表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プシュケの心臓  作者: 密室天使
第1章 絵本をひらいてみた
16/54

第十六話 妹(4)

 社会は汚い。

 嘘にまみれている。

 わたしは汚い。

 禁忌にまみれている。

 現実は酷なだけ、むごい真実にあふれている。

 耐えられない。

 こんな弱いわたしに真実はいらない。必要なのは優しくて甘ったるい嘘だけ。

 甘ったるい、あの人の嘘だけ。




   ◆◆◆




「千尋」

「ん」と千尋はペンを止めてわたしを見た。

 二回の私室。

 兄はわたしのテーブルを借りて勉強に励んでいる。その光景だけでも極めて珍しい。千尋はあまりわたしの部屋に出入りしない……というのも、わたしが千尋を露骨に無視したりして、関係が険悪なものになっていたからだった。けれど、わたしを受け入れるという選択をした千尋は、折を見てわたしの部屋を訪ねるようになった。嬉しい。わたしはにやける顔を必死に隠して、何食わぬ顔で千尋を招き入れるんだ。

「なんだよ」

 わたしはベットに寝転びながら、「なにやってるの」とてすさびな風に質問した。わたしの片手には漫画が握られている。それで顔を隠した。その隙間から、千尋をガン見しているわたし……。今になって、千尋の顔を見るだけで胸がドキドキした。

「数学だよ」

「なに、二次関数?」と漫画をずらして千尋を覗き見る。

「中学生じゃないんだから」と千尋は柔和な表情をして、「おれがやってるのはベクトルだよ、ベクトル。数ⅡBの範囲」と応じた。

 はぅ、とこのわけの分からない感情に翻弄されながらも、「それって難しいの」と尋ねた。学校に通っていないわたしに、ベクトルなどといわれても分からない。

「難しいさ。すっげー難しい。手間もかかる。これを考案した数学者に文句を言ってやりたいね」

「うん……」

 漠たる静寂。

 わたしはベットのシーツに身を沈めた。なんだろう……恥ずかしい。わたし、千尋と会話してるんだ……。

 千尋と忌憚なく話していること、一緒の空気を吸っていること、千尋の目がわたしを見ていること、その全てに悶えそうになる。まるで小さい頃に戻ったみたいなんだ。漠然と兄のことが好きだった自分。憧憬と恋慕。そんな淡い感情を抱いていた幼少期――。

 千尋はペンを走らせて、ノートに記号を連ねている。

 ちゅーしたい。

 手を伸ばせば、千尋の体に触れることのできる距離なんだ。それに、心の距離も……近く、なってるのかな。どうなのかな。千尋はどう思ってるのかな。わたしのことを、緑場静絵を――どう思っているのかな。

 妹ではなく、一人の女性として、見てくれているのかな。

 千尋は自然体を保っている。わたしと違って、緊張した様子はない。……そんな千尋が愛しくもあり、恨めしくもある。わたしはこんなにドキドキしているよ。心臓が高鳴ってるよ。あなたは、わたしの部屋にきてもどうも思わないのかな。だとしたら、悲しい。

 段々と欲望が高まってくる。いつもと変わらない千尋を、犯したい。この手で、千尋を、汚したい。わたしと同じ感情を抱いてもらいたくて、わたしと同化してほしくて、そんな埒もない妄動をたくらむの、わたしは。

 実行には移さない。

 怖い。

 千尋が離れていくのが怖い。

 ずっとわたしのそばにいてほしい。

 あぁ……イカレてる。わたしは、イカレてる。わたしは今、実の兄に悪しき感情を抱いている。そして、その人を手放したくないから、その虚妄を必死に押さえ込もうとしている……。

