第十七話 妹(5)
千尋が学校に行くと、とても寂しくなる。
わたしは自室の窓から、歩を進める千尋を見送るんだ。学生服を着た千尋。左右には田がある。千尋はポケットに手を突っ込んで、何気なく歩いている。
間遠い。
離れている。
わたしの行動範囲から、千尋が外れていくんだ。
千尋は学校に通っている。
わたしは学校に通っていない。
前者には未来があり、後者には未来がない。
後者には未来がなく、前者には未来がある。
この差を感じたとき、焦心に駆られる自分がいた。胸が苦しくなる。この差は何? 兄と妹でこんなにも違う。
わたしをこの世に留め、紐帯するものは兄と父と母との関係しかない。家族とのつながり。それくらいしかない。
わたしは机に隠しておいたペーパーナイフを取り出した。
手首に当てる。
わたしはゆっくりとスライドさせた。鋭利な刃。肌に突き刺さる。しとしとと赤い液体が滴り落ちた。
血は床に泉のように溜まっている。
血。
わたしと家族を結びつけるもの。
血液がわたしの存在を立証している。わたしの体を循環しているこの液が、ここにいていいんだよ、と語りかけてくるんだ。
すごく幸せ。
わたしはナイフを引き抜き、突っ立った。
すごく不幸。
恋慕が禁じられた背徳となる。あの人を想うこと自体が邪悪なのだろう。そのなのだろう。わたしは普通ではないのだろう。当たり前だろう。わたしは引きこもりの社会不適合者なのだろう。わたしは兄に恋する人格破綻者なのだろう。
わたしは今になって、普通であることを欲する。
普通、普通……とよく聞く。人は他者と同一であることに安心を覚える生き物なのかもしれない。あなたとは同じ価値観を共有していますよ、というサイン。共同体。わたしもその一員である、ということを暗に自分の言葉に忍ばせている……。
いくらか滑稽なこと、と認識していた。他者と迎合するその姿勢が卑小なものに映って見えた。おまえに自己というものはないのか、と嘲笑する。そしてわたしは、他人と交じり合わない純潔の自分を誇る。他者はあなたと同じであることに安堵を覚え、わたしはあなたとは違うということに自己同一性を覚える。
人はこの世に存在しているように見えても、人を介してでしか、見えない。少なくとも、認識はされない。人は誰かに認識されない限り、存在しないものとして定義される。
いくら他者から認識されずとも、わたしと言う存在はそれ以前に厳然としてそこにある、という意見は卓見ではない。愚見。それは真実にも似ていて、真実はいつも一つ、とは限らない。個々人の受け取り方によって変動する。埋もれてしまえば、隠されてしまえば、それは真実ではなく、事実ですらなく、何物でもなく、むしろ、なんであるのか……説明できる?
ナイフが戛然と音を立てて、落ちる。手から滑り落ちた。
わたしは泣いていた。
ベットに転がり込む。
わたしは枕に顔を押し付けて、湧き上がる倦怠感と退廃的な悦に満たされていく。
落下する快感。
わたしはナイフ。床に広がる血の沼に沈んでいくナイフと同じ。わたしはあなたと同じ。底なしの沼なんだ。わたしはナイフ同様、赤い深淵に身を横たえている。深いんだ。すごく深い。もしかしたらこれは、わたしの罪の深さなのかもしれない。
この苦しみと安息はある種、心身が浄化されていくような不思議に似ていた。朗らかでいて、清らかな心持ちなんだ、わたしは。
寝てしまえば、無に返る。
この気持ちも寝てしまえば、うやむやになる。以前からそうしてきた。いやなこと、つらいことがあったら、寝たらいいんだ。眠ってしまえば、解決する。忘却。頭から抜け落ちることを期待する。
淡いまどろみの海に沈没する。
考えないようにしよう。
考えない、考えない、考えない……。
わたしには彼がいてくれればいいんだ。
それでいいんだ。
◆◆◆
お昼になった。
午後一時。
五時間寝た。
貴重な時間を無駄にした、とは思わない自分が怖い。一般人にとって、五時間は貴重なものなんじゃないのかな。色々なことができる。でも、何もしなかった。睡眠に費やしてしまった。無意義。
わたしの人生はぼんやりと砂時計を眺めるのと似ている。
さらさらと落ちているんだ。砂が上から下へと落ちている。わたしはそれを、茫洋とした心地で眺めるんだ。有限であるはずの生を、活用すべき時を、無為にやり過ごす。無駄とも思わないのは、活用しようとしないからだ。この身に宿る生命を役立てようとしないからだ。ただ、座して時が経るのを待つ。
姿見の前に立つ。
寝ぼけ面のわたしがいる。泣きはらしたような顔。みっともない。
わたしは机の上のポーチから化粧道具を取り出した。
上塗りしようと思った。
口紅を塗り、白粉をはたき、アイシャドウを引いた。前に兄が、「このアイシャドウ、いいよな」といっていたのを思い出した。きっと、お世辞の類とは思うけど、以後、わたしはこのアイシャドウを愛用することにしている。単純なんだ、わたしは。
好きな人が好きって言ってくれたものを、使いたいんだ。
身づくろいをして、鏡の中の自分を見る。
セミロング、というんだろうか。黒のセミロングに黒のアイシャドウ。肌は白い。「静絵の顔は本当、お人形さんみたいだわ」と母が言っていた。どちらかというと、マネキンみたいだった。表情がない。欠如している。わたしの顔は笑うことを放棄し、楽しむことを自粛しているような、そんなつまらないものだった。
服装は線の細いインナーワンピースとスキニージーパン。ワンピースの色合いは墨を流したような黒。わたしは黒という色が好きなのだろうか。分からない。自分の嗜好すら疑問符。わたしは黒が好きなのか……? それくらいファッションに自信がないことの表れなのだろうか。知識で知ってはいても、外を歩いたことがないからだろうか。寂しい。