第十六話 妹(4)
社会は汚い。
嘘にまみれている。
わたしは汚い。
禁忌にまみれている。
現実は酷なだけ、むごい真実にあふれている。
耐えられない。
こんな弱いわたしに真実はいらない。必要なのは優しくて甘ったるい嘘だけ。
甘ったるい、あの人の嘘だけ。
◆◆◆
「千尋」
「ん」と千尋はペンを止めてわたしを見た。
二回の私室。
兄はわたしのテーブルを借りて勉強に励んでいる。その光景だけでも極めて珍しい。千尋はあまりわたしの部屋に出入りしない……というのも、わたしが千尋を露骨に無視したりして、関係が険悪なものになっていたからだった。けれど、わたしを受け入れるという選択をした千尋は、折を見てわたしの部屋を訪ねるようになった。嬉しい。わたしはにやける顔を必死に隠して、何食わぬ顔で千尋を招き入れるんだ。
「なんだよ」
わたしはベットに寝転びながら、「なにやってるの」とてすさびな風に質問した。わたしの片手には漫画が握られている。それで顔を隠した。その隙間から、千尋をガン見しているわたし……。今になって、千尋の顔を見るだけで胸がドキドキした。
「数学だよ」
「なに、二次関数?」と漫画をずらして千尋を覗き見る。
「中学生じゃないんだから」と千尋は柔和な表情をして、「おれがやってるのはベクトルだよ、ベクトル。数ⅡBの範囲」と応じた。
はぅ、とこのわけの分からない感情に翻弄されながらも、「それって難しいの」と尋ねた。学校に通っていないわたしに、ベクトルなどといわれても分からない。
「難しいさ。すっげー難しい。手間もかかる。これを考案した数学者に文句を言ってやりたいね」
「うん……」
漠たる静寂。
わたしはベットのシーツに身を沈めた。なんだろう……恥ずかしい。わたし、千尋と会話してるんだ……。
千尋と忌憚なく話していること、一緒の空気を吸っていること、千尋の目がわたしを見ていること、その全てに悶えそうになる。まるで小さい頃に戻ったみたいなんだ。漠然と兄のことが好きだった自分。憧憬と恋慕。そんな淡い感情を抱いていた幼少期――。
千尋はペンを走らせて、ノートに記号を連ねている。
ちゅーしたい。
手を伸ばせば、千尋の体に触れることのできる距離なんだ。それに、心の距離も……近く、なってるのかな。どうなのかな。千尋はどう思ってるのかな。わたしのことを、緑場静絵を――どう思っているのかな。
妹ではなく、一人の女性として、見てくれているのかな。
千尋は自然体を保っている。わたしと違って、緊張した様子はない。……そんな千尋が愛しくもあり、恨めしくもある。わたしはこんなにドキドキしているよ。心臓が高鳴ってるよ。あなたは、わたしの部屋にきてもどうも思わないのかな。だとしたら、悲しい。
段々と欲望が高まってくる。いつもと変わらない千尋を、犯したい。この手で、千尋を、汚したい。わたしと同じ感情を抱いてもらいたくて、わたしと同化してほしくて、そんな埒もない妄動をたくらむの、わたしは。
実行には移さない。
怖い。
千尋が離れていくのが怖い。
ずっとわたしのそばにいてほしい。
あぁ……イカレてる。わたしは、イカレてる。わたしは今、実の兄に悪しき感情を抱いている。そして、その人を手放したくないから、その虚妄を必死に押さえ込もうとしている……。
罪深い。
わたしは罪深い。
でも。
「こっち、向いて」
千尋は何気ない風にわたしを見た。
「あのね」
ちゅーしてほしい。
「肩に髪の毛ついてるよ」
わたしは手を伸ばして、千尋の肩をはたいた。
ちゅーしてほしい。
なんていえないよ。
「千尋ー、お風呂」
階下から母の声がする。
「今行く」と千尋は立ち上がった。「おれ、風呂入ってくるから」
「いってらっしゃい」
「……いってくるよ」千尋は少し面食らったように笑い、わたしの部屋から退出した。