 罪深い。

 わたしは罪深い。 

 でも。

「こっち、向いて」

 千尋は何気ない風にわたしを見た。

「あのね」

 ちゅーしてほしい。

「肩に髪の毛ついてるよ」

 わたしは手を伸ばして、千尋の肩をはたいた。

 ちゅーしてほしい。

 なんていえないよ。 




「千尋ー、お風呂」

 階下から母の声がする。 

「今行く」と千尋は立ち上がった。「おれ、風呂入ってくるから」

「いってらっしゃい」

「……いってくるよ」千尋は少し面食らったように笑い、わたしの部屋から退出した。

 静かになる。

 わたしはベットの上で体操座りになり、膝に頭を押し付けた。

 罪悪感がよぎった。

 お母さんの声がしたとたん、言いようもない羞悪が脳髄を貫いた。千尋の肩に置いていた手。服越しではあるけど、千尋には触れている。そのことがなんだか、ひどく悪いことのように思えてくる。だから、わたしは慌てて、ベットの上で後退し、千尋から離れようと思ったんだ。

 矛盾している。

 緑葉静絵は名状しがたい自家撞着を抱えている。

 行為に及んだことはない。好意こそあれ、行為に及んだことはなく、粘膜をこすり合わせたり、相手の口の中に舌をいれたりなんかしたことはない。前にトチ狂って千尋に迫ったことはあった。隙あらばやりたい、なんて心の底で思ってるかもしれない。わたしは千尋を蹂躙したい。

 しかしながら、心地よいとも思っている。この変哲もない距離感に安逸を感じているわたしがいる。

 距離感。

 近づきたいのか、そのままがいいのか、離れたほうがいいのか。

 近づきたいと思っていて、でも、離れている。

 良心の呵責、といえばいいのだろうか。わずかに残っている倫理観が、わたしの行動を阻害する。こんなに好きなのに、愛してるのに、ためらってしまう。ま、当然だよね。兄妹だもん。

 鬱々と沈み込むわたし。

 一人しかいない。

 千尋はお風呂に入っている。

 一人。

 一人……。

 兄と和解し、わたしを大切にしてくれると誓ってくれてから数日が経った。

 わたしに手を出すそぶりはない。

 わたしはスカートを着ている。丈の短いやつ。それと、白っぽいカーディガン。わたしは家の中にいるというのに、おしゃれには結構気を遣ってるんだ。女らしくあるよう、心がけている。化粧も少しした。

 それもこれも、千尋にわたしに女を感じて欲しいから。千尋がわたしに手を出しやすくするようにするため、ともいえるかもしれない。すっかり思考回路が変態チックになってる自分がいる。

 そもそも、こういう考え方自体がおかしいと思わなくちゃいけない。相手は兄で、自分は妹。家族。家族なんだ。だから、千尋もそんなことは思わない。千尋はわたしを大切にするとは言ってくれたけど、そういう風な関係になるとはいってないし、望んでいるかどうかは……分からない。でも、わたしは望んでいる。それでもいい、と思っている。むしろ、千尋と契りたい、とすら思っている。どうすればいいのかやり方は知らないけど、わたしはセックスがしたいんじゃないかな。千尋と。わたしは千尋が欲しいんだ。心も、体も……。

 わたしは千尋の残り香が残っていることに気づく。 

「千尋……」

 興奮と罪悪感がないまぜになる。その背徳的な高揚が、わたしの肉体に淫靡なものを湧出させるんだ。

 わたしは静かに立ち上がった。

 部屋を出る。

 階段を下り、左折すると、流し場とトイレが併設してある脱衣所がある。

 一枚の仕切りを隔てて、揺曳する蒸気と水の滴る音がした。

 胸が釣り鐘を鳴らしたみたいに高鳴る。わたしの興奮は頂点に達しようとしていた。

 周囲には誰もいない。

 竹で編まれた行李(こうり)には、千尋の脱いだ服があった。

 よこしまな思惟が一過する。

 わたしは恐る恐る、それに手を伸ばした。

 かぐ。

 犬みたいに、かぐ。

 わたしはそれを鼻に押し付けて、すーすーとにおいをかいだ。

「千尋の匂いがする……」

 余薫があった。このにおいをかぐと、ひどく安心する。精神の安定。わたしは気が狂ったように千尋の衣服をかぎとり、肺を通して千尋のにおいが、体の隅々まで行き渡るようにした。

 気持ち悪い。

 自分が気持ち悪い。

 こんなことをしている自分が気持ち悪い。

 でも。

 気持ち悪くても。

 たとえ気持ち悪くても、こうしていると、千尋をわたしの全部で感じ取ることができる……これは、すごく幸せなことだと思うんだ。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