平静を保とうとする……。
そうなんです。
そのお金はお母さんのものです。
わたしはいけない子なんです。
怒らないでください。
転んだ。
足を捻ったらしく、うまく立ち上がれない。
周囲には畑を耕作している人が何人かいた。その人たちはわたしには気づかず、農作物の土寄せをしている。
誰も気づかない。
誰も助けてくれない。
孤独。
「うわぁああぁぁ……」
わたしは石につまづきながらも、泣きながら道々を走っていった。