静かになる。
わたしはベットの上で体操座りになり、膝に頭を押し付けた。
罪悪感がよぎった。
お母さんの声がしたとたん、言いようもない羞悪が脳髄を貫いた。千尋の肩に置いていた手。服越しではあるけど、千尋には触れている。そのことがなんだか、ひどく悪いことのように思えてくる。だから、わたしは慌てて、ベットの上で後退し、千尋から離れようと思ったんだ。
矛盾している。
緑葉静絵は名状しがたい自家撞着を抱えている。
行為に及んだことはない。好意こそあれ、行為に及んだことはなく、粘膜をこすり合わせたり、相手の口の中に舌をいれたりなんかしたことはない。前にトチ狂って千尋に迫ったことはあった。隙あらばやりたい、なんて心の底で思ってるかもしれない。わたしは千尋を蹂躙したい。
しかしながら、心地よいとも思っている。この変哲もない距離感に安逸を感じているわたしがいる。
距離感。
近づきたいのか、そのままがいいのか、離れたほうがいいのか。
近づきたいと思っていて、でも、離れている。
良心の呵責、といえばいいのだろうか。わずかに残っている倫理観が、わたしの行動を阻害する。こんなに好きなのに、愛してるのに、ためらってしまう。ま、当然だよね。兄妹だもん。
鬱々と沈み込むわたし。
一人しかいない。
千尋はお風呂に入っている。
一人。
一人……。
兄と和解し、わたしを大切にしてくれると誓ってくれてから数日が経った。
わたしに手を出すそぶりはない。
わたしはスカートを着ている。丈の短いやつ。それと、白っぽいカーディガン。わたしは家の中にいるというのに、おしゃれには結構気を遣ってるんだ。女らしくあるよう、心がけている。化粧も少しした。
それもこれも、千尋にわたしに女を感じて欲しいから。千尋がわたしに手を出しやすくするようにするため、ともいえるかもしれない。すっかり思考回路が変態チックになってる自分がいる。
そもそも、こういう考え方自体がおかしいと思わなくちゃいけない。相手は兄で、自分は妹。家族。家族なんだ。だから、千尋もそんなことは思わない。千尋はわたしを大切にするとは言ってくれたけど、そういう風な関係になるとはいってないし、望んでいるかどうかは……分からない。でも、わたしは望んでいる。それでもいい、と思っている。むしろ、千尋と契りたい、とすら思っている。どうすればいいのかやり方は知らないけど、わたしはセックスがしたいんじゃないかな。千尋と。わたしは千尋が欲しいんだ。心も、体も……。
わたしは千尋の残り香が残っていることに気づく。
「千尋……」
興奮と罪悪感がないまぜになる。その背徳的な高揚が、わたしの肉体に淫靡なものを湧出させるんだ。
わたしは静かに立ち上がった。
部屋を出る。
階段を下り、左折すると、流し場とトイレが併設してある脱衣所がある。
一枚の仕切りを隔てて、揺曳する蒸気と水の滴る音がした。
胸が釣り鐘を鳴らしたみたいに高鳴る。わたしの興奮は頂点に達しようとしていた。
周囲には誰もいない。
竹で編まれた行李には、千尋の脱いだ服があった。
よこしまな思惟が一過する。
わたしは恐る恐る、それに手を伸ばした。
かぐ。
犬みたいに、かぐ。
わたしはそれを鼻に押し付けて、すーすーとにおいをかいだ。
「千尋の匂いがする……」
余薫があった。このにおいをかぐと、ひどく安心する。精神の安定。わたしは気が狂ったように千尋の衣服をかぎとり、肺を通して千尋のにおいが、体の隅々まで行き渡るようにした。
気持ち悪い。
自分が気持ち悪い。
こんなことをしている自分が気持ち悪い。
でも。
気持ち悪くても。
たとえ気持ち悪くても、こうしていると、千尋をわたしの全部で感じ取ることができる……これは、すごく幸せなことだと思うんだ。